日蓮正宗問題研究
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平成の宗教改革を知るための「資料集」3

資料紹介「地涌からの通信」<30> 不破 優 著

<日顕法主狂って曰く「供養する信徒は僧を堕落させる悪い奴」
 自分の堕落した罪を信徒になすりつけるこの幼児性を見よ> (24ページ)

五月二十六日午後二時から四時八分まで、大石寺大講堂で全国教師寺族指導会がおこなわれた。日顕法主は、話の中で、堕落僧侶の開き直りぶりを見せた。以下はその日顕法主の話。

「だから、私がみなさん方に申し上げたいのは、暴露だとか脅し記事なんかに恐れなさんな!そんなものに、いま、私がチョット昔、チョット、まっ、ある若い頃、まー、うー、なんだ、まー、人間だからね、まっ、いろいろ多少はあるよ。若いうちは、とくに。いいじゃないか、人は!なにも、それを暴露されたことが、堂々と『あー、私は若いときにチャントあそこへ遊びにいきましたよ』と(笑い)堂々と言い切るくらいの覚悟を持ちなさい!

また、学会のね誹謗なんてね、ウソもあれば本当もあるだろう、少しは本当も。(笑い)大勢の中には。けれどね、どれひとつ取り上げたからってね、じゃ、それでもって我々が手を、警察でもって、あの、手に手錠かけられるというようなことありますか?まったくありゃあいない!」

ワッパが手に嵌まらなければ何をしてもいいというのが、日顕宗の宗旨のようである。このような馬鹿げたことを“法主”の地位にある者が、感情的になって吠えるようにまくしたてる。日蓮正宗は、もうおしまいである。御本仏を恐れない者が、“法主”になってしまったのだから。挙句は、

「彼らは、ジーッと御供養して信仰やって、坊さんが堕落するのを待ってたんです!これは、そう言えるんです。そうして、最後は堕落しきったところで、我が宗門全部を利用して適当に料理しょう。うん。いこう。これが、いままでの彼らの本心ですよ」

と、仏前に供えられた御供養を掠め盗って遊蕩三昧をした我が身の罪を篤信の信徒になすりつける。供養した信徒が悪いのか、供養を広宣流布とは無縁の放蕩に使って堕落した僧侶が悪いのか、誰が考えてもわかる善悪である。自称「僧」も、こんな論理を言い出してはおしまいだ。

<六万登山の余波で信者を盗られた正信会が宗門に宣戦布告
 大義なき僧侶らの“仁義なき戦い”は両者の邪を顕然とする> (44ページ)

正信会機関紙『継妙』(平成6年6月1日付)が、去る5月8日、京都市・京都会館において行われた「第19回 日蓮正宗法華講全国大会」の模様を報じている。

同紙によれば結集人員は公称三千名ということだから、昭和55年8月24日に、東京・武道館でおこなわれた「第5回 日蓮正宗全国檀徒大会」の公称参加者一万三千名と比べ、数段勢力が衰徴したことになる。

この大会において注目されるのは、正信会が公式に日顕宗と対決することを宣言したことである。これまで正信会は、創価学会と宗門との対立について「対岸の火事」視しており、あわよくば、脱会者が日顕宗に不満を持ち自分のほうに流れてくるのではないかと淡い期待感すら持っていた。

ところが現実には、脱会者が日顕宗を経て正信会まで流れてくることはほぼ絶無に近く、淡い期待は裏切られてしまった。

それでは、正信会が日顕宗に対し、今回の大会で宣戦布告したのは、ただ単に日顕宗の檀徒が流れ込んでこないと見限ったからなのだろうか。真相は正信会にとって、もっと切実なものがあった。逆に正信会の檀徒が、日顕宗に逆流しはじめるという現象が出はめていたのである。

正信会副議長・近藤済道氏は、同大会における「現況報告」において、

「本日ここに、現宗門に蔓延する「法主イコール大聖人」との誤った法主本仏論こそ、諸悪の根本の大謗法と糾弾し、ついで六万恒河沙を即六万人と結びつける短絡的思考にもとづく馬鹿げた行事は、純真なご信徒をただ苦しめるだけである。ゆえに即刻中止せよと、阿部宗門に申し上げおきます」
(平成六年六月一日付『継命』)

と述べ、正信会議長・渡辺広済氏も、以下のように発言をしている。

「この七月に実施を試みている『法華講六万人総登山』、阿部日顕師が言い出したことですから誰も反対出来ない。しかしどう考えても人数が足りない。そこで学会員を折伏しょうとするけれども、どうもうまくいかない。そこで、苦しまぎれに正信会のご信者に秋波を送って、何とか頭数だけでも揃えようと苦労しているらしい。 (中略) 『甚深の意義』で六万人を登山させるのも、七万人を集めるのもご勝手ですけれども、人数揃えのために、せっかく真面目に信心している正信会の法華講員を迷わすことは絶対に許せません」
(同)

この渡辺氏の発言から、僧侶の思考がよく読みとれる。「対岸の火事」の場合は、心中あざけって高尚なことを言っているが、自分の信者が盗られるとなると感情的になり、瞬時に態度を硬化させ敵愾心をむき出しにする。

これが、僧侶の本性である。信者を生活の糧としてしか見えてない僧侶は、この程度の対応しかできないのである。


 

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