日蓮正宗問題研究
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『C作戦』の真相・底流

はじめに「嫉妬」ありき

今回の、日蓮正宗による創価学会「破門」問題の底流には、実は日顕法主はじめ宗門僧侶の抜き難い「信徒蔑視」、ひいては「学会憎し」の感情が渦巻いていることは、前号でも指摘しました。

一般的に考えれば、創価学会という巨大な信徒集団を擁し、物心両面にわたって十二分な外護を受けていた日蓮正宗が、何故、そうした「信徒蔑視」「学会憎し」といった感情に支配されるのか。だれもが理解に苦しむ面があると思われます。しかし、その僧侶たちの捩じれた感情、なかんずく日顕法主の極めて感情的な嫉妬心が、今回の問題の本質的な一面でもあるのです。

日蓮正宗に限らず、現代日本における既成仏教の僧侶は、中近世の頃のような「指導的知識階層」の地位を失い、技術職的な「お経を読む職人」に転落しています。換言すれば、自己のアイデンティティーを主張する手段を、「お経が読める」という一点にしか見い出だし得なくなってしまった、と言える面があると思います。

しかし、創価学会は、ほぼ全員が僧侶と同じように読経できる信徒集団です。本宗の修行の基本は、朝晩の五座三座の勤行であり、法華経の方便品、寿量品を読誦し、「南無妙法蓮華経」の題目を唱えることにあります。創価学会においては、熱心な会員指導が行われているために、だいたいだれもが勤行を実践できます。しかも、学会員信徒は「教学」(日蓮大聖人の教えを学ぶこと)においても、また「布教」においても、日頃の学会活動によって、すでに宗門僧侶を凌駕する実力に達している信徒も多いのであります。

いわば民衆のなかに生きる仏教本来の姿が、創価学会のなかに見出だされるともいえましょう。この現状は、一切衆生の救済を願われた宗祖の御精神に立つならば、心から賛嘆すべきものであります。しかし、お経を読めず、教学も知らない信徒を相手にすることで成り立ってきた既成仏教教団の僧侶にとっては、学会員の姿は、むしろ「脅威」と映ったということなのです。

否、現実社会の中で生きた仏法の実践をしている分だけ、儀式中心の僧侶信仰より、信徒の信心のほうが活気があり、歓喜があるという事実も否定できないのです。

こうして、いつしか日蓮正宗僧侶は、「僧の権威」を唯一の拠り所とするしかなくなり、ひいては、信徒を見下し、憎む卑屈な感情が宿るようになってしまったのです。

なかんずく、長年学会のリーダーの立場にいる池田名誉会長への嫉妬・敵愾心は、本当に凄まじいの一言でありました。

創価学会「破門」を断行した直後の日顕法主(平成4年正月)
創価学会「破門」を断行した直後の
日顕法主(平成4年正月)

本同盟の吉川幸道住職は昭和37年3月の出家得度ですが、僧侶たちの間では池田会長(当時)に対する悪口が陰で日常的に行なわれており、学会出身の少年・吉川氏が「池田先生」とでも言おうものなら、即座に鉄拳が飛んできそうな雰囲気であったといいます。事実、「あいつは信者なんだから、『池田』と呼び捨てにしろ」「信者の書いた本(池田会長の著作)を読むなんて、みっともないことを坊さんがするな」等々、ライバル意識丸出しの先輩僧侶が、入りたての少年僧侶を“洗脳”する場面を、私たちは数限りなく見てきました。

こうして、宗門僧侶全般に現在の反学会感情が醸成されていったわけであります。そして、こうした体質を最も代表したのが、日顕法主であり、多くの学会員の信望を集める池田名誉会長に、「慈悲」とは全く無縁の「嫉妬」の心を抱いてしまったのであります。「はじめに嫉妬ありき」。これが、悲しいかな、慈悲を説く僧侶の現実であり、宗門による学会の“謀略破門”の底流に流れるものだったのです。


 

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