仏事‐常識と非常識

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<彼岸・法事>

「お彼岸」とは、仏教にない日本独特の風習

「お彼岸」と仏教の「彼岸」とはまったく違う

「お彼岸」はもともと仏教にはない、日本にしかない風習です。「彼岸」という言葉そのものは仏教語ですが、仏教本来の言葉である「彼岸」と、日本の習俗にある「お彼岸」とはまったく別のものなのです。仏典に説かれる「パーラミター」という梵語はそのまま音写すれば「波羅蜜」ですが、意味をとって訳せば「到彼岸」となり、向こう側にある「さとりの岸に渡る」こと、つまり「成仏の境地」を表しています。したがって仏教語の彼岸本来の意味には、今日の先祖供養を表すお彼岸の意味は全くありません。御書にある彼岸という言葉も、全部、仏道修行の到彼岸の意味です。

現実に、彼岸を仏教儀式として真っ先に着目したのは浄土宗です。春分と秋分を選んで彼岸会を行うのも、太陽が真東に昇り真西に沈む時節であり、その日没の場所がまさしく極楽浄土を連想させるところから、とくに極楽往生を願う修行の日と定めるわけです。浄土教発祥の地・中国でも、春・秋分に法会が行われた記録はありますが、あくまで仏道修行の場であって、先祖供養ではありませんでした。

日本でお彼岸が成立した背景には、古来からの太陽崇拝と祖霊信仰の影響があります。日本には、季節の変わり目になると農業の神である太陽に豊作を祈り、先祖の霊に加護を願う祭日がありました。この慣習と彼岸会が融合し、西方浄土への往生を願い、かつ先祖を供養する日本独特のお彼岸の行事が起こり、やがて仏教界全体、庶民一般にまで広がっていったと考えられます。

もとより、日蓮大聖人の仏法では「浄土と云ひ穢土(えど)と云うも土に二(ふたつ)の隔(へだて)なし只我等が心の善悪によると見えたり」(御書384n)と仰せです。彼岸の浄土といってもこの現実世界を離れてはありません。一切衆生の生命が極善の仏界を基調とするとき、苦悩の「此岸」はそのまま「彼岸」の楽土へと転ずるのです。この「到彼岸」すなわち成仏の境界に至る日蓮大聖人の仏法の実践でいちばん大切なことは、私たち自身が日々の信心で自ら仏界の生命を湧現することです。

そのうえで、「お彼岸」をどうとらえるかについては、まず「回向」の本義から考えてみたいと思います。

「回向」とは自身の功徳善根を向けるもの

回向とは、自身の積んだ仏道修行の功徳を他者に廻らし向けることです。日蓮大聖人は「自身仏にならずしては父母をだにもすく(救)いがた(難)し・いわうや他人をや」(御書1429n)、「我が身いまだ法華経の行者ならざる故に母をも仏になす事なし」(御書1111n)と仰せです。つまり、回向する人自身の功徳善根が故人に廻らし向けられるのですから、回向する側が、どれだけ仏法の善根を積んだのか、あくまでも一人ひとりの信心が大切になります。

また、大聖人は「今度頸(くび)を法華経に奉りて其の功徳を父母に回向せん其のあまりは弟子檀那等にはぶく(配当)べし」(御書913n)と仰せです。これは竜の口の法難のときの大聖人の御心境です。広宣流布のために自行化他にわたる我が身を惜しまぬ実践があってこそ、真の回向となるのです。さらに、「弟子檀那等にはぶく」とも仰せのように、回向の本来の意義は、死者に限らず生きている他者にも功徳を送り、その幸福を願うことをいいます。

この回向にあって基本となるのは勤行・唱題です。「御義口伝」には「白毫(びゃくごう)の光明は南無妙法蓮華経なり(中略)日蓮等の類(たぐ)い精霊を訪う時法華経を読誦し南無妙法蓮華経と唱え奉る時・題目の光無間に至りて即身成仏せしむ、廻向の文此れより事起るなり」(御書712n)と仰せです。故人のために唱える題目の音声は「題目の光」となって阿鼻地獄へも到達するのです。したがって、「僧侶でなければ回向できない」などとは大聖人の仏法とは無縁の邪義です。

回忌法要は中国・日本発祥の行事

現在の日本の風習では、四十九日、百箇日、一周忌、三回忌、七回忌から五十回忌と、死後何度も追善法要が行われています。しかし、これらの儀式は仏教から生まれたものではありません。

追善とは「追うて善根を修する」の意で、亡くなった人の冥福のために、生きている人が善根をなすことをいいます。この追善自体は、日本では、古来から、死者の魂を繰り返し弔うことによって鎮め、村落に祭られる祖廟へ帰すといった「御霊信仰」がありました。これが次第に仏教に取り入れられるようになったのです。

回忌法要については、インド、中国、日本と国を追って、また時代を追って儀式化してきた経緯があります。初七日から四十九日までの七日ごとの区切りに儀式を行うことはインドの中陰思想に基づくものです。百箇日、一周忌、三回忌等の法要は中国の風習を仏教が取り入れたものです。さらに、七回忌以降の法要は日本仏教において次第に増えていったものです。

このように、回忌法要自体は、元来、仏教になかったもので、中国・日本でつくられた行事です。とくに日本では、江戸時代の檀家制度のなかで「檀家が果たすべき義務」として強制され、日本人の意識のなかに定着したのです。

御本尊への勤行・唱題こそ、真の追善回向

日蓮大聖人の御精神にかなった追善回向は、大聖人の仏法を如説修行している学会にのみあります。広宣流布に活動する学会員の勤行・唱題こそ、最高の追善回向となります。故人や家族並びに同志に廻らし向ける功徳の源泉は御本尊を拝する信心です。御本尊は「冥途(めいど)にはともしびとなり死出の山にては良馬(りょうめ)」(御書1305n)となります。「御本尊根本」の信心を貫く学会の追善供養に無量無辺の功徳があるのです。

したがって、追善回向にあって大事なことは、あくまでも自身の仏道修行です。そのうえで、彼岸や命日の日を、故人の遺族が追善の節目とすることは心情面から自然なことです。そうした日に、大聖人直結の信心に立つ学会員が、亡き人の冥福を思う一念を込めて追善回向の勤行・唱題をすることは、もっとも大聖人の御精神にかなっている追善となることは間違いありません。

(日蓮正宗青年僧侶改革同盟『仏事―常識と非常識』《潮出版社》より)


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