仏事‐常識と非常識

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<納骨>

葬儀に欠かせないものと考えられてきた戒名や位牌、そして引導。その本来の意味を問い、これからの正しい葬儀の在り方はどうあるべきかを考えます。

遺骨は礼拝・供養の対象ではない

庶民が遺骨を供養する風習は近世から

日本古代における、遺体への対応の仕方(弔い方)は、上層階級にあっては古墳などに葬り、庶民は貝塚などに遺棄(いき)するというのが普通でした。やがて火葬が貴族階級に普及するにつれ、墳墓に変化が起こります。平安時代の後期になると、上層階級は墓に塔(卒塔婆)を立てる、現代の原形にあたる習慣が生まれてきます。

鎌倉期になると、墓の標識として石塔婆を立てることが浸透しました。庶民は依然として遺棄に近い状態でした。庶民が墓(石塔)をもつようになるのは、室町時代から江戸時代にかけてです。近世にかけては土葬が主流で、庶民の多くは、山に遺体を埋めていました。地域によっては、庶民の墓は山のなかの「埋め墓」と、詣でるため寺域等に作られた「参り墓」と両方が存在しているところが多くありました。墓に遺骨が納まっていることが当たり前の状態となったのは、火葬が庶民に普及し始めた明治になってからのことです。

法華経には、「舎利(しゃり)を安んずることを須(もち)いず」(開結391n)とあり、宝塔のなかの経典を尊重すべきであって舎利(骨)は用いないと説かれています。遺骨は礼拝・供養の対象ではなかったのです。

大聖人も、遺骨を供養しなさいと仰せられた御書はありません。例外的に、佐渡期以前に「木絵二像開眼之事」で、「法華を悟れる智者・死骨を供養せば生身即法身・是を即身といふ、さりぬる魂を取り返して死骨に入れて彼の魂を変えて仏意と成す成仏是なり」(御書470n)と死骨供養に言及されています。しかし、これは、当時、諸宗の邪師によって行われていた死骨供養を破折し、死骨供養を行うとすれば法華経の智者によらなければならないとされているのです。決して死骨供養の化儀そのものを勧められているのではありません。もし、死骨供養が絶対的なものであったとしたら現実と矛盾してしまいます。何故なら、大聖人御在世当時、墓を所有していたのは、武士などの特権階級の者たちに限られていました。当然、農民信徒にしっかりした墓はありませんでした。また、遺骨にずっと魂が宿っているとしたら、それこそ三世の生命を説く仏法からは異質のものになってしまいます。したがって、遺骨への礼拝供養は成仏の絶対的要件ではありません。

納骨、墓参は成仏と無関係

また、大聖人御在世当時、平安時代から始まった高野山を中心とする霊山(れいざん)納骨の風習が高野聖(こうやひじり)によって全国的に広まっていました。その影響を受けてか、阿仏房の子・藤九郎守綱が父の舎利(骨)を首にかけて身延の大聖人のもとにやってきたり、富木常忍が母の遺骨をもってきたという話が御書に出てきます。それに対して大聖人は、親に対する子の孝養の心を賛嘆されています。あくまで、大聖人は、遺族の思いに対して本当に真心で接しておられたのです。

その意味で、大聖人は本山納骨を奨励されたのではなく、「霊山納骨」という世間の風習に対して、他の聖地ではなく身延山にもってきたことを習慣・人情のうえからめでられたと考えられます。

御書にある大聖人の墓参は、報恩やお礼参りの意味で、風習のうえからのお振る舞いであり、回向には墓参が大事であるという主旨ではありません。もし、故人への追善回向のために墓参が必要であるとするなら、親への報恩を大事にされた大聖人が、「父母の墓を見ずして数年なり」(御書1413n)ということはなさらないはずです。

遺骨そのものには、いわゆる“霊魂”はなく、また追善回向のために遺骨が大事なのではありません。故人の成仏・不成仏と遺骨は直接関係がないからです。ただし、最愛の人、大変に世話になった方々などが亡くなられたとき、その思いが強ければ強いほど、後に残された遺骨を大切に葬ってあげたいというのは人情です。墓参にしろ、埋葬の仕方にしろ、そういった心情を大切にするのは当然です。ただし、納骨で信徒を脅し、そのうえ遺骨をめぐるトラブルを起こすような現在の日蓮正宗宗門は、葬式仏教としても失格の宗教です。

(日蓮正宗青年僧侶改革同盟『仏事―常識と非常識』《潮出版社》より)


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