改革通信

NO.40(2005.12.22)

語呂合わせで勝手に日号を変えた日顕は永遠の笑い者。
日顕宗第二祖・早瀬も日顕を見習い「日号」を変えないのか


阿部信雄の本物の日号は「日慈」である。阿部は勝手に日達法主から相承を受けたと言い出し、さらに勝手に日号を日慈から「日顕」と変えた。盗人猛々しいとはこのことだ。

宗門の歴史で日号を自分で変えた僧侶はあとにも先にも日顕だけだ。ニセ猊座にふさわしいニセ日号だ。〃父親が日開だから親子で「開顕」か〃と、いまだに笑い話のネタにされている。

宗務院が十二月十六日付けでマスコミに「お知らせ」を出した。そこには、「早瀬日如能化が第六十八世法主となりました」とある。日顕宗の第二祖らしく、早瀬も日顕のように語呂合わせで日号を変えるかと思ったが、今さら能化として名乗っている日号を変える気はなかったようだ。

日顕の〃如く〃ニセ法主だから日如でいいじゃないかと、陰で笑っている者もいる。日号が笑い話のネタになるのだから、法主の権威も地に堕ちたものだ。

笑い話ではなく、生真面目に〃日顕宗開祖と二世で「顕如」とは、不吉な語呂合わせだ〃と眉をひそめる者もいる。なぜなら、本願寺の分裂の原因を作ったのが、本願寺十一世の顕如だからだ。しかも、顕如の没落を招いた織田信長との争いを「石山戦争」というのだから、二重の意味で不吉であると言うのだ。

顕如の時代、本願寺は管領や公家との縁戚関係を深め、大阪の石山本願寺城を拠点として、教団の最盛期を迎えた。しかし、一五六八年に上洛を果たした織田信長ににらまれ、延暦寺などと同様に圧迫を受けるようになる。

やがて信長が石山本願寺城の開け渡しを顕如に要求し、十年に及ぶ「石山戦争」が始まる。顕如は反織田勢力と同盟を組む一方で、自ら石山本願寺城に篭城した。しかし、同盟勢力が次々と信長によって滅ぼされ、一五八〇年に信長からの和睦の条件を呑み、顕如は石山本願寺城を去った。

ところが、顕如の子・教如はそれに反対し、それを一部の熱狂的な信徒が支持をした。これが起因となって、本願寺は顕如派の西本願寺と教如派の東本願寺に分裂した。

創価学会が出現する前、大石寺には「蓮葉庵系」と「富士見庵系」との派閥の争いがあった。日顕の父親の日開は蓮葉庵系であったが、日開と法主の座を争った有元広賀は富士見庵系であった。

学会の外護の信心により大石寺の派閥争いは、一旦は鳴りを潜めたが、今また、阿部・早瀬の「顕如」一派と日達法主の弟子たちとの争いが噂されている。大石寺は新たな平成の「石山戦争」の時代を迎えるに違いない。(編集部)



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