青年僧侶改革同盟  松岡幹夫氏 筆

阿部日顕の教学に対する十の学術的批判


阿部日顕の教学に対する十の学術的批                         

 

はじめに――論争の経過

 

昨年末、私は『東洋哲学研究所紀要』第二〇号に「現代の大石寺門流における唯授一人相承の信仰上の意義」と題する論文を発表した。同紀要は正式な学術雑誌として、毎年、全国の主要な大学図書館、研究所等に広く送付されている。が、大石寺門流史に即して「血脈公開論」を唱えた拙論については、ぜひ現在の門流(日蓮正宗)の人々にも読んでいただき、宗門改革の一助にしてもらいたいと考えた。そこで、彼ら向けに小冊子を作成し、現法主の阿部日顕をはじめ、同宗門の全住職に送付したのである。この送付の目的は宗門改革なので、当方の肩書や名前は「青年僧侶改革同盟 松岡雄茂」とした。

しかるに小冊子の送付から約五ヵ月が経った頃、「日蓮正宗宗務院監修」と銘打たれ、「日蓮正宗青年僧侶邪義破折班」(平成十七年六月七日発行、以下、「邪義破折班」と略す)が著したという「離脱僧松岡雄茂の本宗の唯授一人血脈相承に対する邪誑の難を粉砕す」(以下、『血脈公開論批判』と略す)なる書が私の元に届いた。内容を読むと、私の提言に真摯に対応することなく、論旨不明の非難中傷に終始している。私としては、別に日蓮正宗に論争を仕掛けたわけでもなく、それに返答する義務は全く感じなかった。しかしながら日蓮正宗側は、私からの論文送付を教義論争の宣戦布告と捉えたようである。

七月末に大阪府羽曳野市にある四天王寺国際仏教大学で開催された「日本印度学仏教学会」の第五十六回学術大会において、私は「大石寺日寛の教学にみる相承法門の開示」というテーマで研究発表を行った。この時、例年になく、多くの日蓮正宗の僧形者たちが会場に姿をみせた。とくに、日蓮正宗宗務院の教学部書記である竹内雄慧らが私の発表の直前に入場し、テープで私の発言内容を録音しながら聴講し、私の発表が終わるや、そそくさと会場を後にしたのは印象的だった。また、質疑応答の際には、日蓮正宗・平安寺の副住職である岡崎法顕が「富士学林の岡崎です」と名のって私に質問をしてきた。彼が印仏学会の正会員なのかどうかは知らないが、日蓮正宗内の僧形者のみを対象として公的認可も受けずに設置されている「富士学林」など、とても正式な学術研究機関とは思えない。岡崎は、宗門の内と外の区別ができていないように感じた。当の質問内容も相承法門のすべてが公開されたというのは言いすぎではないか≠ニいった趣旨であり、相承法門の核心の理論的開示を日寛が宣言している≠ニいう私の主張を全く理解していなかった。時間がなかったこともあるが、当方が得るものは何もなく、まことに残念であった。

ところで、先の『血脈公開論批判』は常軌を逸した法主信仰に貫かれ、目に余る文献学的、論理的な誤謬をともなっている。かくも宗義逸脱的で非学問的な書を「日蓮正宗宗務院監修」の名で平然と発行せしめる、現法主の教学観は一体どうなっているのか――。私の胸には、そんな疑問が芽生えてきた。そこで私は、現法主の阿[1]に対して質問状を作成・発送し、丁重に返答をお願いした。後になって、「邪義破折班」がそれを期限を切った、脅迫めいたお願いだ≠ネどと非難しているが、私は添付の案内状の中で「勝手なお願いで甚だ恐縮ですが、できれば8月末日までにご回答を頂きたく、重ねてお願い申し上げます」と丁重に依頼し、返信用の封筒まで同封したのである。しかも、期日までに回答できない場合は「ご回答頂ける旨」の意思表示だけでもよい、と書き添えた。ここまで配慮を重ねて丁重にお願いをしたうえで、回答の意思表示さえなかった場合、回答不能か、敵対意識による無視か、のいずれかである。けれども、誰かに敵対意識を持っているときには、郵便物の受取りを拒否するなど、何らかの非難の意思を相手に伝えてくるのが阿部らの常である。それもないとすれば、当方としては「回答不能の意思表示」と解するしかない。なお、同質問書は、阿部以外の数人の宗門高僧にも送付されたが、それは法主の阿部の元に確実に届くよう、諸方面にあたる必要を感じたからである。この質問状は、あくまで私と阿部の間の問題であり、公開の意図など私には全くなかった。だからこそ、阿部以外の発送先はわずか数人の阿部側近や高僧に限定し、例えば「法道院 早瀬日如さんへ 同封した書類一式を、阿部日顕さんに送付いたしましたので、お伝えする次第です。あなたの方からも、研究調査への協力を呼びかけて下されば、当方としても嬉しく思います」などと記した一文を添えたのである。

ところが八月の下旬頃、宗門の教師講習会において阿部本人が私の質問書の件について切り出し、質問に対する回答書を私個人だけでなく、宗内に広く配布する旨を話した、との情報が私の方に入ってきた。そして実際に、「日蓮正宗宗務院監修 松岡幹夫の傲慢不遜なる十項目の愚問を弁駁す」(平成十七年八月二十四日発行、以下『阿部側回答書』と略す)と題した「邪義破折班」著の小冊子が、私や青年僧侶改革同盟の諸氏に郵送されてきた。この阿部の所業は、学問的良心の上から信義と礼を尽くした私に対する、大変に非礼な行為と言わねばならない。返答書が阿部本人の執筆ではなかったこと、内容が私への罵詈讒謗に終始していること、私の許可もなく私の質問状の内容やそれへの返答を宗の内外に広く配布したこと――どれもこれも、社会常識を甚だしく逸脱している。阿部とはまともな学問的議論など到底できない、と痛感させられた出来事であった。

しかしながら、「邪義破折班」による今回の『阿部側回答書』が、齢八十を超えて法主職を務める阿部の意を受けて代筆されたことは明らかであり、その内容が現宗門の公式見解であることも「日蓮正宗宗務院監修」という表記によって確認できる。ゆえに、今回の『阿部側回答書』は、阿部自身の教学観を日蓮正宗として公式に表明した文書である、と認識しておく。そして阿部が、私の許可を得ず、私と阿部との質疑応答のやり取りを勝手に印刷して小冊子を作り、宗門の全教師に配布したことに対しては、阿部本人が私に対して公式に論争を挑んできた、とみなすことにする。

ただ、阿部日顕は大学院等で正式に訓練を受けた研究者ではなく、私のことを「汝」と呼び捨てにするなど、その言説は恫喝的かつ感情的である。頑迷固陋の老僧形者と議論したところで学問的進展につながるのか、という躊躇は今でも私の側にある。とはいえ、阿部は日蓮正宗の現法主とされている。阿部の教学の特質を解明すること自体、大石寺門流の宗学研究に資するところがあるかもしれない。結局はそう考え、阿部からの挑戦を受けて立ち、本稿の執筆を決意した次第である。

以上の事情に基づき、本稿においては、先に私が阿部に出した質問状の内容に即して全体の構成を組み立てている。すなわち、松岡(私)から阿部への十項目の質問事項によって十の項目を立て、それぞれの項目の中で「松岡から阿部への質問」「阿部側の回答要旨」「松岡の再批判」の順に論述を進めていく。本稿中に掲げる質問状の内容は、実際に阿部に送付した原文に文末脚注を付し、敬称を略し、誤植等を正すなどして、他の部分の記述と整合性を持たせている。質問の内容自体に変化はないので、その点ご了承されたい。また、引用文献の内容に一貫性を持たせるために、阿部側の文書中の引用に関しても、筆者が選んだ引用書の表記と頁数に改めさせていただいた。例えば、十七世・日精の『家中抄』に関して、私は『富士宗学要集』から、阿部側は『日蓮正宗聖典』から、それぞれ引用している。こうした場合、本稿では、阿部側の引用文を『富士宗学要集』の該当箇所の表記に改めている。

 折しも本稿の執筆中、阿部がまたしても私を批判する小冊子を作り、当方に送付してきた。日蓮正宗宗務院は「全国教師各位」に達示を出し、その中で「本書を精読せられ、創価学会破折、法華講員の指導に充分に活用して下さい」と記すなど、この小冊子の普及徹底をはかっている[2]。小冊子の題名は「創価学会機関誌『大白蓮華』掲載 松岡雄茂の『法主信仰の打破』なる邪論を破す」(平成十七年九月十二日発行、以下『法主信仰擁護書』と略す)という。これは、本年の『大白蓮華』誌の九月号に私が寄稿した「『法主信仰』の打破――日寛上人の言論闘争」という、わずか六頁分の小論に対し、阿部の命を受けた「邪義破折班」が六十九頁に及ぶ小冊子を作って反論してきたものである。

私の『大白蓮華』への寄稿文は、一種の教学随想である。にもかかわらず、阿部は、先に私が出した学術論文や学術的質問状と同じ感覚で私の教学随想を捉え、「汝(松岡)は、御法主上人猊下(阿部日顕)に対して、研究調査に対する協力のお願い≠ニして八月末日までの回答をお願い≠オておきながら、その期限を待たずに八月下旬に発刊した『大白蓮華』に反論を発表した」(二頁)と筋違いの非難をしている。私が『大白蓮華』に寄稿した教学随想は、信仰者の立場からの論であり、学術研究者として阿部に出した質問状や論文とは次元が異なる。例えば、一国の首相が私人と公人の立場を使い分けるようなものである。この教学随想の文体をみれば、それが研究調査に対する協力のお願い≠ニは別の立場で書かれた文書であることぐらい、誰の目にも明らかであろう。学術論文とエッセイとの違いが、阿部には全くわかっていない。

本稿では一応、この『法主信仰擁護書』も、阿部本人の教学的見解を代弁した書として取り扱う。必要に応じて、いくつかの問題箇所を取り上げることにする。ともかく、阿部には一つ注文をつけておきたい。もし、これから私が述べていく主張に何か異議があるならば、本稿が学術論文であることを忘れないで反論してもらいたい。研究者が行う議論は、宗派内の神学論争とは違い、公共性を有している。品性が疑われるような下劣な誹謗中傷の言は厳に慎み、最低限の学問的ルールは守り、信仰と論理・感情と事実をきちんと立て分け、理性的、常識的に意見を開陳してもらいたい。議論の開始にあたり、このことを阿部に強く念告する

 

1 循環論法の誤謬について

 

(松岡から阿部への質問)

現日蓮正宗の主張は、学問的にみると循環論法に陥っているのではないでしょうか。循環論法とは、論点が先取りされ、「前提の真理と結論の真理とが相互に依存し合うような堂々めぐりの虚偽の論証」[3]のことです。例えば、あなた方は常に、歴代法主の専権的な立場を歴代法主の文言によって正当化しようとします。単純な循環論法であり、検証も反証も不可能な、自己閉塞している議論と言わねばなりません。こうした論法は、宗教に非論理性がつきものだとしても余りに閉鎖的であり、合理性を尊ぶ近代社会の人々からは、カルト集団のマインドコントロールと同様に見られてしまいます。何よりも、経論による「文証」を不可欠のものとし、重視した宗祖・日蓮の、開かれた精神に背くのではないでしょうか。この点に関する、あなた自身のご意見をお伺いいたします。予め断っておきますが、あなた方は、たしかに法主の権能を宗祖のいくつかの言説によっても根拠づけようとしています。しかし日蓮文献に関する研究上の定説では、それらはすべて後人の偽作か加筆であり、循環論法を脱しているという有力な根拠になりえません。したがって、別の角度からのご回答を期待します。

(阿部側の回答要旨)

 現宗門が論証に用いた宗祖の書や相伝書が、なぜ偽作なのか、どの箇所が加筆であり、なぜそれが論証に不適切なのか、ということを、松岡の質問書は論理的に記述していない。相伝については『日蓮一期弘法付嘱書』と『身延山付嘱書』はその根本であり、これより血脈相承のすべてが伝承されている以上、循環論法(論証)などの言い掛かりこそ詭弁である。

 

(松岡の再批判)

 私が平成十七年七月三十日付で出した阿部宛ての文書は、研究調査の参考とするための私的な質問書であり、引用文献の注記が施された本格的な学術論文ではない。しかも質問相手の阿部は、日蓮学の専門研究者ではなく、いわば宗派的な護教家である。そのような人物と、日蓮文書や相伝書の真偽などについて、いくら論争しても無益であろう。もし阿部が、日蓮に関する諸文書の真偽を私と学術的に論争したいのなら、自宗のドグマをいったん取り下げ、「論理」の世界で自らの正当性を堂々と主張することである。それでこそ、日蓮の公場対決の精神にも通ずると言えよう。

しかるに阿部は、今回の『阿部側回答書』の中でも、相変わらず循環論法を多用している。否、循環論法とすら言えない、初歩的な論理上の誤謬をあちこちで犯している。彼らが、当方の指摘を「言い掛かり」と言うのなら、一度、詳しく説明しておく。

同一の陳述が前提と結論の両方に使われる場合、それは「論点先取り」の虚偽の論証であり、循環論法と呼ばれる。阿部の循環論法とは、通例、次のようなものである。

 

A 日顕は血脈を受けている。

B 日顕が血脈を受けていることを、どうして知ることができるのか。

A それは、日顕が「血脈を受けた」と言っているからである。

B どうして日顕が言っていることを信用できるのか。

A 日顕は血脈を受けた当事者だからである。

 

Aの前提と結論とは同一の陳述であり、円環状に連鎖している。ゆえに循環論法と言うのである。具体例も挙げておこう。

 

日顕上人は血脈御所持の当事者であり、血脈に関する御指南は『説』ではなく、全て『真実』なのである(『阿部側回答書』四五頁)。

 

ここでも、日顕は血脈所持の当事者である≠ニいう前提と血脈に関する日顕の説は全て真実である≠ニいう結論との間に、密接な関係が見出される。このような場合には、前提に関して、「血脈」なるものが確実に存在すること、それが現時点で「所持」できること、そして「日顕」が血脈所持の「当事者」であること、等々を証明しなければならない。ところが、阿部は常にその証明を避ける。換言すれば、「血脈」「法主」に関して一切の思考を停止する阿部は、それらが問題となるや、前提と結論の連鎖を円環で閉じるしかなくなり、循環論法の誤謬に陥るのである。

それだけではない。たとえ日顕は血脈所持の当事者である≠ニいう前提が証明されても、血脈に関する日顕の説は全て真実である≠ニいう結論は演繹されない。なぜならば、「血脈御所持の当事者」に「真実を述べる」という意味は含まれていないからである。換言すれば、血脈所持の当事者が必ず血脈に関して真実を述べる、とは言えない。ゆえに、この例では前提に対応するいくつかの結論のうちの一つが述べられているにすぎず、その結論は本来、推測された仮説として「〜であろう」といった表現で示されねばならない。推測を演繹と取り違える論理的な誤謬が、ここにはみられる。

「相伝について『日蓮一期弘法付嘱書』と『身延相承書』はその根本であり、これより血脈相承のすべてが伝承されている」(「阿部側回答書」五頁)という記述も、同様な例である。いわゆる「二箇相承」は、日蓮と日興の関係についてのみ記された文書である。したがって、二箇相承が信仰上の「根本」だとしても、歴代法主間の血脈相承とは論理的につながらない。あくまで仮説の域を出ないはずである。「いや、歴代の先師は二箇相承をもって大石寺歴代の血脈相承を正当化してきたから、それが正しい」と強弁するのなら、今度は「権威に訴える論証の誤謬(fallacy of arguing from authority)」に陥る。そもそも、この例では、二箇相承が「根本」であるとはいかなる意味か、が明確ではない。「あいまいの誤謬(fallacy of ambiguity)」も、そこには存する。

指摘すべき点は他にもある。阿部は、しばしば創価学会における過去の発言を取り上げ、それと私の発言との相違を非難する。私の論の矛盾を指摘したいのならば、私の発言内容を根拠にすべきである。そうではなく、私という「人」を根拠とし、松岡は創価学会側の人間だから、過去の学会指導と違うことを述べるのは自家撞着である≠ネどと言うのは論理的におかしい。そうした論法は、「人に訴える論証の誤謬(fallacy of argumentum ad hominem)」に該当する。感情的な批判にすぎず、論理からの逃避とみるしかない。

このように阿部は、二重、三重の論理的な誤謬を犯しながら、それに全く気づいていないのである。彼らの言説は、規則(rule)を知っている者たちの間だけで通用する、極めて特殊な形態の議論である。それは、一宗派で伝統的に決められた言語の規則である「血脈」「御法魂」「唯授一人」「相承」などの言葉によって構成されている。じつは阿部自身、それらの言葉の意味がわかっていない。なぜならば、それらの言葉に対し、論理的根拠をともなう定義を示していないからである。阿部は、ただ大石寺門流が伝統的に形成してきた言語の規則性に則って「血脈」「法魂」などの言葉を使用しているにすぎない。しかも、自分たちの言語使用の規則を共有しない他者とは、決してコミュニケーションをとろうとしない。かくして、今の日蓮正宗は一般社会から遊離し、現代人にとって意味不明な主張を行う不可解な宗教集団になっている。

 断っておくが、私は、信仰よりも論理を優先せよ、などと言っているのではない。日蓮の直系として絶対無二の正義を標榜するのなら、西洋の論理学をも悠然と包み込む高度な教義的説明を行うべきではないか、と訴えているのである。絶対の真理は相対の真理を包む。相対の真理を排斥するのは、自らが相対の次元にいる証左である。ただし、日蓮仏教における絶対の真理はダイナミックな法≠ナあるから、相対の次元に降り立ち、相対の真理を否定しつつ包含していくのである。

日蓮は、「まことの・みちは世間の事法にて候」「世間の法が仏法の全体」(「白米一俵御書」、全集1597・定本1263)と説いている。一切法即仏法の立場をとる日蓮仏教にあっては、ヨーロッパの理性尊重主義もまた仏法である。理性の検証に耐えられない信仰や教義は、真の日蓮仏教とは言えない。閻浮第一の智者を自負した日蓮の気概を継承するならば、現代の日蓮門下は、理性の中に理性を越えるような宗教的直観を鋭く世に提示し、世界一流の知識人たちをも瞠目させるようでなくてはならない。その意味において、「学術」や「学問」の次元に開かれた日蓮思想の現代的展開を心がけている創価学会の言論活動は、素直に評価すべきであろう。他方で、日蓮正宗の現状はどうか。大学院等に進んで学術研究を志す少数の宗門教師たちは何かと冷遇されている、と私は聞く。この一点をみても、阿部の閉鎖的な法主信仰は宗祖の精神からの逸脱である、と考えざるを得ない

 

2 内証の次元における因分と果分の立て分けについて

 

(松岡から阿部への質問)

