日蓮正宗問題研究
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『C作戦』の真相・底流

それは「お尋ね」文書から始まった

さて、今回の問題の直接の発端となったのは、宗門が藤本総監名で平成2年12月16日付で「お尋ね」と題する一方的な詰問書を、学会に送付したことでした。これは、その年の11月16日に行われた創価学会の本部幹部会での池田名誉会長のスピーチのなかに、法主や宗門僧侶を批判する発言があったとして、釈明の回答を求めるものでした。

学会側は、突然のことでもあり、またこの文書の前提になっているテープの出所が不明で、改ざんされた恐れもあるとのことで、当然のことながら納得のいく話し合いを要望してきました。

ところが、宗門側はあくまで話し合いを拒否。文書による回答を執拗に迫ったのです。この底心には、前号で特集した『創価学会分離作戦=C作戦』を何としても遂行したい、との宗門首脳の陰謀があったといわざるを得ません。以来、何度も学会からは話し合いの要望が出されていますが、宗門はすべて拒否し、一度も実現していないのです。

事実、この「お尋ね」文書は、回答を求めるというより、はじめから何とか池田名誉会長に謝罪させようという意図のうえに作られたものでした。しかも、同文章のなかには、名誉会長の話のテープの反訳を、意図的に改悪したり、根拠のない伝聞による誹謗中傷の類いが含まれており、これらの点を学会から指摘された宗門は結局、謝罪と撤回を余儀なくされたのです。

宗門と学会の主張を比べた次貢の資料を御覧になれば、宗門の主張がいかに理不尽で、言い掛かり的なものであったかは、どなたにでも御理解頂けると思います。


宗門がテープの反訳ミス認める

■ 宗門側の主張 ■
数本のテープを照合

「宗務院として、このテープについて数本のテープと照合しつつ、厳密な調査をいたしましたところ、改竄されたものではないことが判明いたしました」(「お尋ね」)

□学会側の主張□
文書より話し合いを要望

改竄されたテープであったり、不確かなものであった場合、それを根拠に公式文書としたのでは、総監の重大な責任問題になる。その点から文書ではなく話し合いの方がいいのでは、とお願いしてきた。話し言葉による発言を引用した文書にありがちなことだが、今回も、名誉会長の発言として引用されたものは、大事な部分で実際の発言で違っており、それにより、発言の意味が全く違ったものになっている。そこで具体的なテープの再生・反訳の不正確さ、杜撰さを指摘し、その一つ一つが、テープが改竄されたものであるか否かを判断する重要な材料なのでと、明快な回答を求めた。(「『お尋ね』に対する回答」)

■ 宗門側の後退 ■
テープ反訳に相違、お詫びし、撤回する

宗務院として、「『お尋ね』に対する回答」を一読し、改めて池田名誉会長のスピーチを聞き直したところ、確かに当方のテープの反訳に相違がありました。但し、故意によるものではなく、テープが聞き取りがたかったことによるもであります。ともかく相違していた点、及びそれに基づいてお尋ねした件に関してはお詫びし、撤回します。(「『お尋ね』に対する回答」についての指摘)


伝言による決めつけも

■ 宗門側の主張 ■
親鸞と比較するのは私的な法門

池田名誉会長の発言として、大聖人と親鸞のイメージを比較し、「親鸞は親しみやすく、大聖人は強いイメージがあり、これではこれからの折伏が出来ない」などと言われたそうです。また、「大聖人の法門の中のよいところを判りやすく説く私のスピーチを元にせよ」というのも、池田教による大聖人観であって、大聖人の法門の全体ではありません。勝手に大聖人の法門を分断するのは、私的な法門であり、明かな誤りと思います。(「お尋ね」)

□ 学会側の主張 □
伝聞を確かめず公式文書にする悪意

「親鸞の件については、名誉会長が、いつ、どこで、誰に、どういう内容で言ったのか。この点について、総監より、是非とも責任ある回答をお示しいただきたい。単なる伝聞を確かめもせず公式文書にし、それを前提として『仏法違背である』などと信仰者にとって致命的名といえる断定を下すのは、名誉会長を陥れようとする悪意以外の何物でもありません。(「『お尋ね』に対する回答」)

