仏事‐常識と非常識

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<葬儀>

高騰する費用の問題や形式に堕し過ぎている在り方に、さまざまな議論が噴出している葬儀。
葬儀とは、どうあるべきものなのか、仏法本来の考え方を問い直します。

葬儀で僧侶を呼ぶのは近年の習慣

本来、仏教は葬儀と無縁

“葬式仏教”という言葉があるように、現代では、お葬式のときに寺院から僧侶を呼び、お経をあげてもらうという習慣があります。しかし、仏教の歴史をみると、そうした習慣は釈尊の時代にも日蓮大聖人の時代にもなかったことがわかります。

釈尊は、入滅にあたって“僧侶は私の葬儀にかかわるな。それより修行に専念しなさい”と遺言し、釈尊の葬儀は在家の信徒のみによって執り行われました。日蓮大聖人の時代も、大聖人が信徒の葬儀に参列した例はありません。

歴史的にみても、鎌倉時代に著された『吾妻鏡』を見ると、葬儀、埋葬は、主に陰陽師が司っていたようです。しかし、当時は庶民の葬儀そのものが一般的ではありませんでした。今でこそ、葬式というとなにか僧侶の専売特許のようになっていますが、それは徳川時代に「寺請制度」がしかれ、住職が檀家を支配する檀家制度の体制になってからのことです。

今日まで、日本の葬儀の形式は、さまざまな文化や風俗、宗教の影響を受けて出来上がってきました。例えば、今でも地方では「野辺送り」の葬列などがみられますが、これは日本土着の“霊魂思想”がルーツです。また、祭壇・位牌・年忌法要などは儒教文化、戒名・引導・火葬は仏教の各宗派、お清め塩などの「ケガレ」の考えは神道、さらに黒の喪服や献花は西洋文化の影響とされています。

日蓮大聖人の御書に照らせば、葬儀の有無や形式は成仏とはまったく関係ありません。御書には「い(生)きてをはしき時は生の仏・今は死の仏・生死ともに仏なり」(御書1504n)とお示しです。死んで葬式を出したから「仏」になるわけではなく、あくまで、本人の生前の信心によって成仏が決まるのです。すなわち、正しい信心を貫いている方は「因果倶時(いんがぐじ)」の法理に則り、すでに生きている間に成仏の軌道に入っているのです。

元来、仏教とは、生老病死の四苦に悩む現実の衆生をいかにして励まし、正しき信仰を教え、幸福の彼岸へと導いていくか、そこに原点があります。

臨終を支えるのは題目の功力

そのうえで、大聖人は一生の仏道修行の総決算ともいうべき臨終の姿を重要視されています。「臨終の思うやうにならざるは是(これ)大謗法(ほうぼう)の故なり」(御書112n)との御文もあります。何があっても御本尊を信じ抜く大確信があってこそ、生死の大海を渡りきれるのです。「己心と仏心と一心なりと悟れば臨終を礙(さ)わる可(べ)き悪業も有らず」(御書569n)とも仰せのように、御本尊と自分が一体になると感じられるような真剣な唱題が必要です。

さらに、いざ臨終を迎えんとするときも、大聖人直結の信心の血脈が流れる同信の方々の力強い題目と、肉親の方々の真心の題目によって支えられるのですから、臨終の一念への最大の援助となることは間違いありません。

この臨終を遺族の側に立ってみれば、愛する肉親との死別は、だれもが避けては通れない苦しみだといえます。しかし、仏法では、まことの信心に立った肉親による心からの追善回向(えこう)こそ、いかなる死者の生命をも仏界の軌道へと導き、必ずともどもに成仏していけると教えられています。御書には「父母の成仏即ち子の成仏なり、子の成仏・即ち父母の成仏なり」(御書813n)と、親子一体の成仏が説かれています。

葬儀において大切なことは、僧侶の導師などではなく題目の力です。その意味で、日蓮大聖人の御遺命(ゆいめい)たる広宣流布に励む人々が参列する友人葬では、真実の回向となる真心の唱題行が営まれるのですから、大聖人の御精神に最もかなった葬儀であるといえましょう。

(日蓮正宗青年僧侶改革同盟『仏事―常識と非常識』《潮出版社》より)


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