日寛は、『取要抄文段』の中で「蓮祖の門弟はこれ無作三身なると雖も、仍これ因分にして究竟果分の無作三身には非ず。但これ蓮祖聖人のみ究竟果分の無作三身なり」(文段集571)と述べています。ここで日蓮のみが「究竟果分の無作三身」であるというのは、もちろん内証次元での話であり、日蓮の門弟が「因分にして究竟果分の無作三身には非ず」というのも内証が因分にとどまる意であります。ゆえに日寛は、「蓮祖の門弟」である以上、法主の内証も「因分の無作三身」を超えることはない、とみなしたと思われます。実際、日寛は法主の本尊書写を「受持」の修行中の書写行に分類しています。にもかかわらず、あなた方が「大聖人が究竟果分の無作三身であらせられるならば、それを受けて御本尊を御書写し給う御法主上人の御内証も究竟果分の無作三身にましますのである」(『血脈公開論批判』一六三頁)と言われるのは、かかる日寛の規定を変更したことに他なりません。そこで質問ですが、果分の仏を日蓮一人の内証に限定した日寛の教説を変更し、歴代法主の内証をも果分の仏であるとした、あなた方の主張の根拠は何ですか。先に述べたような循環論法は用いず、できるだけ論理的にご回答願います。

 

(阿部側の回答要旨)

 松岡の説は、日寛の指南を主観的に断定した邪義である。『法華取要抄文段』における日寛の因分・果分の指南は、あくまで下種仏法の教相の上より判じた能化の仏と所化の衆生との対比である。法主の内証には日蓮の法魂がある。日有は『化儀抄』に「師匠有れば師の方は仏界の方、弟子の方は九界」(要1-77)と示している。法主の内証には日蓮の法魂があるのであり、日蓮が究竟果分の無作三身であるならば、日蓮の法魂を具える法主の内証も究竟果分の無作三身である。また、法主の内証は究竟果分の無作三身なのだから、法主の本尊書写には「能化における化他行」という意義が存する。

 

(松岡の再批判)

 まず、私が日寛の『取要抄文段』における「蓮祖の門弟はこれ無作三身なると雖も、仍これ因分にして究竟果分の無作三身には非ず。但これ蓮祖聖人のみ究竟果分の無作三身なり」(文段集571)との文を根拠に、「果分の仏を日蓮一人の内証に限定した」と述べたのは、主観的断定などではなく、誰が見ても文脈に忠実な解釈である。むしろ、究竟果分の無作三身が「蓮租聖人のみ」でない、と反発する阿部の説こそ『取要抄文段』の文脈に背く恣意的解釈であり、そのことは火を見るより明らかである。

また、この『取要抄文段』における日寛の指南が「下種仏法の教相の上より判じた能化の仏と所化の衆生との対比である」とするのも、同文段の文脈に反する意図的な曲解にすぎない。あえて確認しておくが、当該箇所は日寛が「内証の寿量品の意」について述べていく中で出てくるものである。当該箇所の前の部分で、日寛は次のごとく記している。

 

故に文上の寿量の意は、釈尊久遠本果の三身を如来というなり。若し内証の寿量品の意は、釈尊久遠名字の三身を如来と説くなり。故に文辞は一なりと雖もその義は各別なり。若し深くこの意を得れば、久遠は即ち今に在り。今は即ち久遠なり。故に知んぬ、久遠名字の釈尊は即ちこれ今日の蓮祖聖人なることを。今日の蓮祖聖人は即ちこれ久遠名字の釈尊なり。故に末法今時、内証の寿量品の如来とは、全くこれ蓮祖聖人の御事なり。故に口伝に云く云云。これを秘すべし、これを秘すべし(文段集569)。

 

「内証の寿量品の如来」とは「釈尊久遠名字の三身」であるが、それは「全くこれ蓮祖聖人の御事」である、と日寛は断じている。そしてこの後に、「問う、台家の口伝に准ずるに、本地無作の三身とは即ちこれ一切衆生なり」(同前)との問いを自ら設けた日寛は、「答う、今この義に於て両重の総別あり。一には総じてこれを論ずれば一切衆生なり。別してこれをいわば蓮祖の末弟なり。二には総じてこれをいわば蓮祖の末弟、別してこれを論ずれば但これ蓮祖大聖人のみ、真実究竟の本地無作の三身なり」(文段集569〜570)と述べ、さらにその意味を説明していく。そうした末に、件の「蓮祖の門弟はこれ無作三身なると雖も、なおこれ因分にして究竟果分の無作三身に非ず。但これ蓮祖聖人のみ究竟果分の無作三身なり」(文段集571)との結論が導き出されるのである。このように、日蓮一人が究竟果分の無作三身である、との日寛の言は、明らかに内証の次元での判定である。

にもかかわらず、阿部がこの日寛の主張を「下種仏法の教相の上より判じた能化の仏と所化の衆生との対比」と言うのは、どういうわけか。文底の義から言えば、釈尊の仏法は教相であり、日蓮の仏法が観心となる。今、我々が問題にしている日寛の主張は寿量文底の内証の意に沿った論であり、明らかに観心の立場の説である。その観心の説を「下種仏法の教相」などと言い張る阿部は、本来は観心・内証そのものである「下種仏法」の説を強引に教相・外用とみなし、自分勝手に新たな観心・内証を立てようとするものである。これを、日寛が定めた下種仏法の綱格からの大なる逸脱と言わずして何と言うのか。道理の上から、やはり現在の日蓮正宗は、日寛文書を信仰の「正依」とする現在の宗規を速やかに変更すべきである。

結局、阿部の新観心論、新内証論を支えている信念は、法主の内証に本仏・日蓮の法魂が具わっている、という合理的根拠なき思い込みに他ならない。彼らは、日寛の『文底秘沈抄』における「今に至るまで四百余年の間一器の水を一器に移すが如し清浄の法水断絶せしむることなし蓮師の心月豈之に移らざらんや是故に御心今富山に住するなり」(要3-94)との文を引用して、「御本仏大聖人よりの金口嫡々の血脈法水は一器より一器へ相伝され、当代の御法主上人の御内証には清浄なる大聖人の御法魂がましまされる」(『阿部側回答書』七〜八頁)と断じている。これまた、文脈無視も甚だしいと言わねばならない。他の項目の所で詳述するが、この日寛の文では、宗祖・日蓮の「御心」が謗法の身延山を去って富士山に移ったことが述べられている。文脈に忠実に解釈すれば、日蓮の「御心」は富士大石寺に住する、というのが日寛の意であり、一器より一器への法主の血脈相承は、日蓮の心が富山に住するための手段的意味を持つにすぎない。したがって、当文をもって法主の内証に日蓮の法魂あり≠ニする阿部の説は、贔屓目にみても合理的根拠を欠く仮説である。つまり、それは前提から推考される多くの結論中の一つであり、しかも前提の文脈から外れた恣意的な仮説とすべきである。そのような信憑性の薄い仮説を根拠に、日寛の立てた下種仏法義に反する新観心論を唱えているのが、今回の『阿部側回答書』なのである。

また『阿部側回答書』は、日有の『化儀抄』から「師匠有れば師の方は仏界の方、弟子の方は九界」(要1-77)という箇所を抜き出して「御法主上人に対する師弟相対の信心」(八頁)を強調し、法主の内証が究竟果分の無作三身であることの傍証としている。しかし、この日有の言説は、『化儀抄』という名の通り「化儀」に関する教示であって、内証の法体に関する指南ではない。大石寺門流の化儀においては、法主が「仏界の方」にいる場合もあれば、反対に「仏界の方」に向かう場合もある。あるいは、末寺住職が「仏界の方」にいることもある。堀日亨は『有師化儀抄註解』の中で、「貫首の座位も御堂は北面にて即ち直に仏界たる本尊壇に向ひ」「本末共に葬礼に於ける導師の引導の時は、其座位必ず本尊壇又は三尊を背にして・仏界の方にありて直に九界の亡者に対向せり」(要1-108)等と述べている。かように化儀は可変的であり、化儀即法体とは言っても、むろん〈化儀=法体〉の意味ではないのである。問題の日有の文は本尊書写に関連した指南であるが、日亨によれば、本尊書写も「宗門第一尊厳の化儀」(要1-112)とされる。

そうである以上、日有が化儀の面から法主を「仏界の方」と説いたからと言って、ただちに法主が仏界の主であるかのごとく論ずるのは、化儀と法体とを混乱した迷論と言わざるをえない。そもそも、「師の方」「仏界の方」というときの「方」とは何か。もし日有が法主を究竟果分の無作三身と考えていたなら、「方」をとって「師は仏界」とだけ記したはずだろう。この「方」という字は、『化儀抄』における仏界・九界の立て分けが、どこまでも化儀上の分別であることを示唆しているように思われる。日有は『化儀抄』の第三十三条で「当宗の本尊の事、日蓮聖人に限り奉るべし」(要1-65)と述べているが、そこにみられる「日蓮聖人に限り奉る可し」との日有の信念は、まさに「但これ蓮祖聖人のみ究竟果分の無作三身なり」との日寛の教説と符合する。日有や日寛の言説には、阿部のごとき法主信仰はみられない。

その他、阿部は法主の本尊書写を「能化における化他行」と言うが、この主張も、法主の内証は究竟果分の無作三身である≠ニいう彼らの思い込みの産物であって文献的証拠は何一つ示されていない。日寛の『観心本尊抄文段』では「受持が家」の「書写」として「本尊書写」を位置づけており、文脈上は、それ以外に解釈の余地がない。日寛は、「受持」という因行の一つとして法主の本尊書写を理解していたのである。

阿部のごとく、本仏・日蓮と歴代法主の内証を同等にみなしていくと、いずれは信仰実践の面に重大な影響が出てくると予想される。つまり、阿部の教学指南に従う人々は、大石寺門流が守ってきた〈日蓮=末法の教主〉という信仰信条を事実上、捨て去ってしまうのではなかろうか。法主の内証は、本仏・日蓮と同じ究竟果分の無作三身である≠ニ考えることは、「末法の教主」としての日蓮の唯一者性の否定につながる。そして、日蓮の方は物言わぬ過去の人なのだから、実質的には、現に生きている法主の指南が信者の信仰行動の絶対的な拠り所となる。現法主が日蓮の教説といかに異なる指南をしても、両者の内証の同等性を大前提とするかぎり、何とか現法主の教えに合うように日蓮の教説をねじ曲げるしかない。これが阿部の法主信仰にみられる本末転倒の思想構造であり、「邪義破折班」が出す文書は、すべて、この屈折した思想構造の産物に他ならない。かくして阿部の法主信仰においては、「末法の教主」の実質的権威が、日蓮から現法主の阿部へと移行しているのである

 

3 『三宝抄』の三宝一体義について

 

(松岡から阿部への質問)

あなた方は、日寛の『三宝抄』の文を引用して「三宝一体」を強調し、それによって歴代法主を神聖化しています。『三宝抄』では、仏宝・法宝・僧宝の三宝が「内体」において「体一」、「外相」において「勝劣」、と「分別」された後、「法宝を以て中央に安置し仏及び僧を以て左右に安置する」「仏宝を右の上座に安置し僧宝を左の下座に安置し」云々と、三宝安置のあり方が長々と論じられています(歴全4-392〜394)。ここに明らかなごとく、『三宝抄』の三宝一体義は、信仰対象となる三宝についての議論です。すなわち、日寛が『当流行事抄』で規定した「久遠元初の三宝」(要3-213)についての議論なのです。宝前に安置し信仰対象となる僧宝は、大石寺門流では、古来より開山の日興に限定されています。

ところが『血脈公開論批判』は、日寛の『文底秘沈抄』から「今に至るまで四百余年の間一器の水を一器に移すが如し清浄の法水断絶せしむることなし」(要3-94)との文を引用し、歴代法主も「一器の水を一器に移す」のだから三宝一体の僧宝に含まれる、と私に反論しています(『血脈公開論批判』一八九頁)。では、お聞きしますが、あなた方は歴代法主をも信仰対象としての僧宝とみなすのですか。そうではなく、『三宝抄』や『文底秘沈抄』の一部の文を根拠に法主への尊信を説くのだ、と言いたいのならば、ここには三つの重大な誤りがあります。

第一に、あなた方は、三宝の一体性と差別性を「分別」したうえで三宝を安置する形式を論ずる、という『三宝抄』本来の文脈から外れ、法主の内証の尊厳を示すために同抄の三宝一体義を用いています。三宝安置論とは別の次元で『三宝抄』の三宝一体義を引用することは明らかに恣意的であり、いわゆる「切り文」の謗りを免れません。ちなみに、『三宝抄』の中で日寛は、「予が如き無智無戒も僧宝の一分なり」(歴全4-396)と述べています。「僧宝の一分」という日寛の自己認識は、それが謙遜であろうとなかろうと、法主の位に就くだけで僧宝になれるわけではない≠ニいう彼の実力本位の僧宝観を示すものと言わねばなりません。このこと一つをとっても、あなた方の『三宝抄』の解釈が日寛の意図から逸脱していることは自明です。

第二に、かりに牽強付会の解釈によって法主を「三宝一体」の中に含めたとしても、あなた方の主張は日寛教学の規定から外れています。2で論じたように、日寛は、究竟果分の仏は日蓮一人に限られる、と述べています。そこからすると、「三宝一体」の内証の次元でも、仏宝たる日蓮大聖人と僧宝たる日興上人との間には、なお「一体の中の区別」があるとみるべきでしょう。

あなた方のごとく、「御法主上人の御内証にのみ、久遠元初の完全なる悟り(境地冥合)≠ェ相伝される」(『血脈公開論批判』一六一頁)と説くなどは、日寛の教えの否定と言わざるを得ません。あなた方の三宝一体義は、むしろ三十一世・日因の法主信仰を受け継ぐものです。日因は、金沢の信徒に対し「日興上人已下の代々も亦た爾なり。内証に順ずるに則仏宝也。外用に依れば則僧宝也。故に末法下種の大導師日蓮聖人の尊仏に対すれば、則外用を存し以て僧宝と為るのみ」と述べ、日興已下の歴代法主の内証をも三宝一体としています。客観的にみると、創価学会が日寛教学を厳格に受け継ごうとするのに対し、あなた方は日因の法主信仰に帰ろうとしている、と言えます。したがって、あなた方が三宝一体義によって法主への尊信を説き勧めたいのならば、日寛の諸文書を「正依」とする現在の宗規は変更し、正式に日因系統の宗派となる旨を公的に表明すべきでしょう。

さて第三に、『血脈公開論批判』が掲げた『文底秘沈抄』の文は、日寛が身延山最勝説を批判する中で出てくるものです。対外的論議において、大石寺の法主である日寛が、自門の血脈相承の歴史の恥部に触れるわけがありません。しかし、日寛の本音は違ったのではないでしょうか。彼が残した『当家法則文抜書』には、一七世の日精が著した『日蓮聖人年譜』(以下、『年譜』と略す)からの抜書がみられます。それは、三大秘法や正行・助行に関する箇所の抜書ですが、日寛教学からみれば、大変な邪義が述べられています。そこで日寛は、この『年譜』の論述について「精師且く他解を述ぶ。是れ則ち日辰の意なり。故に本意に非ざるなり」「他解なり。正義に非ざるなり」(研教9-757,763)と付記しています。つまり、『年譜』にみられる邪義は、要法寺日辰の「他解」であって日精の「本意」ではない、と解釈したのです。しかし、『年譜』の邪義が日精の本意でないのなら、なぜ日精自身が「これは日辰の邪義である」と明示しないのでしょうか。どう考えても、おかしな話です。結局、日寛は日精本人が邪義を説いていることを承知のうえで強引に日精をかばった、とみるしかありません。日寛は十代の頃、江戸の地で、日精の説法を聞いて出家を決意しました。それだけに、日精には大恩を感じ、自らも大石寺の血脈相承を受けたことから、たとえ抜書文書の類であっても、あからさまな日精批判ができなかったのでしょう。

日寛は、歴代先師の言に対しては、慎重に直接的批判を避けていました。一例を挙げます。九世・日有は、大石寺門流の「文底の大事」とは『法華経』寿量品の「如来秘密神通之力」の文の底を指す、と考えていたようです。ところが、この日有の説を「日有上人雑々聞書」として抜書した日寛は、寿量品の「我本行菩薩道」の文の底にこそ当家の「文底」の義があると考えていました。これでは、「文底の大事」という重要な問題について、歴代先師である日有の説に反対することになります。そこで日寛は、日有の文底義の抜書の後で「大貳云く云云」(研教9-777)と記し、あえて自説の披露を遠慮する姿勢をとったのです。これについて、堀日亨は「有師の説と本師(日寛)の主論と徑庭(けいてい)甚だしきが故に冗説せざるか」(同前)と註釈しています。とはいえ、日寛は『開目抄愚記』の中で、「当流一大事の秘要」として「我本行菩薩道の文底に久遠名字の妙法を秘沈し給う」(文段集77)と本意を明かしています。日寛の大貳云く云云」(研教9-777)の真意は、やはり日有の文底義の批判だったわけです。このように、『当家法則文抜書』における日寛の付記に関しては、相承の先師に対する日寛の遠慮、というものを念頭において理解しなければなりません。そうするならば、日寛は、同抜書において婉曲的な言い回しながら日精の邪義を手厳しく弾劾している、という真相がはっきり見えてくるのです。

第三の論点を整理しておきましょう。日寛は『文底秘沈抄』の中で「今に至るまで四百余年の間一器の水を一器に移すが如し清浄の法水断絶せしむることなし」と述べる一方で、『当家法則文抜書』には「精師且く他解を述ぶ。是れ則ち日辰の意なり。故に本意に非ざるなり」「他解なり。正義に非ざるなり」(研教9-757,763)との日精批判の付記を残しました。私は、日寛が本心では完全無欠な大石寺の法水写瓶≠ニいう見方に懐疑的だったのではないか、と思います。『文底秘沈抄』の文が外部向けの言説であるのに対し『当家法則文抜書』の方は個人的な記録文書であること、日寛に歴代先師に対する遠慮があり、とりわけ日精に対しては恩義も感じていたことなどを総合して考えれば、日寛は『当家法則文抜書』で婉曲的に日精を批判した、と結論せざるをえないのです。

以上、私の主張を申し述べました。これに関する、あなた自身の見解をお示し下さい。

 

(阿部側の回答要旨)

 松岡が引用した『三宝抄』の文は、三宝は一体に約す内証の意と「任運勝劣」の外相の意義が具わることを述べられるに際し、その外相の具体例として本尊奉安形式をもって説明したものである。よって「三宝一体」の文をわざわざ日興に限定して解釈しなければならない根拠は全くないと共に、外相の上の僧宝についても日興のみとする道理はない。むしろ日寛は『三宝抄』全般を通じ、日興は僧宝の「首」であるとし、さらに僧宝たる理由が「秘法伝授の御弟子」(歴全4-385)つまり唯授一人の血脈相承にあることの上から、それ以下の血脈付法の歴代法主をも僧宝であるという意義を明示しているのである。

 また日寛は「一器の水を一器に写すが故に師弟亦体一なり、故に三宝一体也」(歴全4-392)と言っているのだから、「一器の水を一器に移す」(『文底秘沈抄』、要3-94)歴代法主をも三宝一体と言っていることは明白である。日寛が『三宝抄』と『文底秘沈抄』に述べた「一器の水」の文意に如何なる内容の相違があるのか。