■ 宗門側の後退 ■
出処を明かせないので撤回

「確かな筋から聞いたことではありますが、これを提出した人を証人にすることは現時点では困難であり、出処を明かせませんので、今回はこの件について『お尋ね』を撤回いたします」(「『お尋ね』に対する回答」についての指摘)

□ 学会側の見解 □
問題をすりかえた撤回と人権感覚の欠如

「お尋ね」文書は伝聞をもとに、「池田教による大聖人観」「私的な法門であり、明かな誤り」などと断定しており、これは信仰者にとって致命的な決めつけ、最大の名誉毀損である。

撤回の理由は、証人を出せないためにやむなく撤回するというニュアンスのものであるが、そもそも名誉会長は「お尋ね」文書にあるような発言を全くしておらず、真実の証人などいるはずはなく、問題をすりかえる全くの詭弁である。

宗務院当局は伝聞事実について、その真偽の確認をせず、それを前提として、およそ常識ある宗門人であれば思いもよらないほどの中傷的言辞をもって、最大の功労者である名誉会長を避難したということになる。あまりに常軌を逸したものであり、これを「撤回」で済ませるなどということは、人権感覚の欠如もはなはだしいと言わなければならない。(「『宗門文書』の誤りに対して重ねて抗議」)


第九『歓喜の歌』は「外道礼讃」!?

「お尋ね」文書には、まことに低次元の中傷が列挙されており、私たち同門の僧侶としては、全く情けない限りであります。例えば、11・16スピーチで名誉会長が、あの世界的な不朽の名作・ベートーベンの第九の中の「歓喜の歌」の合唱を提案したことについて、宗門はなんと「外道」礼讃であると断定し、重大な「教義問題」であるとして非難したのであります。文化性も無視した、宗門の閉鎖的独善体質が露呈したものといえましょう。

■ 宗門側の主張 ■
ドイツ語で歌うのは外道礼讃

シラーの「歓喜に寄す」の原詩は、キリスト教の神を讃歎した内容である。したがって、これをドイツ後で歌うということは外道礼讃となり、大聖人の御聖意にも反し、下種本門大法の尊い信者が、キリスト教を容認・礼讃することになる。(「お尋ね」)

□ 学会側の主張 □
「歓喜の歌」は人間のうちからの喜び

シラーの原詩は「神々の」という言葉を使っているが、詩全体はキリスト教の神を礼讃しているものではない。「歓喜の歌」は、自己のうちにある神々しい力を賛美しているのである。それは人間の内からの喜びである。このことは、広く一般に理解されているもである。(「『お尋ね』に対する回答」)

第九『歓喜の歌』は「外道礼讃」!?

キリスト教の「神」を指す言葉は唯一神なので、必ず単数形で表現される。ところが、「歓喜の歌」のドイツ語の歌詞は「神々の」と複数形で表されている。多くのベートーベン研究家によっても、直接にキリスト教の「神」を指すのではなく、どのような宗派性をも超越した「崇高なるもの」を指すことが通説となっている。(「四国婦人部の講義書」)

◇ 識者の声 ◇

魔女狩りに似た宗教的独断
「詩には、『Gotter(神々)』という複数の表記が使われているように、一神教であるキリスト教の神を称えるものではない。言葉の意味としては『聖なるもの』『聖的なインスピレーション』といえる」
「『第九』をドイツ語で歌うことが、キリスト教の神を称えることになり、また、他宗を礼讃するもである旨、宗門から指摘があったと聞いた。前者はドイツ語のごく初歩的な認識を欠いたところからくる誤解であり、後者は、人間精神の普遍的な昇華がもたらす芸術を、無理やり宗教のカテゴリーに当てはめ、邪教徒を作り断罪する、あの魔女狩りにも似た宗教的独断の表れである」
(河端春雄・芝浦工業大学教授、聖教新聞一月二十四日付)
「神札」がよくてなぜ「第九」がだめ?
「日本の場合、一神教の前に“疑似”が付く一つの理由は、本来厳格であるべきことが曖昧にされ、寛容であるべきことが禁忌とされることですが、戦時中に『神札』を受けた宗門がベートーベンの第九交響曲がだめというのは、まさに象徴的でしょう」
(樋口謹一・京都大学名誉教授、聖教新聞一月十八日付)