仏事‐常識と非常識

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<戒名>

葬儀に欠かせないものと考えられてきた戒名や位牌、そして引導。その本来の意味を問い、これからの正しい葬儀の在り方はどうあるべきかを考えます。

戒名の本義は生前の修行名

日蓮大聖人の時代にはない「死後戒名」

戒名とは、もともとは、僧侶が出家得度するときに、戒律を守ることを誓う意味で、師匠から授かる“修行名”をいいます。この「戒名」のことを「法名」ともいいます。例えば◯◯◯◯信士というような「死後戒名」は日蓮大聖人の時代にはありませんでした。

この「死後戒名」が定着したのは、江戸時代の寺請制度以来といわれています。江戸幕府の宗教政策によって、庶民は住職にキリシタンでないことを証明してもらわなければならず、この政策のために、庶民にとって住職から仏教の「死後戒名」をもらうことは不可欠でした。それで、この「死後戒名」がいっきに普及したのです。やがて、少しでも立派な戒名をもらうことが社会的にも価値あることとされるようになり、僧侶の側も戒名を“商品”とみなし、供養の額によって戒名の“ランク”がつきはじめたのです。今日、社会的に問題になっている「差別戒名」はこのときから始まっています。その意味で、戒名は、仏教本来の平等の精神から大いに外れ、むしろ日本では差別の温床ともなっている問題であるとさえいえます。

また、いくら立派な戒名をもらっても、それで成仏が約束されるわけがありません。まして日蓮大聖人の仏法に背く大謗法を犯している現在の日蓮正宗宗門に供養して戒名をもらうのは、謗法与同の罪になることはいうまでもありません。

修行名としての戒名の本義から考えれば、広宣流布に戦い抜いた故人のお名前こそ、大聖人が御照覧あそばされる、尊い仏道修行者の“戒名”ではないでしょうか。

どんな方の名前も、入信とともに妙法の光に照らされ、その名前のもとに広宣流布の戦いを繰り広げていくわけですから、その名前には深い仏法上の意義が具わっていくと思います。

大聖人は、四条金吾に対し、「法華宗の四条金吾・四条金吾と鎌倉中の上下万人乃至日本国の一切衆生の口にうたはれ給へ」(御書1118n)と仰せです。今では、世界中の妙法信徒の間で四条金吾の名前は知られています。その意味では、故人に別の「死後戒名」をつけ、それをありがたがるということは、むしろ、故人の生前の功績をないがしろにすることにつながりかねないのではないでしょうか。

「引導」は禅宗が弘めた葬式作法

また、葬儀に関連して「引導」について確認しましょう。

「引導」の仏教語としての本来の意味は、仏が衆生を仏道に「引き導く」ことをいいます。それが、従来の葬儀の中では、僧侶が死者に成仏の“資格”を授けることに変わってしまいました。僧侶が引導を渡して「成仏させてやる」という、僧侶の権威のための道具になってしまったのです。

葬式で僧侶が引導文を読むのは、最初、中国の禅宗が始めたそうです。日本でも禅宗の流行とともに広まったようです。

したがってこれも、大聖人の仏法とは本来まったく関係がありません。この「引導」は、宗門では他宗の影響を受けて取り入れた化儀の一つであり、そのやり方も時代や人によってさまざまでした。

この引導に対して、日有上人は「仏事引導の時、理の廻向(えこう)有るべからず(中略)経を読み題目を唱えて此の経の功用に依って成仏す」(富士宗学要集1巻66n)と仰せです。この文について、日亨上人は、「他宗他門の様に理智じみた広漠たる言辞を宣ぶべからず」(同177n)と、他宗のように、何か“ありがたい”難しい引導文を用いてはならないと示されています。僧侶の観念めいた引導で故人が成仏するのではなく、あくまで御本尊の功力によって成仏するのです。

日亨上人はまた、本宗の葬儀は、世間普通の「因襲的に・形式的に・死んだから僧侶に引導渡してもらって・焼く埋めると云ふ通例とは、大(おおい)に趣(おもむき)を異にす」(同163n)るものだと教えられています。世間のように習慣や形式で僧侶を呼んで引導を渡してもらうのでは大聖人の仏法ではありません。葬儀の在り方として大切なことは、何よりも信心をもって故人の成仏を祈ることに尽きるのです。

(日蓮正宗青年僧侶改革同盟『仏事―常識と非常識』《潮出版社》より)


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