 さらに日寛が自身を「僧宝の一分なり」と言ったのは事実を述べたのであり、何も謙遜表現ではない。『三宝抄』の中で日寛は、日興を僧宝の「首」であると言い、そして日寛自身も「僧宝の一分」であると述べているのである。これは日寛自身が僧宝の中に加わっていることを明確に主張した指南である。

 その他、松岡の記述に対しては次のような疑問がある。

@ 松岡は日寛の言は大石寺門流のものとして正しいが、日因の言は間違っているという。この正邪の区別を何によってしているのか。

A 日有は「手続の師匠の所は三世の諸仏高祖已来代々上人のもぬけられたる故に師匠の所を能く能く取り定めて信を取るべし、又我が弟子も此くの如く我れに信を取るべし、此の時は何れも妙法蓮華経の色心にして全く一仏なり、是れを即身成仏と云ふなり云云」(「化儀抄」、要1-61)と指南し、歴代法主を「僧宝」として尊信せよと言っているが、松岡は「だんまり」を決め込んでいる。

B 松岡は六巻抄に関して、一方では「貫主直伝の秘書」と言い、他方では「対外的論議」の書であるという。これは論旨が矛盾している。

C        松岡によれば、日寛は、十七世の日精に少なからず教義的な誤りがあったと認識していたが、抜書文書の中で正面切っては批判しなかったという。

  しかし、この主張は成立しない。なぜならば、日寛は直接日精の謦咳に接し、また日精の大曼荼羅正意・要品読誦の化導の実態を聞き及んでいたからである。また抜書文書の中で日寛が、本尊の当体について、日有の聞書との見解の相違に忌憚のない意見を述べている箇所もある。したがって、松岡の説は恣意的な解釈であると断ずる。さらに松岡は、堀日亨が日寛の抜書文書の一部に関して「有師の説と本師(日寛)の主論と徑庭(けいてい)甚だしきが故に冗説せざるか」(研教9-777)と註釈している、とも言うが、日亨は「冗説せざるか」と述べ「自ら決せざる『歟』の字」を付している。つまり、この問題については日亨を含め、何人も断定しえないのである。

 

(松岡の再批判)

 最初に今一度、問題となっている『三宝抄』の文を掲げておこう。

一、問う、三宝に勝劣有り乎。
 答ふ、此れ須く分別すべし。若し内証に約せば実には是れ体一なり。所謂法 

宝の全体即ち是れ仏宝なり 故に一念三千即自受用身と云い、又十界具足方名円仏と云うなり。亦復一器の水を一器に写すが故に師弟亦体一なり、故に三宝一体也。若し外相に約せば任運勝劣あり。所謂、仏は法を以て師と為し、僧は仏を以て師と為すが故なり。故に法宝を以て中央に安置し仏及び僧を以て左右に安置する也(歴全4-392〜393)。

 阿部は、この文の最後にある「故に法宝を以て中央に安置し仏及び僧を以て左右に安置する也」を「外相に約せば任運勝劣あり」ということの「具体例」(『阿部側回答書』一二頁)であるとし、それをもって当該箇所における僧宝を日興一人には限定できない、と反発している。しかし、阿部の主張は「故に」という接続詞の存在を意図的に無視した暴論である。

かりに、「故に法宝を以て中央に安置し仏及び僧を以て左右に安置する也」との文が、外相面の三宝勝劣に関する「具体例」を示したものならば、なぜ「故に」という接続詞が用いられているのか。「具体例」を示すにあたって使用されるべき接続詞は、当然、「例せば」「例えば」の類である。しかるに、問題の『三宝抄』の文では「故に」とだけ記され、「故に例せば」「故に例へば」とも記されていない。「故に」という接続詞は「こういうわけで」「このために」という意味であり、そこに「例」という意味は含まれていない。むしろ、「故に」という接続詞に忠実な解釈は、本尊奉安形式の説明を、外相面の三宝勝劣の具体的な現れ≠ニして理解することだと言えよう。そう考えれば、前掲の引用文が示唆する僧宝とは日興一人と解するのが妥当である。

阿部の『三宝抄』解釈は文脈を離れた陳述であり、「文脈上の誤謬(contextual fallacy)」にあたる。しかもそれは、意識的になされた誤謬であって「詭弁(sophism)」に他ならない。余りに論理的なルール無視がひどいので、合わせて指摘しておく。阿部はここで、「あいまいの誤謬」の中の「多義の誤謬(fallacy of equivocation)」も犯している。阿部が言う「具体例」とは、外相面での三宝勝劣に関する唯一の具体例なのか、あるいはその具体例の一つにすぎないのか。どうにも判然としない。彼らのごとき曖昧な記述では、誰人もその正確な意図を把握できないだろう。また阿部は、単なる仮説を演繹的結論として提示している。本尊奉安形式の説明を外相面の三宝勝劣の「具体例」として解釈することは、三宝一体・勝劣を論じた前文から必然的に演繹される結論ではない。阿部の主張は、「故に」という接続詞を無視した確率の低い仮説にすぎない。それを動かぬ定説であるかのごとく断定的に相手に示すことは、論理の飛躍、すり替え以外の何物でもないのである。

さて次に、『阿部側回答書』は、日寛が『三宝抄』と『文底秘沈抄』に述べた「一器の水」の文意に如何なる内容の相違があるのか、などと当方を詰問している。この問題は、日寛が自らを「僧宝の一分」と称したことに関連してくるので一緒に論じてみたい。

今回、『阿部側回答書』では「日寛上人が御自身を『僧宝の一分なり』と仰せられたのは事実を述べられたのであり、何も謙遜表現ではない」(一五頁)と記し、正式に歴代法主を「僧宝の一分」と定義した。このことは、過去に阿部が「僧宝とは……日興上人を随一として、 唯授一人血脈付法の歴代上人の全てにわたるのであります」「門流の大衆、すなわち法主に 信伏随従する本宗の一般僧侶も、みな僧宝の一分に加えられるのであります」(平成三年十一月七日付『創価学会解散勧告書』) と述べ、法主は僧宝の全分、門流大衆は僧宝の一分≠ナあるかのごとく述べていたことを思えば、まさに隔世の感がある。一体、阿部はいつから僧宝観を変更したのだろうか。

法主が「僧宝の一分」である、という前提を阿部が認めるのなら、話は簡単である。日蓮の『観心本尊抄』には「無顧の悪人も猶妻子を慈愛す菩薩界の一分なり」(全集241・定本705)とある。当然ながら、「無顧の悪人」は「菩薩界」の衆生ではない。だが、「妻子を慈愛」する「無顧の悪人」にも「菩薩界の一分」が認められる。同じように、「歴代法主」は「僧宝」ではない。しかし、正法正義を各々応分に伝える「歴代法主」には「僧宝の一分」の意義が認められる。阿部は図らずも、歴代法主が僧宝そのものでないことを言明してしまった。結局、阿部は今回、僧宝の全分=日興、僧宝の一分=法主≠ニいう立て分けを承認したことになる。

 とすれば、『三宝抄』と『文底秘沈抄』における法水写瓶の意義の相違は、もはや自明であろう。『三宝抄』に説かれる日興の法水写瓶には僧宝の全分≠フ意義が存するのに対し、『文底秘沈抄』に示される歴代法主の法水写瓶は僧宝の一分≠フ意義にとどまる。前者の僧宝は秘法伝授に関して無謬、後者の僧宝はそれに関して有謬である[4]。ゆえに、信仰対象としての僧宝=日興にかかわる『三宝抄』の三宝一体論を、歴代法主にまで拡大して適用する阿部の主張は不当なのである。

 別の角度からも考察しておきたい。それは、「三宝一体」の必要条件とは何か、ということである。日寛の『三宝抄』では、三宝が「内体」では一体不二、「外相」では勝劣あり、と立てる。ここで我々は、「外相」の勝劣を無視して「内体」の一体性のみを独立的に主張することができない。「外相」と「内体」とは三宝の表裏であり、少なくとも表の「外相」が裏の「内体」の必要条件となるはずである。「外相」の勝劣は「仏は法を以て師と為し、僧は仏を以て師と為す」というものである。ということは、じつは「外相」における〈法←仏←僧〉という師弟関係の次第こそが、「内体」における三宝一体の必要条件となるわけである。わかりやすく言えば、正しい法を師とする仏、正しい仏を師とする僧、という二つの必要条件が満たされないかぎり、「内体」の三宝一体も成立しない。その意味から、三宝一体を成就せしめる中心軸は「法」にあると言える。「法」に背く「僧」は、もちろん〈法←仏←僧〉という三宝一体の必要条件を満たしていない。だから、「内体」において三宝一体とは言えない。

日蓮は『真言見聞』の中で「謗法とは謗仏・謗僧なり三宝一体なる故なり」(全集142・定本649〜650)と述べている[5]。ここに「謗法とは謗仏・謗僧なり」とあるごとく、日蓮も「法」を中心として三宝一体を説いている。阿部らは、この『真言見聞』の文を謗僧とは謗法・謗仏なり≠ニ読み替えたいのであるが、そういう解釈は、〈法←仏←僧〉という「外相」面の師弟の序列を隠蔽し、いたずらに法義を惑乱させるだけである。正法に違背する僧の否定は、謗法・謗仏どころか、むしろ正法護持につながるではないか。それゆえ日興は、「時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」(『日興遺誡置文』、全集1618)と遺誡したのである。日蓮に至っては、『守護国家論』に「設い仏菩薩為りと雖も法華涅槃に依らざる仏菩薩は善知識に非ず」(全集67・定本124)と断じ、「仏」でさえ「法華涅槃」の「法」に背く可能性があることを示唆している。日蓮仏法は、どこまでも「法」を中心とした信仰信条を貫く。三宝一体義についても、その例外ではない。

ところが阿部は、〈法←仏←僧〉という三宝一体の必要条件を巧みに隠蔽したうえで、どんな法主(僧)でも三宝一体なのだから、戒壇本尊(法)や日蓮(仏)と一体である≠ニいう虚偽の論理を作り上げた。それは、実際には現法主中心の三宝一体義の提唱となる。三宝一体なのだから、現法主の法義解釈は常に正しい――この一見、もっともらしい阿部らの理屈は、「仏宝」の日蓮も、「法宝」の戒壇本尊も、そして「僧宝」の首たる日興も、すべて〈物言わぬ存在〉である、という事実を悪用することによって成立する。つまり問題の本質は、「僧宝の一分」にすぎない現法主だけが〈物言える存在〉である、という点にある。いわば「死人に口なし」という状況において「三宝一体」の権威を笠に着た現法主は、戒壇本尊を意のままに操り、日蓮の「御書」や、日興をはじめとする歴代先師の教えを、自分に都合よく解釈できる。現法主が何を言おうが、また何をしようが、〈物言わぬ存在〉の三宝は一切、異議を唱えられない。かくのごとく、三宝一体義の中に法主を含めてしまうと、結局は、現法主中心の三宝一体義、という下克上的な事態が生じてしまうのである。

これに対し、日寛の『三宝抄』では「法宝」中心の三宝一体義が示されている。そうなるのは、〈物言える存在〉の現法主を三宝一体義の中に含めないからである。法華経を師とし、身命を賭して修行した日蓮。その日蓮を仏と仰ぎ、徹して師事し抜いた日興。こうした事跡は〈法←仏←僧〉という三宝一体の必要条件に適合している。そして、この「外相」の歴史的事実はもはや動かせない。ゆえに「内体」の三宝一体も確定し、末法の衆生の信仰対象となりうるのである。阿部らのごとく、『三宝抄』の三宝一体義の中に〈物言える存在〉の現法主を加えてしまえば、〈法←仏←僧〉が〈現法主←法←仏←僧〉へと変質する可能性が出てくる。その可能性が考えられる以上、日蓮(仏)・戒壇本尊(法)・日興(僧)の「内体」における三宝一体、という確定事項の中に、現法主を加えることなどできないのである。

 なお、ついでに『阿部側回答書』の僧宝論にみられる論理的誤謬も指摘しておこう。阿部は、同回答書の中で「「『三宝抄』全般を通じ、日興上人は僧宝の『首』であるとされ、さらに僧宝たる理由が『秘法伝授の御弟子』つまり唯授一人の血脈相承にあることの上から、それ以下の血脈付法の御歴代上人をも僧宝であるという意義を明示されている」(一二頁)と述べている。ここで、日興一人を指すはずの「秘法伝授の御弟子」という言葉を、何の説明もなく「それ以下の血脈付法の御歴代上人」にまで拡大適用し、歴代法主をも僧宝とするのは、明らかに論理的根拠を欠いている。これは例えば、「リンカーンはアメリカの大統領であり、リンカーンは立派な政治家だから、アメリカの大統領はすべて立派な政治家である」と言うのと同じぐらい、論理が欠如した記述なのである。

 その他の私への論難に関しても、簡潔に再批判しておく。@の論難では、私が日寛を正とし日因を邪とする区別の根拠を問うている。私の答えは明快である。日寛に法主信仰は見られないが、日因には見られる。この点において両法主の説は食い違っている。学問的に言えるのは、ここまでである。しかし、日蓮正宗は「宗規」で日寛文書を「正依」にすると定めている。だから阿部は日寛を正、日因を邪とすべきであり、そうしないのなら宗規を変更すべきである、と私は指摘したのである。今の私の立場は研究者であるから、信仰面で日寛を正、日因を邪と判定するつもりはない。ただ、日蓮正宗に所属する阿部はそうすべきではないのか、と彼らの矛盾を衝いたのである。阿部には、学問と信仰の区別が理解できていない。 

 Aの論難も、私としては理解に苦しむ。日有の『化儀抄』の「手続の師匠の所は三世の諸仏高祖已来代々上人のもぬけられたる故に師匠の所を能く能く取り定めて信を取るべし」(「化儀抄」、要1-61)との前提の文から、どうして歴代法主は「僧宝」である≠ニの結論が演繹されるのか。この日有の文は、文脈に即して言えば、堀日亨の言うごとく「師弟の道は神聖ならざるべからず」(要1-124)との意と解される。師であることと、僧宝であることとは別次元の問題である。すなわち、前者は化儀、後者は法体にかかわる。化儀上の師弟の問題と、法体にかかわる僧宝の問題とをイコールで結びつけることなどできない。

先ほども述べたように、化儀即法体といえども〈化儀=法体〉ではないのだから、当然の道理である。さらに言うと、阿部の主張は論理的に不正確である。先に述べたごとく、一口に僧宝と言っても歴代法主は「僧宝の一分」であり、秘法伝授に関して有謬の存在である。大石寺門流では真書とされる『日興遺誡置文』にも「時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」(全集1618)とある。そうした僧宝論上の立て分けを一顧だにせず、しかも化儀上の師弟の道について論じた日有の文をもって「御歴代上人を『僧宝』として尊信せよと仰せられたもの」(『血脈公開論批判』一八四頁)と結論づけるのは、二重の論理的誤謬に陥っているのである。

 Bの論難に移ろう。阿部によれば、私は日寛の六巻抄を「貫主直伝の秘書」であるとしながら他方では「対外的論議」の書であるとも述べ、矛盾を露呈しているという。しかしながら、「貫主直伝の秘書」であることと、「対外的論議」の書であることとは必ずしも矛盾しない。私は、日寛の六巻抄を対外的論議に備えるための貫主直伝の秘書≠ニして理解している。四十八世・日量が著した『日寛上人伝』は、日寛が学頭の日詳に六巻抄を授与する際、次のように述べたことを伝えている。

 此の書六巻の師子王あるときは国中の諸宗諸門の孤兎一党して当山に襲来すといへども敢て驚怖するに足らず尤も秘蔵すべし尤も秘蔵すべし(要5-355〜356)

「此の書六巻の師子王あるときは国中の諸宗諸門の孤兎一党して当山に襲来すといへども敢て驚怖するに足らず」との日寛の言は、六巻抄が「対外的論議」のための書であることを明かしている。現に、問答形式を多用し、日蓮宗各派の教義に対する破折が随所に織り込まれた六巻抄は、誰が見ても「対外的論議」の書である。そのうえで、日寛は再治本の六巻抄に関して「尤も秘蔵すべし」と日詳に指示したとされ、近代の堀日亨もそれを「貫主直伝の秘書」としたのだから、六巻抄は対外的論議に備えるための貫主直伝の秘書≠ニして執筆された、と考えるのが妥当である。

阿部は、「対外的論議」という私の言葉を「建前の論議」(『阿部側回答書』一九頁)という意味に受け取っているが、「対外」とは「外部に対する」という意である。「対外」を「建前」と解釈するのは論理的誤謬にも値しない。初歩的な国語の知識の欠如か、それとも意図的な曲解か、のどちらかである。

 最後にCの論難であるが、これは日寛は先師である十七世・日精に配慮したので、『当家法則文抜書』の註記に際して日精の教義的誤りへの公然たる批判を控えた≠ニする私の説に反駁するものである。阿部によれば、直接日精の謦咳に接し、また日精の化導に触れた人々からその実態を聞いていた日寛は、日精の「大曼荼羅正意・要品読誦の『本意』を踏まえた上での註記」(『阿部側回答書』二一頁)を『当家法則文抜書』の中で行ったはずであるという。ここで問題なのは、日精の本意が「大曼荼羅正意・要品読誦」であるとどうして言えるのか、という点である。日精の『随宜論』では、反対に造仏・一経読誦が唱えられており、こちらを日精の本意とする説もかなり有力である。ゆえに、阿部が私の説を批判したいのなら、まず日精の「本意」について論理的に説得力のある議論を提出すべきである。

これまでに出された、阿部らの日精擁護論は、すべて護教論にすぎない。先ほどから指摘しているように、阿部らの論は基本的に循環論法であり、数々の論理的誤謬にも満ちている。そのことは、今回の『阿部側回答書』における日精擁護論を見ても一目瞭然である。

例えば、この回答書の中に「何より総本山客殿安置の御影は日精上人の造立であり、また御影堂、六壷などの御本尊を造立された日精上人の御本意が大曼荼羅正意にあることは火を見るよりも明らかなのである」(二〇頁)との一文がある。阿部は、日精が御影や曼荼羅本尊を造立した≠ニいう前提から日精の本意が大曼荼羅正意にある≠ニいう結論を出している。しかし、これは結論ではなく一つの仮説であり、「火を見るよりも明らかなのである」といった断定は論理の飛躍となる。論理的に言えば、日精は御影や曼荼羅本尊を造立したが内心では造仏論者だった、という別の仮説も成立するからである。

しかも、この別の仮説は、日精が実際に元和十年に仏像を造立したこと、法主登座後の寛永十年に書かれた『随宜論』において「造仏は即ち一箇の本尊なり、誰か之を作らざる」「聖人御在世に仏像を安置せざることは未だ居処定まらざる故なり」という本質論的主張がなされていること、寿円日仁の『百六対見記』や北山本門寺文書が日精の行った造仏に言及していること、三十一世・日因が「精師御所存は、当家実義と大相違なり」「精師、関東奥方の寺々に皆釈迦多宝四菩薩造立を許す」と記して激しく日精を批判したこと、近代の堀日亨も精微を尽した史料考証を通じて日精を「造像家」(要5-213)と断定したこと、等々の多くの補助前提に支えられている。つまりは有力な仮説である。

