改革通信

NO.41(2005.12.28)

本願寺の「すす払い」は全国紙で報道されても、大石寺の新法主就任はローカル紙のみ。 今や、法主は上野村、田舎寺の和尚

宗務院渉外部が十二月十六日付けで、マスコミにせっせと新法主就任の「お知らせ」を出したが、全国紙はどこも相手にしてくれなかった。

地方ネタとして取り上げてくれたのは、「静岡新聞」、地元・富士宮の「岳陽新聞」と「岳南新聞」であった。何とか「東京新聞」も取り上げてくれたが、一段記事で十行の見過ごしてしまいそうな扱いだった。

これに比べて、十二月二十日に京都の東本願寺と西本願寺で行われた「すす払い」は、伝統の迎春準備として、朝日・読売などの全国紙で報道された。

今や、大石寺の新法主就任のニュースより、本願寺の「すす払い」のほうがマスコミには価値があるのだ。〃すすより軽い、大石寺法主〃なのである。

身延から見れば、大石寺は田舎の一末寺でしかない。法主も大石寺住職という扱いだった。いくら〃我々こそ、正統だ〃と叫んでみても、誰も相手にしない。そんな弱小教団だった宗門を世に知らしめたのが創価学会だった。創価学会の大折伏により、八百万信徒の日蓮正宗として名を馳せたのである。

ところが、日顕は謀略「C作戦」を実行して、創価学会を破門にした。その結果、大石寺は元の田舎寺に逆戻りしたのだ。

上野村の和尚となった早瀬は早速、十七日の丑寅勤行の導師を行なった。日達法主は信徒の便宜を考慮して深夜零時から行なっていたが、それを日顕が丑寅の時刻にこだわり、勝手にニ時半に変えた。

その結果、自業自得で日顕は体調不良を理由に丑寅勤行をサボることが多くなった。ある時など、「声が出ないから」と初座が終った途端に、一夜番の住職と導師を交代して大奥に帰った。七十歳の早瀬にとっても丑寅勤行は寿命を縮める重労働になるだろう。

早瀬が導師を努めた丑寅勤行に参加したある婦人が「今度の猊下は勤行が下手ね」と漏らしていたという。実は法器会の住職たちが心配していたのが、早瀬のダミ声である。お世辞にも良い声とは言えない。しかも早瀬の勤行には独特の節がついている。

「御開扉であの勤行をされると有り難みが減るな」と心配している者もいるが、どうせチョボチョボの参加者なのだから、大して影響はないだろう。(編集部)。



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