日蓮正宗問題研究
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宗門問題の本質を知るための「資料集」1

資料紹介「法主の大醜聞」

ここでは本書に収められた日顕法主のスキャンダルの中から主なものを紹介します。

●スキャンダル1 “愛人・隠し子事件”(本書82ページ)

日顕法主の旧姓は阿部信雄。昭和18年、本山大石寺に在勤していた信雄は母・妙修に、政子(現日顕法主夫人)との結婚を勧められる。しかし、信雄には、それ以前から交際していた“別の女性”がいた。大石寺塔中・蓮成坊の娘、T子である。信雄より3歳年下であった。

結局、信雄はT子ではなく、政子と結婚した。そして2年余後の21年、戦争から復員していた信雄は、実家の蓮成坊に里帰りしていたT子とバッタリ再会する。

信雄と政子の間には、すでに長男が生まれていた。だが、T子は里帰り中の人妻とはいえ、かつての恋人。二人はたちまち深い関係になったという。が、困ったことにT子は妊娠した。時期的に見ても誰の子かは明らかだった。信雄には妻子もいる。現在のように簡単に中絶できる時代ではなかった。

9月、T子はついに女児を出産。N子と名付けられた。

N子は小学校2年生の頃、学校の休みに義母に連れられた本山の蓮葉庵で一度だけ、日顕と会う。日顕は少女をじっと見て、「そうか、おまえがN子か。こんな大きくなって」と目に涙を滲ませたという。

●スキャンダル2 吉原通いで父の死に目に会えず(本書76ページ)

日顕法主の父親は日開といい、これまた日蓮正宗の第60世の法主であった。昭和18年、この日開が死亡したが、その時の信雄(日顕法主)の行状とは……。

この年の11月20日、幼な友達の久保川(後の「正信会」議長)は、信雄と二人で出征送別会を開こうと、浅草に繰り出した。質素な送別会が終り、吉原遊郭に出たところで、信雄から「オレは寄るところがあるから」と告げ、久保川と別れた。

久保川は、12時すぎ、当時寄宿していた江東区の砂町教会(後の白蓮院)に帰った。すると、留守居の女が「日開元法主が危篤という連絡があった」と告げた。

驚くより先に信雄に知らせようと思ったが、吉原で別れ、あとはどこにいったか皆目分からない。遊郭に泊まったことは当然としても、確かめようもない。久保川自身はあわてて飛び出し、「蓮葉庵」にかけつけると日開はすでに死亡していた。一方、当の息子・日顕は遊郭で遊んでいたために、親の死に目に会えなかったのである。

●スキャンダル3 法主が“パイプカット”?(本書99ページ)

東京・墨田区にある本行寺の住職時代の信雄(日顕法主)は、まるで“盛り場の落し子”のように、夜の街へ繰り出していた。だが、どこで遊ぶにしろ、女を妊娠させることだけは、注意しなくてはならない。

そこで信雄は、遊びの裏表に精通した岩波法円という老僧に相談したところ、岩波は当時ようやく日本に入ってきたばかりのパイプカットを教えた。「こんな便利なものかあるんだ。手術は痛くもないし、健康にはなんの心配もない。しかもなんの不安もなく遊べる」

そんな岩波の言葉に信雄は一も二もなく飛びついたという。その後、信雄が“安心”してその道に溺れていったことはいうまでもない。

この本行寺時代の爛れた行状の延長線上にあるもの。それが、昭和38年、アメリカでの初の出張御授戒のさい、シアトル市で起こした売春婦とのトラブル、あの「シアトル事件」なのである。

●スキャンダル4 京都・平安寺でも遊興三昧(本書126ページ)

昭和38年、信雄(日顕法主)は京都・平安寺に赴任した。しかし、信雄の遊びぶりは本行寺時代と変わらないばかりか、さらにエスカレートしていく。

先々の宴会では、気に入った芸者がいるとどこかに姿を消すこともあった。安待合や大阪・ミナミのいわゆるピンクサロンにも、よく出入りしていたという。

昭和39年、43歳になった信雄は、熱海の芸者と深い仲になる。信雄はこの芸者に夢中になり、ついには政子と離婚して、女と再婚するといい出し、注意した母の妙修尼をもどなりつけたという。

●スキャンダル5 日顕は日開の実子ではない?(本書55ページ)

日顕法主の父は、阿部日開法主と言うことになっている。だが、日開法主はいわゆる“無精子症”であった、と宗内では言われている。

では、日顕法主は誰の子か。実は、日顕法主の母の妙修尼が、常泉寺塔中の本行坊の住職・高野法玄(後に日深と名乗る)と関係してできた“不義の子”だというのである。そのせいか、日開は長い間、信雄を長男として認知しようとしなかった。

これを裏づけるように、「日顕法主の父親が日開だなどとは、誰も思っていない」と、昔を知る僧侶は口を揃えていう。「あの高野法玄(日深)ならやりかねないわ」と元法主夫人までが語っていたのである。

確かに、どちらかといえば細面で、狡獪な表情の日開と現在の日顕法主は似ても似つかない。むしろ、頬の丸さのあたりや目元は法玄とそっくりである。これが事実とすれば、日顕法主の“淫蕩の血”は根深いものであり、まさに日顕ファミリーとは、法滅の“家系”だったといえよう。