他方、阿部の仮説には一つの補助前提もない。日寛が日精の謦咳に接していたことは、何ら補助前提にならない。質問状の中でも述べたように、日精の謦咳に接して出家を決意した身なればこそ、日寛は直接的な日精批判を遠慮した、と考えた方がはるかに説得的である。結局、阿部の日精擁護論を貫いている思考は、「血脈相承を受けた歴代法主に法義上の誤りはない」「なぜ、そう言えるのか」「歴代法主は七百年以上にわたって正法正義を伝えてきたからである」「どうして歴代法主が七百年以上にわたって正法正義を伝えてきたと言えるのか」「それは、血脈相承を受けた歴代法主に法義上の誤りなどないからである」といった循環論法に他ならない。この循環論法を盾に、阿部は有力な反対仮説の補助前提を突き崩すべく、「随宜論は登座後に清書されたにすぎない」「日精造仏説は日因の誤解である」「日亨の日精批判は失念による」などと躍起になって弁解にこれ努めている。しかし、彼らの弁解は元が循環論法なので、根本的立場からの論理構築とはならず、所詮は根無し草的な小細工の詭弁に終始するのである。

また阿部は、日寛が『当家法則文抜書』において、日有の聞書との見解に率直な異議を唱えている箇所もあるとし、日寛は何も先師に遠慮などしていないと力説している。すなわち、日寛は「当宗の即身成仏は十界互具の御本尊の当体なり。其の故は上行等の四菩薩の脇士に釈迦多宝成りたまふ所の当体大切なり」云々との日有の聞書を抜き書きした後に「大貳云く、此の義観心に約する歟。報恩抄も恐らくは爾らざる歟。既に本尊抄に云く、釈尊の脇士には上行等の四菩薩云云。末法相応鈔の如し」と自らの所感を記しているという(研教9-772)。この日有の聞書では、曼荼羅本尊において四菩薩の脇士に釈迦多宝がなる、と記している。しかし、日蓮の『報恩抄』には「日本・乃至一閻浮提・一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂宝塔の内の釈迦多宝・外の諸仏・並に上行等の四菩薩脇士となるべし」(全集328・定本1248)とあり、『観心本尊抄』にも「釈尊の脇士上行等の四菩薩」(全集247・定本712〜713)とある。つまり日蓮の記述は、日有の聞書とは逆に、四菩薩を釈尊の脇士とするものである。

ここで、もし日寛が日有の聞書の誤りをはっきり指摘し、「大貳云く、此の義は誤りなり」などと記したならば、阿部の言うごとく「忌憚のない意見」(『阿部側回答書』二二頁)の披露に違いない。しかし、日寛はそのように日有の説を全面否定せずに「大貳云く、此の義観心に約する歟」と述べた。日有の説を一種の観心釈として会通し、「歟」という幅を持たせた表現も用い、何とかして肯定しようとしたのである。これこそ、日寛が先師に対し、慎重な配慮を幾重にも示しながら直接的批判を避けた好例ではないか。阿部の弁解はかえって自らの首を絞める愚行である。

 最後に、まともに答えるのも大人気ないような阿部の非難をとりあげる。阿部は、私が質問状で引用した堀日亨の註釈中の「冗説せざるか」(研教9-777)という表現に目をつけ、「冗説せざるか」の「か」は「自ら決せざる『歟』の字」(同前)だから日亨はここで何も断定していない、と主張している。この「か」はたしかに不確実な意を表す。が、だからと言って日亨が自らの意見を述べなかったわけではない。もし日亨が本当に「自ら決せざる」心境だったならば、註釈そのものを遠慮したはずである。そうではなく、「有師の説と本師(日寛)の主論と徑庭甚だしきが故に冗説せざる」と理由を挙げて説明しているのだから、日亨は自身の意見をはっきりと開陳している。とはいえ、碩学の日亨は阿部のごとく、仮説を演繹的結論にすり替える論法をとらない。ゆえに、良心的に「か」の字を付し、仮説は仮説のまま提示したのだろう。阿部も、少しは日亨の学術的態度を見習うべきではなかろうか

 

4 法主による本尊の開眼と許可について

 

(松岡から阿部への質問)

 あなたは、平成九年八月二十八日、大石寺で開催された「全国教師講習会」において「以前から今日に至るまで、あらゆる御本尊は、下附のために総本山から離れる前に、丑寅勤行において法主が祈念をしている」[6]と明言されました。しかしその直後、あなたは「以前に法道院より各末寺が送付を受けた御形木御本尊について『開眼がない』と(某氏が)推測しているのですけれども、当時の法道院主管の早瀬道応師、のちの日慈上人は、総本山の法主の許可によって、当時においてお取り次ぎをしていた」[7]とも述べました。非常に曖昧模糊とした語り口なので、今一度、確認します。あなたが「あらゆる御本尊は、下附のために総本山から離れる前に、丑寅勤行において法主が祈念をしている」というところの「あらゆる御本尊」の中に、形木本尊は含まれていませんね。なぜならば、その後で東京・池袋の法道院が各末寺へ送付していた形木本尊については「法主の許可」で充分だったと語っているからです。察するに、あなたの考えは「あらゆる法主直筆の常住本尊は開眼されているが、印刷の形木本尊については法主の許可さえあれば開眼の必要がない」ということと思われます。そうだとすれば、なぜ形木本尊には開眼の必要がないのですか。法主が直接祈念するわけでもなく、不特定多数の形木本尊に漠然と許可を与えるだけで、なぜ、すべての形木本尊に「法魂」が宿るのですか。草木成仏の意義の上から、教義的な説明を願います。また、いわゆる「特別御形木御本尊」については開眼の必要があったのかなかったのか、そしてなぜ常住本尊には開眼、形木本尊には許可といった区別を設けているのか、についてもお答え下さい。

 

(阿部側の回答要旨)

 日顕は、形木本尊を含めたすべての本尊は丁重に開眼されている、と明確に言っている。丑寅勤行においてなされる開眼は、法主が允可した一切の本尊に及ぶもので、これには形木本尊も当然含まれている。日顕が言う開眼の意義とは、日蓮の内証たる唯授一人血脈相承の境界よりなされる開眼の祈念によって、允可された一切の本尊に時間・空間を超えて法魂が具わる、ということである。この開眼の意義に関する甚深の内容は、余人が知ることなどできるはずもない。 

したがって過去に東京・池袋の法道院で行われていた形木本尊の下付に関しては、法主の允可のもとで行われ、その上で丑寅勤行の折に法主が開眼の祈念をし、さらに各末寺で丁重に宝前にお供えをしてから下付されてきたのである。

 

(松岡の再批判)

 今日まで阿部は、法主が丑寅勤行の際、すべての形木本尊を宝前に供えて開眼してきたかのごとく釈明してきた。「あらゆる御本尊は、下附のために総本山から離れる前に、丑寅勤行において法主が祈念をしている」という阿部の発言は、そう受けとられて当然の内容である。ところが今回の『阿部側回答書』により、この阿部発言は悪質なレトリックであることが判明した。すなわち、法主の阿部は、形木本尊を目の前に安置して開眼の祈念を行っていなかったのである。わざと論旨不明瞭な悪文にして読者を幻惑しようとしているが、要するに今回の阿部の言い分はこうである。重要な証言なので枠に囲んで示す。


阿部日顕は、本尊開眼の儀式を行っていない。そのかわり阿部は、丑寅勤行のついでに本尊開眼の意義を込めた祈念をしている。ただし、形木本尊を客殿の宝前に供え、阿部が直接に祈念することはない。丑寅勤行における阿部の祈念は、阿部が目にしたこともない大量の形木本尊にも及び、時空を超えて宗祖の法魂をすべての本尊に宿らせる。それで事足りるのである。


 法主による本尊の開眼供養とは、新しい本尊を宝前に供え、法主が目の前の本尊に向かって草木成仏の祈念を行うことである――多くの人々は、そう理解していたのではあるまいか。しかるに阿部は、法主が丑寅勤行の際、その場にない不特定多数の形木本尊を想像しながら祈念すれば開眼したことになる、と言い張るのである。ここには、看過しえない多くの矛盾がある。

 第一に、丑寅勤行での法主の祈念により、何十万何百万もの非対面の形木本尊に一斉に入魂がなされるのならば、あらゆる開眼の儀式自体が不必要となろう。ここで想起されるのは、宗門寺院で行われている数珠の開眼の儀式である。私の知るかぎり、現法主の阿部は「御開扉」の際に数珠の開眼を行っていた。その時には、予め宝前の「御前机」の上に、数珠の束を何十束も三方に入れて乗せておく。そして、「御開扉」の読経が寿量品に入ると、阿部は数珠の束を一束ずつ手にとり、それを自分の額に近づけながら「南無妙法蓮華経」と念ずる仕草をする。これが数珠の開眼の儀式であった。この儀式を経た数珠は「御法主上人御開眼の御数珠」と称し、一般信徒向けに販売される。阿部にとって、本仏の法魂を宿すべき形木本尊の開眼こそ、あらゆる開眼の中で最重要なはずである。それすら非対面の祈念で事足りるのに、なぜ数珠の開眼が、かくも物々しい儀式作法を踏んで行われているのか。大いに疑問であり、矛盾も感ずる。

 第二に、阿部は丑寅勤行の際、常住本尊を宝前に供えて祈念することがある。私の記憶では、時折、「特別御形木御本尊」も丑寅勤行の際に宝前に供えられていたように思う。それなのに、一般信徒向けの形木本尊にかぎって丑寅勤行の際に宝前に供えないのはなぜか。つまり、同じ日蓮正宗の本尊であるにもかかわらず、常住本尊には法主が対面して祈念、形木本尊には法主が非対面の祈念、という区別をつけるのはなぜか。教義上の理由を、阿部は全く示していない。

 第三に、「大聖人の御内証たる唯授一人血脈相承の御境界よりなされる開眼の祈念によって、允可された一切の御本尊に時間・空間を超えて御法魂が具わる」(『阿部側回答書』二五頁)という阿部の主張には、文献的・教義的な裏づけが何一つない。阿部は学術界の人間ではないから、「甚深の内容は余人が知ることなどできるはずもない」(同前一九頁)と力んで自己の世界に閉じこもるのも結構だろう。だが、そのように「権威に訴える論証の誤謬」を自覚的に犯して何ら恥じないのならば、私の言説に「観察に関する虚偽」「軽率な概括による虚偽」がある、などと俄仕込みの知識で応酬するのは慎んでもらいたい。私の論理の矛盾を云々したいのなら、まず自分たちが論理の世界から逃げないことである。その意味で、もう一点指摘するが、「一切の御本尊に時間・空間を超えて御法魂が具わる」(同前一七頁)という阿部の主張は一種の形容矛盾である。なぜならば、法主の祈念によって一切の本尊に「御法魂が具わる」というのはすでに時間的で空間限定的な行為であり、「時間・空間を超えて」という表現と矛盾するからである。

 第四に、阿部はなぜ、独立した本尊開眼の法要を執り行わないのか。開眼の意義は「軽々しいものではない」(同前)と、阿部は私に言い渡してきた。ならば、広宣流布祈念を主眼とする丑寅勤行とは別に、厳粛かつ荘厳に本尊開眼の大法要を行うべきであろう。またも私自身の記憶に頼ることになるが、私は以前、阿部が正本堂での「大御本尊御開扉」の際に、新しく謹刻された個人下付の板本尊を宝前に供えているのを目にした。これらを要するに、阿部は、丑寅勤行や「御開扉」のついでに本尊開眼の祈念を行っていた、と考えざるを得ない。本尊開眼の意義を「軽々しいもの」にしているのは、むしろ阿部の方ではないのか。 

 第五に、阿部は平成九年夏の教師講習会において「あらゆる御本尊は、下附のために総本山から離れる前に」丑寅勤行で祈念される、と述べた。しかし、法主が直接対面して形木本尊の開眼の祈念を行わないのならば、法主自身は、どうやって祈念の対象となる「総本山から離れる前」の形木本尊と、すでに本山から離れた後の形木本尊とを区別しているのか。例えば、本山から離れる前の形木本尊の数と送付先を担当者が阿部に一々報告し、阿部がその都度、それらの形木本尊を思い浮かべて祈念するのか。「総本山から離れる前」とわざわざ念を押すのなら、その言に見合った開眼祈念の具体的手順を示すべきである。また、法主の祈念は時空を超えた甚深のもの≠ニ神秘化して議論を制止したいのなら、「総本山から離れる前」などという時間的表現を使ってはならない。さらに、以前は静岡県の総本山から遠く離れた東京都心の法道院(厳密には法道院内の「仏書刊行会」)で形木本尊の下付を行っていたわけだから、今さら「総本山から離れる前」の開眼祈念を強調する必要がどこにあるのか。これらの様々な疑問に阿部が十分に答えられなかった場合、我々はこう考えるしかない。阿部が「総本山から離れる前」の形木本尊の開眼祈念を力説したのは、いかにも法主が対面して形木本尊の開眼を行っているかのごとく信者に思い込ませるための虚偽表現である、と。

さて、以上の諸考察に基づく私の見解を提示しておきたい。まず、本尊開眼の儀式は、少なくとも大石寺門流の重要な伝統にはなく、わずかに常住本尊や板本尊のために開眼の祈念が行われるにとどまっていた。法主の阿部は、その本尊開眼の祈念を主に丑寅勤行の片手間に行っているが、数の上から圧倒的多数を占める写真印刷の形木本尊については客殿の宝前に供えることなく、非対面の祈念という形をとっている。累計すれば何百万体にも及ぶ形木本尊を、すべて丑寅勤行の宝前に供えることなど、もとより物理的に不可能である。もっとも、阿部のように丑寅勤行等のついでに事を済ますのではなく、形木本尊を開眼するための特別法要を、形木本尊を保管する場所まで法主が出向いて定期的に行うならば、すべての形木本尊に関して常住本尊と同じく対面の開眼祈念を行うことも十分に可能だろう。とくに、信徒数が激減した現在ではそうである。この点から言えば、すべての形木本尊に対面して開眼祈念を行おうとしない阿部の態度は怠慢である、と言われても仕方がない。かくして、阿部の言う本尊開眼の意義とは、こうした怠慢が認められるほど「軽々しいもの」と言うべきなのである

 

5 開眼本尊の焼却について

 

(松岡から阿部への質問)

 さらにここで、具体的な事実関係について質問します。あなた方は「御本尊は御開眼により大聖人の御法魂が宿り給う」(『血脈公開論批判』一九五頁)と言われています。しかし、大石寺では以前、まるで人目を憚(はばか)るかのごとく、大坊西寮の近くの倉庫の中に密かに焼却炉を設置し、そこで所化小僧らに返納本尊の焼却をさせていました。私自身も大石寺に在勤していた折、この場所で本尊焼却に立ち会ったことがあります。もちろん、自分自身の体験のみをもって既成事実とみなすことは、研究者としての立場上いたしません。したがって改めてお聞きしますが、今現在、全国の寺院から送られてくる返納本尊を焼却していますか。「はい・いいえ」のいずれかでお答え下さい。また、もし本尊を焼却されているのなら、「大聖人の御法魂が宿り給う」本尊を大量に焼き払っていることになりますが、その点はどうお考えですか。仮に「法主が許可しているからよい」と言うのであれば、まず具体的にどのような手順で許可がなされるのか、ご説明下さい。そして次に、なぜ「開眼」の時と同じく法主が、いわば「閉眼」の儀式を行わないのか、文献的、論理的な根拠をお示し下さい。

 

(阿部側の回答要旨) 

 総本山では、全国の末寺より返納された御本尊に関して、しかるべき施設において丁重に「御火中」してきた。「お役目」を終えた形木本尊に具わる「御法魂」は、法主の許可のもとに「御火中」され、かつ丑寅勤行における法主の祈念によって日蓮のもとに還るのである。こと本尊に関する権能は法主にのみ存するのであり、法主の意に反して勝手に本尊を焼却することこそ大謗法行為である。本尊は法主の慈悲により信者に貸し下げられているものである。

 

(松岡の再批判)

 阿部側の回答からわかることを列挙してみよう。

@ 阿部は「大坊西寮の近くの倉庫の中に密かに焼却炉を設置し、そこで所化小僧らに返納本尊の焼却をさせていました」という当方の記述を否定しなかった。したがって、阿部は本山内で人目を憚りながら所化小僧に返納本尊の焼却をさせていた、と断定する。当たり前の話だが、焼却炉というのは安全面からも屋外に設置すべきものである。それなのに阿部は、シャッター付の倉庫の内部に焼却炉を設置し、焼却炉が外から見えないようにして本尊の焼却作業を行っていた。これを「人目を憚る」行為と言わずして何と言うのか。

A 当方がどのようなプロセスで法主が本尊焼却の許可を与えるのか、そしてなぜ焼却前に「閉眼」の儀式を行わないのか、と尋ねたことに対しても、阿部は何の回答も示せなかった。よって阿部は、返納本尊の一々を直接に確認した後で焼却の許可を出しておらず、「閉眼」の儀式も行っていないことが判明する。

B とすれば、要するに法主の阿部は、返納本尊の焼却について何も関知せず、配下の僧侶に任せ切りにしていると考えてよい。かかる姿をもって「御法主上人の御許可」「御法主上人の裁断」による本尊焼却、などと言うのは欺瞞である。正確には、法主の阿部は、自分が知らぬ間に返納本尊の焼却が定期的に行われているのを漠然と黙過している≠ニいうのが実態であろう。

次に、阿部の回答のポイントは「お役目を終えられた御形木御本尊に具わり給う御法魂は、御法主上人の御許可のもとに御火中申し上げ、且つ丑寅勤行における御法主上人の甚深無量の御祈念によって、大聖人のもとに還御遊ばされるのである」(『阿部側回答書』三〇頁)というところに存すると思われる。そこで、この主張の問題点を指摘しておく。

@ 「お役目を終えられた御形木御本尊」と言うが、「お役目」を終えた本尊かどうかを、阿部はいかにして判定するのか。法主が一体一体の本尊を手にとって判定するわけでもあるまい。『阿部側回答書』では、「授与者が亡くなったり、継承する家族の不在などによってお役目を終えられた御本尊」(同前)と言っている。しかし、実際にはそのようなケースよりも、正宗の信仰を捨てた人が返納した本尊、いわゆる「退転者」からの返納本尊の方が多いのではないか。退転者からの返納本尊は、比較的新しい形木本尊であることが少なくない。しかも授与者を救う前に返納されてきた形木本尊なのだから、とても「お役目を終えられた」とは言えないはずである。阿部は、そうした「お役目」を終えていない返納本尊も、厳密に区別せずに焼却している。阿部の珍奇な「役目終了本尊=焼却」論の矛盾がここに顕れている。

A また、たとえ「お役目」を終えた返納本尊であったとしても、なぜ焼却しなければならないのか。「お役目を終えられた御形木御本尊に具わり給う御法魂」と述べられているように、阿部は、返納本尊にも本仏の法魂が宿っていると考えている。阿部から見て、そのように尊い返納本尊を焼却するのは余りにも勿体ないはずである。なのに、恐らく累計で何十万体もの返納本尊を焼却するとは何事か。言行不一致この上ないことである。宗開両祖の直筆本尊はもとより、歴代法主筆のすべての常住本尊は、いかに古く摩滅していても、または継承者が不在の場合でも、決して「お役目を終えられた」とは見なされず、寺宝として総本山内で保管されている。本仏の法魂を宿すという意味では、歴代法主の常住本尊も返納の形木本尊も同じであろう。してみれば、いかに大量の返納本尊を抱えようと、阿部はそれを焼却すべきではなく、寺宝として丁重に本山内で格護しなければならない。阿部の理屈に従えば、そうあるべきである。  

B 「丑寅勤行における御法主上人の甚深無量の御祈念」によって、返納本尊の法魂は「大聖人のもとに還御遊ばされる」と阿部は言う。これは過去のいかなる法主も唱えたことのない新説であるが、宗祖・日蓮の教説=「文証」によって根拠づけられるのか。阿部は、これには法主以外は誰も知らない甚深の法門がある、などと言うかもしれない。しかし、たとえ法主だけが知る法門があるとしても、それは日蓮の教説を正しく知るための解釈論でなければならない。すなわち「経・釈・論」に約せば、日蓮の教えは「経」、歴代法主の指南は「釈・論」にあたる。「経」を示せない「釈」「論」はもはや釈論とも言えず、法主の己義となる。ゆえに、阿部が新しい法門(釈論)を唱えるのならば、何よりも日蓮の教示という「経」を示しなさい、と私は言うのである。

C 返納本尊の焼却について、阿部は「丁重に御火中申し上げてきた」「御火中申し上げる儀」(『阿部側回答書』二九、三〇頁)と勿体ぶった表現をしているが、それほど重大な儀式ならば、なぜその「御火中」の儀を所化小僧らに担当させているのか。私の経験から言っても、彼らは教師僧侶から何の指導も受けず、袈裟衣を著することすらなく、極めて事務的に返納本尊の焼却を行っていた。中には読経唱題もせず、まるで薪をくべるがごとく本尊を焼却している者がいた。本尊の法魂を本仏大聖人のもとに「還御」する重要儀式だ、と主張するのならば、法主の阿部自身が法衣で正装し、いかに面倒でも一体ずつ、丁重に「御火中」するのが筋ではないか。私の知るところでは、返納本尊の焼却は、阿部はもちろん、本山執事や内事部の理事、塔中住職も担当していない。大石寺において、返納本尊の焼却は実質的に下等業務とみなされていた。それゆえに、僧階が最も低い所化小僧がそれを受け持たされたのである。

 以上、阿部の主張の問題点を指摘した次第であるが、この機会に本尊下付の件にも触れておきたい。阿部は、法主が信者に本尊を貸与することが「御本尊下付の本来の意義」であると考えている。この考えは、宗祖・日蓮の教示と食い違っている。『高橋入道殿御返事』には、「上行菩薩出現して妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生にさづくべし」(全集1458・定本1085)との日蓮の言が存する。 大石寺門流の教学において、「上行菩薩」とは本仏・日蓮の外用の姿であり、「妙法蓮華経の五字」は日蓮図顕の曼荼羅本尊を指している。つまり、本尊を「一閻浮提の一切衆生」に授与する主体は、あくまで末法の本仏たる日蓮その人である。念のために言うが、本仏の法魂を所持する法主も本尊授与の主体である、といった論には何の論理的、文献的根拠もない。あるのは、法主による法主の正当化という循環論法だけである[8]。また「一切衆生にさづくべし」ともあることから、本尊は上行菩薩即久遠元初の本仏から一切衆生に与えられるのであり、阿部の言うごとく「お貸し下げ」されるわけではない。「さづく」とは、「目上の者から目下の者に与える」という意である[9]。そこに「貸す」という意味はまったくないのである

 

6 大石寺の唯授一人相承の永遠性について

 

(松岡から阿部への質問)

 『血脈公開論批判』では「そもそも仏法は付嘱の次第により正しく流通されてきたのである。付法蔵二十四人の仏法付嘱、釈尊より滅後末法の弘通を託された地涌の上首上行への結要付嘱、大聖人から日興上人への御付嘱、さらには日目上人以来御歴代上人への相承は、みな唯授一人の付嘱である」(一五六頁)と述べ、「唯授一人」という仏法付嘱のあり方が不変であると説いています。しかし、釈尊以来の「付法蔵」は「二十四人」で断絶し、中国における天台智から章安への付法も、中興の妙楽を経ていつしか形骸化していきました。また、日本天台では伝教から義真への仏法相承が慈覚の代になって早くも異流義化した、というのが日蓮の見方です。天台も、伝教も、日蓮も、むしろ歴史的現実としての血脈相承を受けずに仏法を立てて弘通しています。この事実からみれば、“大石寺門流においてのみ唯授一人の仏法付嘱が断絶しない”と主張するには、相応の根拠が必要です。むしろ大石寺の血脈相承も何時か必ず断絶もしくは形骸化し、しかる後に自解仏乗の悟り、己心の内相承によって仏法を復興する人物が出現する≠ニみた方が、仏教史的にも、日蓮の相承認識の上からも、無理のない見解ではないでしょうか。

まず、仏教史上、唯授一人の仏法付嘱がしばしば断絶したのはどうしてなのか、あなたの意見を述べて下さい。次に、あなた方が「日蓮の仏法の付嘱だけは永遠に大石寺の歴代法主によって行われる」と断定しているのは、単なる宗派的信念の表明なのか、それとも何か合理的な理由があるのか、をお答え下さい。ただし、宗門の内輪だけで通用する「文証」ではなく、文献学的に承認された日蓮文書を基に、しかも、大半の現代人が納得する議論を提出して下さい。要言すれば、少なくとも現代人の理性的判断が許容しうる「文証」と「道理」を出してほしい、ということです。例えば、「代々の聖人悉く日蓮なり」(『御本尊七箇相承』、要1-32)の文によって〈法主の内証=本仏〉の義を立てるような「道理」では、土台となる「文証」の真偽が不確かであるうえに[10]、代々の聖人(法主)が「いかにして」日蓮となるのか、という教義的説明もなされていません。現代人の目には、独善的で怪しげな神秘主義としか映らないでしょう。

なお、あなた方がよく引用する、『百六箇抄』の「上首已下並に末弟等異論無く尽未来際に至るまで予が存日の如く日興嫡嫡付法の上人を以て惣貫首と仰ぐ可き者なり」(全集869)との文については、堀日亨が後人の加筆と判断しています。また、日亨が当文を日蓮真筆と同様に扱ったことを強調しても、法主によって法主を正当化する、という例の循環論法にすぎず、対外的な説得力はありません。同様に、歴代法主の諸文献によって大石寺の唯授一人相承の永遠性を根拠づけることも、循環論法の誤謬に陥ることを指摘しておきます。

ついでながら、本件にかかわる、あなた自身の相承問題について一つだけお聞きします。巷間、阿部日顕が血脈相承を受けておらず、大石寺門流の相承は六十六代で断絶した、と主張する人々がいます。それに対し、あなた方が真剣に反論していることも承知しています。私が関心を持つのは、本当に相承の儀式が行われたかどうか、という問題とともに、通常、大石寺の血脈相承に先立って行われるはずの「師弟の契約」について、あなたが一言も述べていないことです。あなたは、前住の細井日達と何時、どこで「師弟の契約」を結んだのですか。そして師弟の契約を結んだのであれば、あなたは、どうして師匠たる細井氏が精魂込めて作った大客殿、正本堂、庭園などを軒並み壊していったのですか。あなたは、寄進者である創価学会の謗法を理由にしていますが、建立者はあくまで日達です。日達が丹精を込めた大奥の庭園に至っては、学会とは何の関係もありません。なのに、あなたは法主就任後、その庭園を即座に壊し、自分好みに作り変えています。これらは、「師弟の契約」を結んだ者の行為としては理解困難なので、お聞きするのです。また、あなたがなぜ日達の弟子の集まりである妙観会に自ら参加し、同会を積極的に支援しないのか、この点も甚だ疑問です。日達の弟子の立場から、理由を聞かせて下さい。

(阿部側の回答要旨)

 釈尊滅後正法時代に仏法を弘通した付法蔵の二十四人、像法時代に仏法を弘通した南岳、天台、妙楽、伝教等の四依の大士は、何れも教主釈尊よりそれぞれの時代における仏法弘通を付嘱せられたからこそ、その付嘱に則って出世し、それぞれ付嘱の任を全うした。しかして、白法隠没と経文に説かれるとおり、釈尊滅後、正法像法時代の本巳有善の衆生の化導が終わり、脱益仏法により救われる機根が無くなれば、釈尊の仏法が滅尽することは、むしろ当然である。

 しかし、日蓮の仏法は決して滅尽しない。『日蓮一期弘法付嘱書』に「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり」(全集1600・定本2184)と、また相伝書である『百六箇抄』に「直授結要付嘱は唯一人なり、白蓮阿闍梨日興を以て総貫首と為して日蓮が正義悉く以て毛頭程も之れを残さず悉く付嘱せしめ畢んぬ、
上首已下並に末弟等異論無く尽未来際に至るまで予が存日の如く日興嫡嫡付法の上人を以て惣貫首と仰ぐ可き者なり」(全集869・定本なし)と言われているように、末法万年に亘る下種仏法においては日蓮の法魂を在する戒壇本尊と、唯授一人の付嘱による金口嫡々の血脈法水は永劫に存続する。               

 松岡は文献学的に承認された日蓮文書を基に≠ニいうが、それはどのような基準によって選び出された御書を指すのか。身延の学者同様に、相伝書を大聖人の御指南と見なさないということなのか。ならば松岡に質問するが、松岡は、御書全集にも収録された『御義口伝』『百六箇抄』を、日蓮の正当な指南と認めるのか、認めないのか。認めないというのなら、その理由を公表することが先決である。

 また松岡は、血脈相承に先立って行われるはずの「師弟の契約」≠ネどと、さも相承の儀式を知っているかのようにいうが、甚深の相承の義に関して、知りもしないことをいい加減にいうものではない。

さらに諸堂宇の解体について言えば、大客殿は耐震構造上の不備により建て直されたものであり、また正本堂は、寄進者の謗法の邪念に汚されたが故に戒壇御本尊を清浄なる奉安殿に遷座し、これにより無用の長物と化した堂宇を解体したものである。これらの何れも、世法上、仏法上からの当然の措置であった。そして大奥の庭園は、昭和六十三年十月七日に落成した六壺の新築に伴って、限られたスペースの上から、その景観に相応しい庭園として造成されたものである。

松岡はさらにまた、あなたがなぜ日達の弟子の集まりである妙観会に自ら参加し、同会を積極的に支援しないのか、この点も甚だ疑問≠ネどという。だが、妙観会とは、日達より得度を許された直接の弟子の集まりであり、日顕の直接の師匠は別の者であるから、当然日顕は妙観会に所属してはいない。所属していなければ、その会の会合に出席すべき理由がないではないか。法主は全宗門を統率する立場であり、全宗門人の師匠である。よって法主は、全宗門人を全て平等に見るのである。

(松岡の再批判)

 ここでも、阿部の奇を衒う新説が披露されている。――正法千年・像法千年説に立てば、それらの時代の仏法付嘱は有限であり、断絶するのが当然である。それに対し、末法は万年・尽未来際なのだから、末法の仏法付嘱すなわち大石寺の血脈相承だけは永遠に存続する――彼らはこう言いたいのだろう。これは余りに粗雑な議論である。

ただちにわかる矛盾をいくつか示しておく。日蓮の見方を採用すると、日本天台宗の第三祖・慈覚が比叡山を謗法化してから、像法時代が終わり末法に入るまでの期間は、約二百年である。その約二百年間は、まだ像法時代の「本巳有善の衆生」が存在したが正法付嘱の流れは断絶していた、ということになる。ゆえに末法においても、救済すべき本未有善の衆生を残しながら大石寺の相承が断絶する、という事態は十分に起こりうるはずである。また像法一千年の間に、正統相承の所在は中国の天台山から日本の比叡山へと移っている。ここから、末法万年における正統相承の所在が富士大石寺から別の教団に移っても不思議ではない、という理屈も成り立つ。

また阿部の説は、日蓮の『観心本尊抄』における「此の四菩薩折伏を現ずる時は賢王と成つて愚王を誡責し摂受を行ずる時は僧と成つて正法を弘持す」(全集254・定本719)という教示と明らかに矛盾する。当文によれば、上行菩薩等の地涌の四菩薩は、「摂受」の時代には出家の僧となって出現するが、「折伏」の時代には在家の賢王となって出現する、とされている。つまり、末法には「摂受」の時代と「折伏」の時代とがある。「摂受」の時代には上行別付の「正法」(三大秘法)を唯授一人相承で伝える僧の意義も重要だろうが、「折伏」の時代になると上行等の四菩薩は在家の「賢王」となって出現する。だから、「僧」が主体となる唯授一人相承はいずれ役割を終え、かわりに在家主体の広宣流布の時代が到来する――そう解釈することは、先の日蓮の予言に基づく合理的推論であると言えよう。この日蓮の予言に照らせば、大石寺の唯授一人相承が永遠に存続する、という阿部の主張は本質論的に否定される。正像二千年・末法万年説を用いて大石寺の相承の永遠性を説明しようとする阿部の新説には相当な無理があり、単なる主観的信念の表明とみなすしかない。

加えるに、阿部は『日蓮一期弘法付嘱書』と『百六箇抄』の後加文を引用し、もって大石寺の相承の永遠性を証する文としている。すでに論じたように、『日蓮一期弘法付嘱書』は日蓮から日興への付嘱に関する書状であり、これを歴代法主間の血脈相承にまで拡大適用するのは「合成の誤謬(fallacy of composition)」という論理的誤りである。そして、「上首巳下並びに末弟等異論無く尽未来際に至るまで予が存日の如く日興嫡々付法の上人を以つて総貫首と仰ぐ可き者なり」(要1-21)という『百六箇抄』の記述が日蓮の真筆でなく後加文であることは、日蓮遺文の文献学的研究上の定説であるだけでなく、宗門の五十九世・堀日亨も認めたところである。

 こうした点は当の阿部も先刻承知の上なので、私に対し、「身延の学者同様」であるとか、『百六箇抄』は創価学会の御書全集に収録されているのに日蓮の正当な指南と認めていないとか、見当はずれの非難を浴びせてきている。私に言わせれば、「身延の学者」であろうがなかろうが、学問的な成果は成果であり、その知的探究の努力を無視することはできない。九世・日有も「学問修行の時は宗を定めざる」(要1-68)と述べ、「学問」の超宗派性を認めている。学問的批判は真摯に受け止め、己の信仰信条を固める糧にしていけばよい。それが、道理と文証を重視した宗祖の精神を現代に継承する意義に通ずる。

 それから、『百六箇抄』が学会の御書全集に収録されている云々の話については、すでに項目の1で述べたように「人に訴える論証の誤謬」である。つまり本来、私自身の発言内容に関する問題を、私という人の交際関係に事寄せて批判する、という論理の誤りである。これなど、大学の一般教養の論理学で教えられる典型的な論理的誤謬の一つである。いくら学問の素人とはいえ、阿部をはじめとする諸君も大学教育は受けたのだろう。初歩的な論理学の知識ぐらいは、承知しておいてもらいたい。

ところで、創価学会の教義上の変化について親の仇とばかりに非難する阿部の態度を客観的にみていると、素直に一つの感慨を覚える。それは、以前の創価学会は日蓮正宗の信徒団体であり正宗当局の見解を尊重した行動をとるのが当然だったのではないか、ということである。正宗の信徒団体だった頃の学会は、たとえ神話的教説であっても、信徒団体として正宗当局の意向に従うべき立場にあった。だが、阿部が学会を「破門」して以降、学会では宗門の教えの一部にある神話性に疑問を抱き始め、徐々に合理的見解に改めるようになった――こう考えた場合、以前の学会に神話的教説を教え込んだ加害者は日蓮正宗であり、学会はむしろ被害者にあたると言えよう。ただし、創価学会は当初から宗門の神話的教説に懐疑的だったが宗門外護のためにそれを認容し続けてきた、という可能性も考えられなくはない。その意味で、過去の学会が宗門の法主信仰を素朴に支持していた、とは言い切れない。いずれにせよ、阿部は、日蓮仮託の偽書を根拠に法主信仰を得々と信徒に教えてきた自らの不明を恥じ、一刻も早く創価学会や法華講連合会に陳謝すべきである。それを被害者側の学会に非をなすりつけるとは[11]、宗教上の「説教強盗」も同然である。

 次に、私が血脈相承に先立って「師弟の契約」が行われる必要がある、と述べたことに対し、阿部は「知りもしないことをいい加減にいうものではない」(『阿部側回答書』三四頁)と顔色を変えて反発している。しかし、阿部が「師弟の契約」を受けたかどうか、という肝心要の問題に対して、同回答書は口をつぐんだままである。これによって、阿部が前法主の細井日達から「師弟の契約」を受けていない可能性は格段に高まった、と言っておく。考えてみれば、「相承箱」の所持すら証明できない阿部の方こそ「知りもしないことをいい加減に」言えないのかもしれない[12]

「師弟の契約」については、私が知るとか知らないとかいう問題ではなく、大石寺の血脈相承の当事者である法主たちが自ら書き残していることである。例えば、四十八世・日量の『続家中抄』の「日舜伝」には「師下関の次に下谷常在寺に詣り精師に拝謁し師資の契を結ひ山に還る。其後精師尊尼と和睦有り信敬已前の如し、正保二乙酉初冬精師登山有りて同く十月廿七日暁天仏前に於て精師より、金口嫡々の大事を相承し正的第十九の嗣法なり」(要5-270)とあって、十九世・日舜が十七世・日精から「金口嫡々の大事を相承」される前に「師資の契」を結んだことが明記されている。また、三十五世・日穏による血脈相承の実施記録の中にも「元師の曰若し此法を受け玉ふに付ては身不肖手前の弟子と成り玉へと予云長く大法大恩の師範と仰ぎ奉るべし元師曰然らば弥々相違なき堅の盃参らすべしとて則御始あって余に被下頂戴して御返盃申す師弟の契約極まり畢ぬ。因師言今日の元師は日因が弟子なり日穏師は日元師の弟子なり如此三人師弟一双なる処則是事の一念三千なり」云々とある[13]。三十三世・日元は三十五世となるべき日穏に対し「此法を受け玉ふに付ては身不肖手前の弟子と成り玉へ」と言い、日穏はこれを受けて日元・日恩の「師弟の契約」の儀が執り行われる。それを見届けた隠尊の三十一世・日因は、日因―日元―日穏という師弟の系譜が成立したことで三人が「師弟一双」となり「事の一念三千」の妙境が成就されたと説く。その意義の下で「一大事の秘法」の血脈相承が行われていくのである。この記述を読むと、「師弟の契約」は金口相承を受けるための必要条件であるようにみえる。それゆえ私は、先の質問状の中で「大石寺の血脈相承に先立って行われるはずの『師弟の契約』」と表現したのである。

 そして「師弟の契約」を結ぶにあたり、弟子となる日穏が師となる日元に対し「長く大法大恩の師範と仰ぎ奉るべし」と誓っていることを見て、細井日達を「大法大恩の師範と仰ぎ奉」らねばならぬ阿部に、そのような素振りがまったく見られないのを非常に不思議に感じ、質問したわけである。

これに関連して、改めて阿部に聞いておきたいことが一、二ある。『法主信仰擁護書』では、『続家中抄』の「日舜伝」における「師資の契を結び」という箇所を「血脈の内付」「実質的な御相承」のことであると説明している(二一頁)。とすると、その「血脈の内付」から四年後に日精が日舜に「金口嫡々の大事を相承し」た(要5-270)、との記述があるのはなぜか。阿部はこの「金口嫡々の大事」の相承を「儀式として行われたもの」と言い張るが(『法主信仰擁護書』二一頁)、「金口嫡々の大事」の相承とは実質的意味など持たない、単なる「儀式」なのか。そうではないだろう。日元―日穏の血脈相承の記録を見ても、彼らは「師弟の契約」の後で「一大事の秘法御付属」を行っている。「師資の契」や「師弟の契約」は、あくまで信仰上の「契約」にすぎない。「師資の契」や「師弟の契約」の後の金口相承が単なる形だけの「儀式」ならば、「金口嫡々の大事を相承」「一大事の秘法御付属」などという表現が、とくに「大事」「一大事」という言葉が、そこで用いられるわけがない。ゆえに日舜について言えば、彼は信仰上の「師弟の契約」を結んだだけで、実質的な「金口嫡々の大事」を相承せずに本尊書写をしていたのである。これは、「金口嫡々相承を受けざれば決して本尊の書写をなすこと能はず」[14]という五十六世・日応の主張と矛盾する。ゆえに私は、阿部に注意を喚起する意味も込め、本年の『大白蓮華』九月号への寄稿文の中で軽く触れておいたのである。

また、もう一つ、阿部の「内付」問題に関しても問い質しておく。昭和五十四年七月二十二日の「重役会議」の席上、阿部は「実は昨年四月十五日、総本山大奥において猊下(六十六世・日達のこと=筆者注)より自分に対し内々に、御相承の儀に関するお言葉があり、これについての甚深の御法門の御指南を賜ったことを御披露する」と述べた。このことは、昭和五十三年四月十五日に阿部が「血脈の内付」を受けた、という意味に解してよいのか。よいのであれば、阿部に聞きたいのは「血脈の内付」の意味するところである。

阿部は、『法主信仰擁護書』の中で「『師資の契を結び』とはまさしく血脈の内付があったことを示している」(二一頁)と述べている。そこから敷衍していくと、昭和五十三年四月十五日における日達と阿部の対面は師弟契約の儀式だった、ということになる。

ところが、阿部はこの対面の席で「甚深の御法門の御指南を賜った」とも主張している。これは、阿部が金口相承の内付≠受けたことを意味しているのか。先の宗史上の諸事例が明白に示しているように、大石寺門流における金口相承の儀式とは本来、「内々に」行われるものではない。「内々に」なされる可能性があるのは、師弟契約の方であろう。

一体、阿部の言う「血脈の内付」とは何を意味するのか。阿部は、もっと明確に定義すべきである。『続家中抄』の「日舜伝」にしても、日穏の血脈相承の記録にしても、師弟契約と秘法伝授(金口相承)とは、はっきりと区別されている。〈師弟契約=秘法伝授〉という解釈は、史料の上から否定される。だとするならば、阿部は、そのどちらを指して、「血脈の内付」と称するのか。阿部は、かの「重役会議」の折には自分が金口相承の内付≠受けたかのごとく発言し、今回の『法主信仰擁護書』では師弟契約が内付である≠ニ言っている。もしや阿部は、師弟契約と秘法伝授の区別すらできていないのではないか。

ことは阿部が真実の法主であるかどうか、にかかわる重大事項である。本稿は内外の研究者に贈呈され、公的な図書館等にも長く保管されるであろう。どうか良心に従って、正直に思いを述べてもらいたい。もし阿部が真に血脈相承を受けた法主ならば、相承の事は法主のみが知ることだから、部外者が云々する資格などない≠ニいった感情的な秘密主義の態度はとらず、『続家中抄』の「日舜伝」や日穏の血脈相承の記録と、自分の発言や記述との論理的整合性について、冷静沈着に説明できるはずである。

 ところで話は変わるが、大客殿にしても、正本堂にしても、阿部が永久に師範と仰ぐべき日達が心血を注いだ建物である。どのような理由があろうと、先師が誇りをもって後世に残した建立物は可能な限り維持・管理していくのが法を嗣いだ者の当然の礼であり、「長く大法大恩の師範と仰ぎ奉るべし」という血脈の受者にふさわしい態度である。ところが阿部は、大客殿、正本堂だけでなく、六壷、「流れの庭」、大化城と、日達が丹精を込めて造り上げた建物等を軒並み取り壊し、日達の代に植樹された総坊周辺の二八〇本に及ぶ桜を伐採し、日達が挿し木した子持ち杉まで根こそぎ掘り起こした。

とくに六壷については、日達が防火を第一に考えてコンクリート造りの六壷を建てたのに対し、阿部はわざわざそれを焼失しやすい純木造建築に建て替え、新六壷の落成法要における「慶讃文」の中で「木造建築ニ恒久優雅ノ性アル」と述べるなど、日達が生きていれば激怒するような態度をとっている。また『阿部側回答書』では、大客殿の建て直しの理由として「耐震構造上の不備」(三五頁)を挙げている。だが、建て直しにあたって大石寺側から耐震診断の依頼を受けた、大客殿の設計者の横山公男は、解体を強行しようとする阿部の説明に「私達の耐震診断およびその報告書の著しい歪曲」があったと指摘し、宗内に訴えている[15]。結局、阿部は、日達が防火第一でコンクリート造りにした大客殿を、またもや木造建築に建て替えた。以上の諸点を総合的に判断するに、日達―日顕の間に「師弟の契約」があったとは考えられず、反対に、阿部は日達に相当な敵対感情を抱いている、と推察する方が合理的なのである[16]

 阿部が日達の遺弟の集まりである「妙観会」に対して冷淡なのも、日達に対する阿部の敵対感情を考えれば納得がいく。このことも、日達と阿部の間に「師弟の契約」がないことを傍証するものと言えよう。私が「なぜ細井氏の弟子の集まりである妙観会に自ら参加し、同会を積極的に支援しないのか」と質問したことに対し、阿部は「宗門に関し素人丸出しの短見」(『阿部側回答書』三六頁)などと狭い宗派根性をむき出しにして罵倒し、いわゆる「法類」による師弟関係を得意げに説明している。しかし、それこそ師弟関係を形式的にしか捉えられない信仰上の「素人」の言であろう。十五世・日昌は要法寺の円教院の弟子であり、かの日辰の訓育を受けたとされる。出家の師を最重要視する阿部の師弟観に従えば、日昌は、日主から血脈相承を受けた後も、第一義的には要法寺僧の弟子だったのか。要法寺と大石寺との通用が正式に始まった時期であり、日昌には出家の師を捨てた意識などなかったろう。事実、そのような記録も残っていない。阿部の師弟観は、史実との整合性を欠く形式論である。

 改めて阿部に尋ねる。貴君は日達の弟子なのか、弟子ではないのか。はっきり答えてもらいたい。「師弟の契約」を結んだ付法の弟子ならば、たとえ妙観会に所属していなくとも、心情的に「その会の会合に出席すべき理由がない」(同前)などと言えるわけがなかろう。馬脚を現すとはこのことである。また「全宗門人を全て平等にご覧遊ばされる」(同前)のが法主ならば、自分の弟子の集まりに毎回出席しているように、妙観会にも「平等に」出席すればよい。なぜむきになって、妙観会への出席に否定的態度を示すのか。ことほど左様に、阿部の師弟解釈は感情的かつ矛盾だらけである。阿部こそ「過去無量劫より已来師弟の契約有りしか」(『最蓮房御返事』、全集1340・定本621)という日蓮仏教の深遠な師弟の精神を知らず、皮相的な手続き上の師弟関係をもって、本来あるべき「宗門の師弟のあり方」と取り違えている顛倒者なのである。

ついでに付言しておくが、「そもそも血脈相承をお受け遊ばされた御当人であられる日顕上人が、日達上人より血脈をお受けした、と仰せられており、そのことは御登座以来の御法主のお立場におけるあらゆる宗門教導のお姿が証明しているのである」(『阿部側回答書』三四頁)との記述は、前半部分が極めて低次元な循環論法であり、後半部分では「感情に訴える論証の誤謬(fallacy of arguments which appeal to sentiments)」「文意あいまいの誤謬(fallacy of amphibology)」が目に余る。もう少し、論理性のある文章を書いてもらえないだろうか。これでは、当方も真剣に応答することができない

 

7 金口相承の内容の未公開について

 

(松岡から阿部への質問)

 金口相承の内容や文献が永遠に未公開であることの証左として、あなた方は十七世・日精の「当家甚深の相承の事。全く余仁に一言半句も申し聞かす事之れ無し、唯貫首一人の外は知る能わざるなり」(『当家甚深之相承之事』、歴全2-314)や五十六世・日応の「たとい広布の時といえども別付血脈相承なるものは他に披見せしむるものに非ず」[17]を引用します。これは、昨年末に出した私の論文の中で日寛によって金口相承の法門は理論的に整束され、開示された≠ニいう主張を出したことに対する反論ですが、どうも議論のすれ違いがあるようです。私が言いたかったのは、「たとえ大石寺門流の金口相承である法門や文献の内容が非公開のままだとしても、日寛の『文底秘沈抄』はすでにその教義上の核心を開示し終えている」ということであり、それゆえに「理論的開示」という表現を用いたのです。唯授一人、金口相承の法門に関する私の理論的開示説は、あなた方のいう相承文献の永久非公開説と矛盾しません。

そのことを踏まえたうえで、私はあなた方の永久非公開説に対し、強い疑念を抱いています。なぜならば、あなた方は、かつての法主が「非公開の唯授一人相承である」と規定した諸文献を「それは唯授一人ではない」と否定しているからです。例えば、『御本尊七箇相承』がそうです。十七世・日精は、この文献の相承によって本尊書写の資格が与えられると考えました。彼が著した『家中抄』の「日興伝」には「亦本尊の大事口伝あり是れを本尊七箇口決と申すなり、是の故に師に代りて本尊を書写し給ふ事亦多し」(要5-154)と、そして「日目伝」にも「亦本尊七箇決を相伝し給ふ、之れに依て元徳正慶の間師に代って本尊書写し給ふ」(要5-187)とあります。この『家中抄』の記述の真偽はともかくとして、日精が「本尊七箇口決」を本尊書写にかかわる極めて重要な法門とみたことは確かです。また、二十六世の日寛は、『御本尊七箇相承』を唯授一人相承の非公開文献とみなしました。『取要抄文段』「本尊七箇の口伝、三重口決、筆法の大事等、唯授一人の相承なり。何ぞこれを顕にせんや」(文段集599)と、また日寛の講義を三十世・日忠が筆録した『観心本尊抄聞記』には「本尊七箇、又本尊筆法等は一向に言わざる也。貫主一人の沙汰也」(研教12-589)と記録されています。

かくのごとく、日精から日寛にかけての江戸中期の大石寺では、現在の『御本尊七箇相承』『本尊三度相伝』等の内容が非公開とすべき「唯授一人の相承」であり、これらの文献の相承をもって本尊書写の資格を生ずるとしたことがうかがえます。ところが、前出の『血脈公開論批判』は「『御本尊七箇之相承』には保田日山・嘉伝日悦の写本、『本尊三度相伝』には水口日源の写本が存在する。このように大石寺の御法主上人による写本以外のものがあるということは、これらの書が重要書ではあっても、唯授一人金口嫡々の血脈相承書とは言えないことを明らかに示すものである」(八八頁)などとして、先の日精や日寛の言説を完全に反故にしています。今、あなた方が、唯授一人相承の重要文献に関する過去の法主の文言を否定するのであれば、大石寺の「法燈連綿」「法水写瓶」は看板に偽りあり、と自ら白状したのも同然です。先に述べたごとく、いわゆる「文底秘沈」の文が寿量品のいずこを指すのかについても、九世・日有と二十六世・日寛とでは意見が異なっています。将来、大石寺の「唯授一人金口嫡々の血脈相承」の法門や文献は時代により変化していた、という真相が究明されるのではないでしょうか。この点、あなたの意見を聞かせて下さい。

 

(阿部側の回答要旨)

 松岡の説では、大石寺の金口相承について日寛の『文底秘沈抄』がその教義上の核心を開示し終えているという。しかし松岡説には大要、次のような誤りが存する。

@ 日寛は、日養と日詳に唯授一人の血脈相承を行っている。このことこそ、日寛が『六巻抄』等に開示した法門とは別に、絶対に開示されてはならない唯授一人の血脈が存在するという厳然たる証拠である。

A 松岡は『六巻抄』にある「秘すべし」等の言説を取り上げて、それが唯授一人の秘法であるかのごとく思わせようとしているが、「秘すべし」との語は、『六巻抄』が門弟に講義されたという性質上、当然、他門に対して「秘すべし」と仰せられたものであり、大石寺門流の僧侶に対して秘密にされていたという意味ではない。

B 金口相承≠ノついてその教義上の核心≠開示し終えていると推考しているが、大石寺の金口嫡々の血脈相承は松岡が知ることのない唯授一人なのであり、その不識不知の松岡に『文底秘沈抄』が金口相承≠フ教義上の核心≠ゥ否かを判断する前提も資格もない。

C 日寛が述べた人法体一の本尊論は、その時代の機縁に応じて述べた法門であり、その根源となる唯授一人血脈相承の法体そのものを示したものではない。即ち人法体一の根本は「南無妙法蓮華経 日蓮」と書写された本尊にあり、日興をはじめ代々の法主はその根本の法体を血脈法水の上に承継している。つまり「唯授一人、金口相承」は、日応が「此の金口の血脈こそ宗祖の法魂を写し本尊の極意を伝ふるものなり之を真の唯授一人と云ふ」[18]と言うように「宗祖の法魂を写し本尊の極意を伝ふるもの」であって単なる法門相承ではない。松岡の論は、金口嫡々の相承と法門相承をあえて混同させた戯論に過ぎない。 

 また松岡は、日寛の『法華取要抄文段』の「本尊七箇の口伝、三重口決、筆法の大事等、唯授一人の相承なり。何ぞこれを顕にせんや」(文段集599)や日忠筆録の『観心本尊抄聞記』の「本尊七箇、又本尊筆法等は一向に言わざる也。貫主一人の沙汰也」(研教12-589)を引き、そこに「唯授一人の相承」「貫主一人の沙汰」とあることをもってこれらの文献の相承をもって本尊書写の資格を生ずるとしたことがうかがえます≠ニ主張している。しかし、『法華取要抄文段』は日寛が登座以前に著したものであり、そこに「何ぞ之を顕わさんや」と言っているのだから明らかに「本尊七箇の口伝」や「三重口決」について内容を承知していた上での発言である。『御本尊七箇之相承』や『本尊三度相伝』は本尊に関する大事の相伝書ではあるが、日寛が著述に引用したり、他山にも写本があることからも明らかなように、極秘伝の金口嫡々の相承ではない。しかるに、「唯授一人の相承」「貫主一人の沙汰」と記されているのは、『御本尊七箇之相承』や『本尊三度相伝』が門下に伝承されていたという実態とは別に、本尊書写の大権を持つ法主が、両書に含まれる血脈相伝の深義をそう述べたのである。また「何ぞ之を顕わさんや」「一向に言わざる也」とは、本尊に関する深義が甚深の法門なので、扱いに慎重を期した教示なのである。 

 さらに松岡の質問状には、「いわゆる『文底秘沈』の文が寿量品のいずこを指すのかについても、九世・日有と二十六世・日寛とでは意見が異なっています。将来、大石寺の『唯授一人金口嫡々の血脈相承』の法門や文献は時代により変化していた、という真相が究明されるのではないでしょうか」と記しているが、日有・日寛の見解に全く齟齬はない。なぜなら、『当流行事抄』に「能詮の辺、二千余字是を我内証の寿量品と名け所詮の辺、妙法五字是を本因妙と名るなり」(要3-207)とあるごとく、「内証の寿量品」二千余字は全てが文底なのであり、文底の妙法五字の能詮たる「内証の寿量品」の場合、全ての文が本因妙を詮顕するからである。「文底秘沈」に関する松岡の論は、下種法門の構格に暗く部分観に執われた邪難である。

(松岡の再批判)

 ここが、私と阿部の論争の焦点にあたる。じっくり検討したい。『東洋哲学研究所紀要』第二〇号(東洋哲学研究所、二〇〇四年一二月)に発表した「現代の大石寺門流における唯授一人相承の信仰上の意義」、及び『印度学仏教学研究』第五四号(日本印度学仏教学会、二〇〇五年一二月)に掲載予定の「大石寺日寛の教学にみる相承法門の開示」の両論稿において、私が最も強調した点が、大石寺の金口相承の教義上の核心はすでに日寛の六巻抄の中で開示されている、ということであった。この私の見解に対し、今回の『阿部側回答書』は上述のごとく、四点にわたって反論してきた。今から、一つずつ答えていく。

 @の反論は、日寛が日養と日詳に唯授一人血脈相承を行ったことこそ六巻抄の法門以外に非開示の血脈が存在する証拠だ、という意見である。しかしながら、日寛が六巻抄で説示した核心部分を再度、後継法主に血脈相承したとしても何の不思議があるのか。再治本の六巻抄は享保十年に六月中旬にすべてが完成し、日寛は翌年の八月に寂している。この間、日寛が再治本の六巻抄を自門の学僧らに開陳した形跡はみられない[19]。それどころか、日寛は学頭の日詳に「尤も秘蔵すべし」と言って六巻抄を密かに授与し、その翌年に日詳に血脈を相承して世を去った。とすれば、六巻抄は、日寛が血脈相承に先立ち後継法主に別して授与した最重要の秘書であるといえ、その内容上の核心部分が血脈相承の非開示の法門と重なっていても決しておかしくないのである。

阿部は、六巻抄が「門弟の教化育成のために著されたもの」(『阿部側回答書』四〇頁)と言うが、それはおよそ『御書文段』にあてはまることである。ただ、未治本の六巻抄については、特別に披見が許される場合が、稀にはあったかもしれない。掘日亨は、「六巻抄註解に就ての総序」において「学頭時代に六巻抄の講録も成り其都度門下には或は内見を許されたものもあらう」(要3-2)と記している。ここで日亨が「或は内見を許されたものもあらう」と推測しているように、未治本の六巻抄でさえも極めて厳重に秘匿されていたことが逆にうかがえる。「内見」とは「公開をせず内々で見ること」[20]である。その内密の披見すら、「或は」「許されたものもあろう」と可能性を推察するにとどまり、実際にあったか否かは定かでない。そう考えれば、あたかも六巻抄が「門弟の教化育成のために」公開されていたかのごとく装う、阿部の欺瞞の言説が改めて浮き彫りになる。

また前回の『血脈公開論批判』の中で、阿部は、六巻抄の再治から七十八年後の享和三年に一般僧侶が転写した『末法相応抄』の存在を示しながら「このことは、すでに当時の門下が六巻抄を披見し、研鑽していたことを物語っている」(同書九〇頁)と弁解していたが、議論の飛躍も甚だしい。わずか一例の転写本の存在によって、どうして「当時の門下が六巻抄を披見し、研鑽していた」などと言えるのか。しかも、日寛の再治から七十八年も経った時期の転写本である。阿部が「当時の門下」という「当時」には八十年近い幅があるのであり、平成の今の宗門と大正末期の宗門とを同一視するようなものである。「当時」という言葉の裏に隠された、阿部の詭弁の意図を見抜かねばならない。そうすれば、日寛はその当時における門弟教化のために六巻抄を著した、などという阿部の虚言の悪質さが実感できるであろう。結局のところ、「此(六巻抄のこと=筆者注)と本尊抄文段とは特に門外不出貫主直伝の秘書であったが、後世には何日となしに写伝して次第に公開せらるるに至った」[21]という日亨の解説が最も正鵠を射ている。阿部の言う享和三年の転写本などは、未治本であるから「後世には何日となしに写伝して次第に公開せらるるに至った」という日亨の説明にも該当しないのである。

 なお、唯授一人相承の法門内容には、寿量文底の三大秘法義という教義上の核心部分以外に、法主の本尊書写にかかわる秘伝などがあると思われる。その意味では、六巻抄の著述以外に唯授一人の血脈相承が必要となるのは当然である。この点に関しては、本項の最後にまとめて論ずる。

 Aの反論に移りたい。阿部は「『六巻抄』にある『秘すべし』等の言説を取り上げて、それがあたかも唯授一人の秘法であるかのごとく思わせようとしている」(『阿部側回答書』三九頁)と述べ、当方を非難している。だが、私の説において「秘すべし」との表現はさほど重要ではない。最も重要な表現は『文底秘沈抄』の冒頭部分である。すでに「現代の大石寺門流における唯授一人相承の信仰上の意義」の中で詳述したが、ここで再説しておきたい。

『文底秘沈抄』において、日寛は「宗門の奥義此に過ぎたるは莫し」(要3-70)とされる究極の奥義を「粗大旨を撮りて以て之を示さん」(同前)と述べ、三大秘法義について順次解説していった。つまり、『文底秘沈抄』に説かれた三大秘法義が、宗門究極の奥義の「大旨」なのである。ということは、『文底秘沈抄』の内容以外のすべての法門は、宗門究極の奥義の「大旨」以外の枝葉・非本質にすぎないことになる。例えば、本尊の相貌や書写法、開眼法などについて、かりに非公開の相承法門があったとしよう。その場合でも、相承の当事者たる日寛が、『文底秘沈抄』の内容を超える奥義などない、と断言している以上、いかなる非公開の相承法門も同抄の三大秘法義より低い教えであり、またはそれに従属する法門とみなしうる。こうしたことから、私は、大石寺の金口相承の教義上の核心は日寛の六巻抄、なかんずく『文底秘沈抄』の中で理論的に開示されている、と主張したのである。

『血脈公開論批判』では、この私の説に反駁するために、問題となる『文底秘沈抄』の「此は是文底秘沈の大事、正像未弘の秘法、蓮祖出世の本懐、末法下種の正体にして宗門の奥義此に過ぎたるは莫し。故に前代の諸師尚顕に之を宣べず況や末学の短才何ぞ輙く之を解せん、然りと雖も今講次に臨んで遂に已むことを獲ず粗大旨を撮りて以て之を示さん」(同前)との文に関し、苦心惨憺しながら様々な釈明を試みている。「三大秘法義は既に大聖人の御書や日寛上人以前の諸師によって明示されているのであるから、日寛上人が初めて開示された秘要の御法門ではない」「日寛上人が『文底秘沈抄』において『前代の諸師尚顕に之を宣べず』と仰せになられたのは、大聖人が示された三大秘法義を日寛上人以前には体系的な形として整束して述べられていないことを仰せになられたまでである」「『今講次に臨んで遂に已むことを獲ず、粗大旨を撮りて以て之を示さん』とは、日寛上人はその三大秘法義を講義されるに際し、大衆の理解に便ならしめるよう大要を示して整束遊ばされたとの意である」(『血脈公開論批判』五九〜六〇頁)等々がその釈明であるが、すべてが中途半端な欠陥論理である。

 私は阿部に言いたい。三大秘法義が日蓮や日寛以前の諸師によって明示されているというのなら、『文底秘沈抄』にみられる事の一念三千の法本尊論・人法体一の本尊論が日寛以前に説かれている、という具体例を示してもらいたい。すなわち、「若当流の意は事を事に顕す是故に法体本是事なり故に事の一念三千の本尊と名くるなり」(要3-76)「自受用身は是境智冥合の真身なり故に人法体一なり、譬ば月と光と和合するが故に体是別ならざるが如し、若色相荘厳の仏は是世情に随順する虚仏なり故に人法体別なり、譬ば影は池水に移るが故に天月と是一ならざるが如し」(要3-86)と示された事の法体本尊の義や、人法体一・人法各別の相違のことを、日寛以前の誰が「明示」(『血脈公開論批判』五九頁)したと言うのか。私が言うまでもなく、誰一人もいない。したがって、「前代の諸師」が日寛の三大秘法義を明示しながら「体系的な形として整束して」は述べなかった、という阿部の説明は不適切であり、正確には、事の法体論や人法体一の本尊義という大石寺の相承法門の核心部分には日寛以前の誰人も言及しなかった、とすべきなのである。

さらに阿部は粗大旨を撮りて」(要5-70)の意味について、「『ほぼ』要点を示されたにすぎず」(『血脈公開論批判』五九頁)とか大要を示して整束遊ばされた」(同前六〇頁)とか述べ、妙に細部にこだわる記述を繰り返している。察するに、「粗大旨」という言葉を、私の言う「教義上の核心」を裏付けるものとしたくないのだろう。そこで当方も厳密を期して辞書で調べてみたが、「ほぼ(粗)」とは「おおかた、およそ」などの意である[22]『文底秘沈抄』冒頭部の文脈に即して考えれば、「末学の短才何ぞ輙く之を解せん(要5-70)という先行表現に対応した、日寛の謙遜の言葉として「粗」を理解するのが至当であろう。

しかも、「粗」という副詞が日寛の謙遜であろうとなかろうと、それが修飾している撮」という動詞は「必要な部分だけをとる」という意味であり、「撮」るべき内容に義の核心を含まない道理はない。そのゆえに日寛は、「大体の趣旨、大意」を意味する「大旨」という言葉も用いたのだろう[23]

これらを要するに、『文底秘沈抄』の冒頭部において日寛は、宗門の奥義此に過ぎたるは莫し」という宗門究極の奥義の核心をこれから開示してみよう≠ニ間違いなく宣言している。そして宣言の通りに、相承法門の最奥義たる三大秘法義を体系的に顕説していったのである。

Bの反論に入るが、これは、唯授一人血脈相承の内容を知らない私に、金口相承の教義上の核心がどうのこうのと判断する資格などない、という批判である。なるほど私は、血脈相承の内容を実際に見たわけではない。私の判断は、一つの仮説の域にとどまる。けれども私自身は、それが合理的で有力な仮説であると信じている。というのも、私の仮説は、現実に血脈相承を受けた二十六世・日寛による宗門の奥義此に過ぎたるは莫し」「然りと雖も今講次に臨んで遂に已むことを獲ず粗大旨を撮りて以て之を示さん」との言明を第一の根拠にして組み立てられたからである。この意味で、私の仮説への非難は、宗門中興の祖とされる日寛を「相承の内容を何も知らない」と嘲笑しているのも同然である。もし私個人を「知ったかぶり」と非難したいのなら、日寛の『文底秘沈抄』を偽書とみなすか、あるいは同抄の問題の箇所を捻じ曲げて解釈するかのどちらかしかない。はたして阿部がとったのは、後者の方法であった。しかし学術論文の世界では、主張の論理性や資料の客観性が死命を決する。一宗門内の言語使用の規則に閉じこもり、現代の学問との交渉を拒否してきた阿部の独善的主張は、間違いなく専門研究者からは相手にされないだろう。

Cの反論において阿部が訴えているのは、唯授一人の金口相承が「宗祖の法魂を写し本尊の極意を伝ふる」ものであって、内容が公開されれば意義が消失するような法門相承とは違う、ということである。私はこの主張に関し、かねがね意図的な論理の飛躍を強く感じていた。

第一に、阿部は、法体相承と金口相承とを合理的根拠もなく一体視している。『血脈公開論批判』では五十六世・日応の「此法体相承を受くるに付き尚唯授一人金口嫡々相承なるものあり」[24]との文を解釈して「日応上人の御指南を素直に拝せば、法体相承を受けるにつき、唯授一人金口嫡々相承が存するわけであるから、唯授一人の法体相承と金口相承は一体のものである」(一四七頁)と述べられている。ここでの問題は「〜に付き」の解釈である。たしかに、「付く」という言葉には「ぴったり一緒になる」という意味もあるが、「つきて」「ついで」の形で使われる場合には「関して」という意味にとるのが正しい[25]。したがって、この日応の文言における「〜に付き」は「〜に関して」と言う意にとらねばならない。また、この場合の「尚」は「その上にまた」という意であろう[26]。要するに、現代語に訳せば、日応は「この法体相承を受けることに関係して、その上に(前提として)唯授一人金口嫡々相承というものがある」と述べている。換言すると、日応は、戒壇本尊の護持継承という「法体相承」に関係する別の極秘法門の相承を「唯授一人金口嫡々相承」と称したのであり、法体相承と金口相承をあくまで立て分けて考えている[27]

百歩譲って、法体相承と金口相承は一体である、との阿部の主張を認めたとしよう。それでも、日応が「別付の法体とは則ち吾山に秘蔵する本門戒壇の大御本尊是なり」と述べているように、日応の言う法体相承は戒壇本尊の護持継承を指すのだから[28]、それと「一体」の金口相承も何ら神秘的なものではない、ということになる。さらに、法体相承と金口相承が「一体」であると言うのならば、そもそも、なぜ両者を違った名称で呼ばねばならないのか。阿部は、明確な回答を示すべきである。名称が違うということ自体、両者に差異があるという証左ではないか。阿部が、法体相承と金口相承を一体視するのは、両者を名称的に立て分けた日応の意図にも反している。

これに関連して、もう一つ付言しておく。日寛の『撰時抄愚記』に「塔中及び蓮・興・目等云云」(文段集271)との表現がある。これは、「文底の謂」を知ることについての議論の中で出てくる記述である。ゆえに、ここにおける「塔中及び蓮・興・目等云云」とは、文底下種の教義の相伝、すなわち金口相承を指すものとみてよい。阿部らのごとく、この文を法体付嘱の意にとるのは、文脈を無視した解釈となる。

かりに、当文を法体付嘱の意にとったとしても、結要付嘱の法体が歴代法主のみに相承されていくという解釈は、宗祖・日蓮の教示に反する。その日蓮の教示とは、『生死一大事血脈抄』の「只南無妙法蓮華経釈迦多宝上行菩薩血脈相承と修行し給へ」(全集1338・定本524)との文である。日蓮はここで、最蓮房という弟子に釈尊から上行菩薩へと結要付嘱された南無妙法蓮華経を、あなたも唱えて血脈相承しなさい≠ニ勧めている。本来の日蓮仏法では、法体付嘱も信心口唱によって万人に開かれている。ゆえに、法体付嘱を「蓮・興・目」以下の歴代法主のみに限定する阿部らの解釈は、日蓮の教えからの逸脱となる。

阿部は『法主信仰擁護書』の中で、前掲の『生死一大事血脈抄』の文に関して「『南無妙法蓮華経は、釈迦多宝から上行菩薩へ血脈相承された結要付嘱の大法たることを信じて修行に励みなさい』との意味である」(四六頁)などと述べ、無理やり当文から法体付嘱の意義を抜き去ろうとしている。こうした阿部の解釈が牽強付会であることは、説明するまでもない。だが、これは非常に重要な文なので、あえて反論しておく。 

『生死一大事血脈抄』には「今日蓮が弟子檀那等南無妙法蓮華経と唱えん程の者は……過去の生死・現在の生死・未来の生死・三世の生死に法華経を離れ切れざるを法華の血脈相承とは云うなり」(全集1337・定本523)という文もあり、そこでは明確に「日蓮が弟子檀那等」が「法華の血脈相承」の主体者として説き示されている。そして、この文のしばらく後に、問題の「只南無妙法蓮華経釈迦多宝上行菩薩血脈相承と修行し給へ」(全集1338・定本524)との文が出てくる。ゆえに、この文意は、日蓮の弟子の最蓮房が主体者となって「釈迦多宝上行菩薩」の伝える「南無妙法蓮華経」の法体を血脈相承しなさい、ということであり、それが最も同抄の文脈に沿った解釈と言えるのである。

さて、阿部の論理的飛躍はまだある。日応は、『弁惑観心抄』に「此の金口の血脈こそ宗祖の法魂を写し本尊の極意を伝るものなり之を真の唯授一人と云ふ」[29]と記している。阿部らは、この日応の記述を常に念頭に置きながら、他の様々な文献を挙げて「御法主上人の御内証には清浄なる大聖人の御法魂がましまされる」(『阿部側回答書』七〜八頁)などと主張しているようにみえる。しかし、日応は、法主が法魂を書写本尊に「写す」と言っているのであって、法主に法魂が「ある」とは言っていない。類例を挙げれば、すぐにわかる。アインシュタインの特殊相対性理論の数式を理解できない人でも、数学の基礎知識があれば、相対性理論の数式を紙に書き写すことはできる。それと同じく、悟りの上で日蓮の法魂を所持していない法主でも、「金口の血脈」によって大石寺流の本尊書写法や本尊義を知っていれば、法魂を「写す」ことはできる。法魂の書写=法魂の所持とは言えない。何かと言うと「宗祖の法魂を写し」云々という日応の言説を持ち出し、法主に日蓮の法魂があるかのごとくみせかける阿部らの論法には、明らかに論理の飛躍がある。

しかも、である。「金口の血脈こそ宗祖の法魂を写し本尊の極意を伝るものなり之を真の唯授一人と云ふ」云々との文に続いて、日応は、要法寺の驥尾日守の造仏義や宗祖を上行の垂迹とする説を列挙した後、「豈に斯の如き口決あらんや故に予は断言す汝等が山は不相伝なり無血脈なりと宜しく猛省すべし」[30]と批判している。つまり、ここに言う「斯の如き口決」は「金口の血脈」を指し、それは大曼荼羅正意や宗祖本仏論などの相伝を意味すると考えられる。にもかかわらず、この『弁惑観心抄』の文を引いて金口相承が「単なる法門相承ではない」(『阿部側回答書』四〇頁)と断ずる阿部は、またしても文脈を無視した論を展開しているのである。

なお、阿部が法主の法魂所持説を説く際によく出してくる「日蓮在御判と嫡々代々と書くべしとの給ふ事如何、師の曰く深秘なり代々の聖人悉く日蓮なりと申す意なり」(『御本尊七箇相承』、要1-32)は七箇条の口決に追加された分のうちの一箇条にあたり、文献学的に誰の説なのか明らかではない。阿部は、この条目が誰の手によって現在の『御本尊七箇相承』の中に編入されたのかを解明することもなく、独断的に日蓮の口伝扱いしている。よって、当文を法主の法魂所持説の文献的根拠とする阿部の態度は非学術的であるといえ、宗派のドグマを盲信する姿とみなしておく。また、この文は本尊書写という化儀面での教示である。すでに論じたように、化儀即法体と言っても〈化儀=法体〉ではない。「煩悩即菩提」の法理が〈煩悩=菩提〉を意味しないのと同じことである。よって、化儀面における代々の聖人悉く日蓮」の意義を法体の次元にまで持ち込むのは不適切であり[31]、一種のすり替え論法である。同様に、「手続の師匠の所は三世の諸仏高祖已来代々上人のもぬけられたる」(『化儀抄』、要1-61)等の文も化儀に関する指南であって、法主の法魂所持説の根拠とはならない。

以上、大石寺門流の金口相承が純然たる法門相承であることを重層的に論証してきた。これでも阿部は、金口相承に法魂の授受が含まれる、と言い張るのだろうか。もしそうなら、私は阿部に「法魂とは何か。きちんと定義せよ」と要求する。「法魂」は、日蓮の用語でも仏教語でもなく、阿部が勝手に日応の造語を用いて定めた、意味不明の言語のルールである。その主観的で曖昧なルールに、学術研究者が従う義務などない。今回の『阿部回答書』によれば、「法魂」とは、法主の祈念によって、不特定多数の本尊のすべてに瞬時に具わったり(一七頁)、焼却中の返納本尊から一斉に抜け出して本仏のもとに「還御」したり(二〇頁)するらしいから、一体どのような定義がなされるのか、期待して待つことにしよう[32]。念を押すが、私が要求しているのは、法主の法魂所持を根拠づける文証ではなく、「法魂」そのものの定義である[33]。答えに窮して、ただ法主のみが知るとか、甚深の唯授一人の極説を開示できるわけがないとか言ってきた時点で、私は阿部を非論理的人物であると断定する。

阿部が行った、その他の弁解についても、私の所見を提示しておこう。はじめに、『御本尊七箇之相承』や『本尊三度相伝』は唯授一人、金口相承の文献ではない、とする彼らの弁解を取り上げる。日寛は、初めて法主に登座する前年に執筆した『法華取要抄文段』の中で「本尊七箇の口伝、三重口決、筆法の大事等、唯授一人の相承なり。何ぞこれを顕にせんや」(文段集599)と記した。阿部はここで、まだ学頭の日寛が「本尊七箇の口伝」「三重口決」について「何ぞこれを顕にせんや」と述べている点に着目する。そして、登座前の日寛が「明らかに『本尊七箇の口伝』や『三重口決』について内容を承知されていた」(『阿部側回答書』四一頁)のだから、「本尊七箇の口伝」「三重口決」は唯授一人の金口相承ではない、と主張するのである。だが、この阿部の意見は、宗門史料や当時の門流内の実情を全く無視している。

私の質問の中でも一部触れたが、十七世・日精は、本尊書写に絶対必要な唯授一人相承の書として「本尊七箇口決」(要5-154)「本尊七箇決」(要5-187)「本尊七ケ大事」(歴全2-314)を挙げている。これによれば、江戸期の宗門において、少なくとも日寛の言う「本尊七箇の口伝」は、本尊書写にかかわる唯授一人血脈相承の秘伝とされていた。とすれば、日寛が「何ぞこれを顕にせんや」と述べたのは、自分もその内容を知らないが、本尊相承書は顕わにできない決まりになっている≠ニ客観的に語った可能性がまず考えられよう。

そのうえで我々は、日寛の学僧としての特別な力量を十分に考慮しながら、別の推論を立てる必要もある。細草檀林の化主まで務めた日寛は、師の二十四世・日永から特別に招聘を受けて大石寺の学頭に就任し、重要な御書(日蓮遺文)の講演を次々に行った。本格的な御書講が連続的に行われたのは、むろん大石寺では初めてのことである。当時の大石寺門流において、学頭の日寛は、法主経験者以上の学徳者とみなされていたと言ってよい。細草檀林では能化昇進の順位が日寛より早かった日養(後の二十七世法主)は、自らも篤学者だったが、卑下謙譲して猊座を先に日寛に譲ったという[34]。それほどに山内大衆の崇敬を受けていた、希代の大学者が学頭時代の日寛なのである。したがって、法主登座の前年にあたる『法華取要抄文段』の執筆時、日寛はすでに師の日永等から、唯授一人の「本尊七箇の口伝」や「三重口決」の内容を聞いていた可能性が高い。つまり、登座前年の日寛は唯授一人血脈相承の『本尊七箇の口伝』や『三重口決』の披見を特別に許されており、その立場から「何ぞこれを顕にせんや」と述べた、と解する方が、先の阿部の説よりも、遥かに当時の実情に即した見方なのである。たしか阿部自身も、平成四年八月二十八日の「全国教師講習会」において「日常の間に相承が一回ないし数回にわたって行われる場合もあります」などと述べていたではないか。阿部の本尊相承書・開示説≠ヘ、史料上も日寛伝の上からも根拠が薄弱であり、一つの仮説としても承認しがたい、と判断しておく。

また、「本尊七箇」「三重口決」等は「唯授一人の相承」「貫主一人の沙汰」である、と日寛が明快に断じたにもかかわらず、阿部は、それについて「門下への伝承の実態とは別に、両書に含まれる血脈相伝の深義の上から、このように述べられたものというべきである」(『阿部側回答書』四二頁)などと意味不明の苦しい弁解もしている。要するに彼らは、本尊七箇」「三重口決」の両書は門下に公開されていたが、「両書に含まれる血脈相伝の深義」については日寛が「唯授一人の相承」「貫主一人の沙汰」とした、と言いたいのだろう。実際の文章表現から離れた、ひどい曲解である。

私は、阿部に聞いてみたい。『法華取要抄文段』の「本尊七箇の口伝、三重口決、筆法の大事等、唯授一人の相承なり。何ぞこれを顕にせんや」(文段集599)との文、及び『観心本尊抄聞記』の「本尊七箇、又本尊筆法等は一向に言わざる也。貫主一人の沙汰也」(研教12-589)との文、これらの文の一体どこに「両書(本尊七箇」「三重口決」のこと=筆者注)に含まれる血脈相伝の深義」という意味が見受けられるのか。具体的に明示してもらいたい。明示できないならば、阿部は、実際の文章表現にはない意味を勝手に捏造している。そして、この意味捏造の背景には、現在、公開されている『御本尊七箇之相承』や『本尊三度相伝』が唯授一人相承であるはずがない。だから、ここは『両書に含まれる血脈相伝の深義』についてのみ唯授一人と解釈せねばならないという、例の論点先取りの循環論法が潜んでいる。むろん、まともな理性を持った人々に通ずる論法ではなく、法主信仰にしがみつく一部の宗門人向けに考案された、弁解のための弁解に他ならない。

「『何ぞ之を顕わさんや』『一向に言わざる也』とは、御本尊に関する深義は、甚深の御法門であるので、扱いに慎重を期された御教示なのである」(『阿部側回答書』四二頁)と阿部が述べるに至っては、何をか言わんやである。一向に言わざる也」とは「全く言わない」という意味である。それがどうして「扱いに慎重を期された御教示」と解釈できるのか。論点を先取りした循環論法を使わずに、実際の文に即して具体的に説明してほしい。できないなら、これも弁解のための弁解と断じておく。

本項目において阿部の様々な弁解を検討する作業も、ようやく最後の所にたどり着いた。残された阿部の弁解は、文底秘沈」に関する日有・日寛の見解に全く齟齬はない、というものである。私は阿部への質問状の中で、九世・日有が『法華経』寿量品の「如来秘密神通之力」の文に文底秘沈の意義を認めたにもかかわらず、二十六世・日寛は寿量品の「我本行菩薩道」を文底秘沈の文とした、という両法主の見解の相違を指摘し、私と同意見の堀日亨の註釈も紹介した。それに対し阿部は、「内証の寿量品」二千余字は全てが文底の本因妙を詮顕するのだから、寿量品の中のどの文を指すかに関する両法主の見解の相違など問題にならない、という回答を示してきた。

しかし、これは問題のすり替えである。なぜならば、阿部は〈依義判文による寿量品解釈〉と〈寿量品における相伝の経文の検討〉という、次元の異なる二つの議論を同一視しているからである。なるほど、文底の義によって文を判ずれば、寿量品の全ての文が本因妙の妙法を顕していると言える。だが、そのことと、文底秘沈の相伝の経文は何かという問題とは別である。『開目抄愚記』で日寛が述べているように、文底秘沈の文を「何の文と為んや」(文段集76)という問題は「当流一大事の秘要」(文段集77)であり、それゆえに日有や日寛らの各法主が熱心に論じている。そして私は、それらの論義を検討する中で日有と日寛の見解の相違に気づき、大石寺の相伝の内容には一貫性がないのではないか、と疑問を呈したわけである。

〈依義判文による寿量品解釈〉と〈寿量品における相伝の経文の検討〉を立て分ける、私の説明に似たことを、六十五世の日淳も述べている。日淳は『日蓮大聖人の教義』の中で次のように説法している。

此の文底といふはどの経文を指し玉ふかに就いては種々の文が挙げられますが、日寛上人は「本因初住の文底に久遠名字の妙法事の一念三千を秘沈し給へり」と三重秘伝抄に御指南遊ばされてをります。通じて申しますれば寿量品は文底の義を指示し玉ふ故に種々の文を掘り下げますれば皆その義があるのであります。それ故義によって文を判じますと全品にわたると申せます……而し今直に寿量品の文を尋ぬるに本因初住の文底と仰せられるは経文の理趣により玉ふが故にして、その仰せられる所以は実に相伝にあらせられるのであります[35]

この日淳の指南に即して言えば、私は「寿量品の文を尋ぬるに本因初住の文底と仰せられるは経文の理趣により玉ふ」「その仰せられる所以は実に相伝にあらせられる」というところを検討し、そこにおいて日有・日寛の見解に相違があることを指摘した。対するに阿部は、「義によって文を判じますと全品にわたる」という点から当方を批判し、問題をすり替えてきたのである。

このことをより鮮明にするため、阿部に問う。「文底の妙法五字の能詮たる『内証の寿量品』の場合、全ての文が本因妙を詮顕する」(『阿部側回答書』四三頁)と言うのであれば、なぜ日興・日有・日永・日寛らの各法主は、文底の義を詮顕する寿量品の経文を特定しようとしたのか。この単純で率直な疑問に対し、阿部は明確な回答を示せるだろうか。

さらにこの疑問を敷衍していけば、日有や日寛は、なぜ他門流が文底秘沈にあたるとした寿量品の様々な文それ自体を否定したのか、ということにもなる。日有は、日興の言として「如来秘密神通之力」を文底秘沈の文とし、日昭等の門流が主張する「然我実成仏已来」説を否定した(『有師談諸文書』、要2-152)。『開目抄愚記』における日寛は、文底秘沈の文として他門流が「如来如実知見」「是好良薬」「如来秘密神通之力」「寿量品の題号の妙法」「通じて寿量一品」「然我実成仏已来」を挙げたのに対し、それらを「人情なり」と退け、「我本行菩薩道の文底に久遠名字の妙法を秘沈し給う」(文段集76〜77)と主張した。阿部の説に従うならば、日有も日寛も、他門流の諸説が文上本果に執着している点だけを批判し、他門流が示した「然我実成仏已来」「是好良薬」等の寿量品の文それ自体に関しては、「内証の寿量品」の立場から本因妙を詮顕するものとして肯定すべきであった。なぜ、彼らはそうしなかったのか。阿部の主張は疑問だらけであり、どうみても合理的な説とは思えない。

 本項目の議論を終了するにあたり、私の「金口相承の核心開示説」を一度、図式にして示しておきたい。私が言う金口相承の核心部分とは、左の図式における「究極的秘伝」のことである。そして、究極的秘伝以外の唯授一人相承の法門については、三大秘法の本尊義に従属すべき「従属的秘伝」と、本尊化儀や本尊書写にかかわる「手段的秘伝」に大別される。従属的、手段的な秘伝には、いまだ非公開のものがあるかもしれず、内容的には確定できない。ゆえに図式中に列記した「従属的秘伝」と「手段的秘伝」の内容については、あくまで例えばということにすぎない。しかし、その私の予測の正否にかかわらず、「究極的秘伝」と「究極の法体」は完全に開示・公開されているのだから、大石寺の唯授一人相承の本質的役割はなくなっている、と考えざるをえないのである。



日蓮の内証   

  ≠ 

三大秘法の     究極的秘伝―――――――従属的秘伝――@日蓮遺文・法華経等の解釈 

本尊と教義     (三大秘法の本尊義)    ↓    A本尊体相の義B化儀、等々

  ↓          ↓        一部非公開の可能性あり 

 法 主      日寛教学・日亨等の出版事業

  ↓          ↓

法 主      開示・公開 

  ↓

  承       究極の法体―――――――手段的秘伝――@本尊書写法、等々

  相       (戒壇本尊)        ↓

  脈          ↓        一部非公開の可能性あり 

  血       歴代法主による書写・形木本尊化

             ↓

          創価学会による日寛本尊の形木本尊化           

             ↓

開示・公




8 十二箇条の法門について

 

(松岡から阿部への質問)

 日寛は、『観心本尊抄文段』の「序」において「当抄に於て重々の相伝あり。所謂三種九部の法華経、二百二十九条の口伝、種脱一百六箇の本迹、三大章疏七面七重口決、台当両家二十四番の勝劣、摩訶止観十重顕観の相伝、四重の興廃、三重の口伝、宗教の五箇、宗旨の三箇、文上文底、本地垂迹、自行化池、形貌種脱、判摂名字、応仏昇進、久遠元初、名同体異、名異体同、事理の三千、観心教相、本尊七箇の口決、三重の相伝、筆法の大事、明星直見の伝受、甚深奥旨、宗門の淵底は唯我が家の所伝にして諸門流の知らざる所なり」(文段集443〜444)と述べています。『観心本尊抄』は、日蓮の出世の本懐である本尊の深義を説き明かした書です。それゆえ日寛は、同抄の講義にあたり、まず大石寺の金口相承である三大秘法の本尊に関する秘伝の数々を、「重々の相伝」として列示したものと推察されます。

しかるに、あなたは以前、この「重々の相伝」を「秘伝ながら外用の範囲」にとどまるものとし、「さらに内用において、金口嫡々唯授一人の相承」があると述べました。そして、そう考える文献的根拠として日精の『家中抄』の「日道伝」から「(日目は)御上洛の刻には法を日道に付属す所謂形名種脱の相承、判摂名字の相承等なり、惣じて之を謂はば内用外用金口の智識なり、別して之を論ぜば十二箇条の法門あり甚深の血脈なり其の器に非ずんば伝へず、此くの如き当家大事の法門既に日道に付属す、爰に知りぬ大石寺を日道に付属することを、後来の衆徒疑滞を残す莫れ云云」(要5-216)という箇所を抜き出しました。あなたの説では、ここにみえる「十二箇条の法門」こそが、今も公開されていない「内用」「別して」の唯授一人相承の極秘伝にあたる、ということでしたね[36]

このあなたの説について、お聞きしたいことが二、三あります。一つは、「金口嫡々唯授一人の相承」という、あなたにとっては最大事の法門を説明する段で、日精の『家中抄』のごとき誤謬の多い史伝書を使っていることです。大石寺の血脈承継者であり、あなたの先師でもある堀日亨は、あなたが引用した「日道伝」の箇所について「本師の弁証は精美ならざる間付会を加えて益(ますます)誤れり後生悲しむべし」(研教6-198)と天註を付し[37]、内容の真実性に疑問を呈しています。例えば、あなたは日精の「内用」「外用」という立て分けを採用していますが、日亨も指摘しているように、「内用」は「内証」の誤記とみてほぼ間違いありません。「内用」という仏教語は、私も寡聞にして知りません。どういう意味ですか。「内証」とどう違うのか、「内証」の意ならば、なぜこの新奇な語を補足説明もせずに使うのか、そもそも先師が誤り多し≠ニした書を、なぜ何の断り書きもなく論拠とするのか、すべてご説明下さい。

 第二の質問は、あなたが引用した「日道伝」の箇所を素直に読むかぎり、あなたの解釈は論理的に破綻しているのではないか、ということです。「所謂形名種脱の相承、判摂名字の相承等なり、惣じて之を謂はば内用外用金口の智識なり、別して之を論ぜば十二箇条の法門あり」というくだりは、「形名種脱の相承、判摂名字の相承等」が、総じて言えば内証と外用に関連する知識であり、別して論ずるならばこれに「十二箇条の法門」がある、という意味になるはずです。つまり、「十二箇条の法門」とは「形名種脱の相承、判摂名字の相承等」に関する法門である、と解するのが正しく、「形名種脱の相承、判摂名字の相承等」以外に「十二箇条の法門」がある、とするあなたの解釈はあまりに無理があると言わねばなりません。どうしてそんなに文脈を無視した解釈に走るのか、とくに、文中に二度出てくる「之」という指示語の意味を、きちんと明確化したうえで説明して下さい。

念のため言い添えますが、『家中抄』の「日興」の伝に「両巻の血脈抄を以て日尊に相伝し給ふ、此の書の相承に判摂名字の相承、形名種脱の相承あり、日目、日代、日順、日尊の外漫には相伝し給はざる秘法なり」(要5-170〜171)とあることをもって、形名種脱の相承や判摂名字の相承は多数の弟子に与えられた「法門相承」であり、「内用」(内証)の唯授一人相承にはあたらない、とあなた方が論じられたとしても何ら説得力はありません。というのも、先の『家中抄』の「日道伝」の記述自体は、あくまで形名種脱の相承や判摂名字の相承が「十二箇条の法門」の内容である、としか読めないからです。とすれば、日精は、一方では日興が形名種脱の相承や判摂名字の相承を日目、日代、日順、日尊に相伝したと言い、他方では日目がそれらを日道一人に付嘱したと述べたことになります。したがって、あなたのごとく、先の『家中抄』の「日道伝」の記述を根拠に大石寺の唯授一人相承を正当化することは、日精の主張にも反しています。日精の説を素直に受け入れると、まず「十二箇条の法門」は形名種脱の相承や判摂名字の相承を含み、それは大石寺のみが有する極秘伝などではなく日代、日順、日尊の系統にも相伝されている、という理屈が成り立つからです。むろん、大石寺門流にとっては不都合な理屈でしょう。「十二箇条の法門」に関する日精の記述について、日亨が「本師の弁証は精美ならざる間付会を加えて益(ますます)誤れり後生悲しむべし」(研教6-198)と嘆いたのは、故なきことではありません。

第三の質問は、「十二箇条の法門」そのものについてであります。すでに説明したように、「十二箇条の法門」とは「形名種脱の相承、判摂名字の相承等」に関する法門である、というのが日精の見解です。そして、本項目の冒頭に引用しましたが、日寛が『観心本尊抄文段』の「序」で示した「重々の相伝」の中にも「形貌種脱」「判摂名字」の名目がみられます。ならば、日精のいう「十二箇条の法門」も日寛のいう「重々の相伝」も、ともに形貌種脱」「判摂名字」の法門を含むのであり、「十二箇条の法門」と「重々の相伝」とは内容的に重なり合うことがわかるではありませんか。あなたは恐らく、唯授一人の「十二箇条の法門」の存在を昔、堀日亨等から聞いて知っていたのでしょう。それで、『家中抄』の中に「十二箇条の法門」という表現があるのを発見し、ここぞとばかりに飛びついた。そうではありませんか。しかし、あなたの試みは、かえって「十二箇条の法門」が日寛によって理論的に開示されている、という事実を広く世に知らしめる結果を招くだけでしょう。

ところで、あなたが昔の教師講習会等で聞いたという「十二箇条の法門」の話は、公衆の面前での出来事ですから、どんな内容だったのか、この際、語り残したらいかがですか。当方は、日亨が「ダメな法主が相承を受けると、かえって法門が制約される。十二箇条の相承と言っても、多くの法主がその使い方をわからなかった」などと、述べていたことを聞き及んでいます。こうしたことは、お互いに主観的な証言の披露にすぎません。けれども、どちらの証言に真実味があるのかは、後世の聡明な学徒たちが的確に判断するでしょう。あなたと同じく堀日亨等から「十二箇条の法門」の話を聞いた人たちが、今も宗の内外にいるのです。もし、あなたが何か証言できるのなら、是非とも行ってみて下さい。

(阿部側の回答要旨)

まず指摘したいのは、松岡が知りもしない相承の内容を妄想し、血脈所持の日顕の指南をあなたの説≠ネどとして、日顕と対等の立場で議論していることである。日顕は血脈所持の当事者であり、血脈に関する指南は「説」ではなく、全て「真実」である。

 日精の『家中抄』を誤謬の多い史伝書≠ネどと、非難することもできない。『家中抄』は日蓮以来およそ四百年に亘る史伝書であり、宗門上代の歴史の多くは『家中抄』によらなければ解明できないことが多い。『家中抄』の内容が、歴史事実において、日亨との見解の相違や多少の間違いがあったとしても、宗門上代の歴史を記録した文献として高い権威があることは揺るぎないものである。また日精は、血脈相承の授受に関して非常に厳格な判断をしている。血脈に厳格な日精が、日目から日道への血脈の授受について間違った記述をするわけがない。

 松岡が取り上げた日亨の天註については、『家中抄』の「日道伝」の全体についての註とみられ、「日道伝」の相承に関する記述に註を付したものではない。また、この日亨の天註は、「日道伝」における日精の記述が義において誤りがある、という意ではない。 何よりもこの天註は、『富士宗学要集』に掲載して刊行される際には省かれている。つまり、重要な註ではなく、省くに如かずという日亨の意志の表れとみられる。したがって、『富士宗学全書』にこの天註が付されているからといって、『家中抄』「日道伝」の、相承についての記述に誤りがあるなどとは決して言えない。

 次に松岡が、「日道伝」における「内用」は「内証」の誤記とみてほぼ間違いない、としたことについては、日亨も「用字証の誤り歟」と述べて自ら決せざる「歟」の字を付しているように、卒爾に断定できない要素がある。この「日道伝」には草本としての『家中抄』があるが、そこでも日精は「内用外用金口智識なり」と言っている。つまり、日精は二度までも「内用」の語を使用しているのであり、単に誤字であるとして片づけられない。

 「内用」の語は、『法華玄義』に「一切法とは、権実の一切法にして皆な摂するなり、此れ経名を証するなり。一切自在神力とは、内用を自在と名け外用を神力と名く、即ち用を証するなり」[38]とあり、さらに『玄義釈籖』にも「一切の言は即ち権実相摂す。相摂するが故に妙なり。内用自在なる故に、疑等を除くこと方に遍し。即ち自在神力なり。具に三千を含し、通じて三徳を摂す」[39]とある。天台・妙楽は権実二智を得た自在の境界を「内用自在」と述べている。つまり、悟りの内容に約せば「内証」であり、その「内証」を用いることを「内用」というのである。
 また松岡は、「十二箇条の法門」が「形名種脱の相承・判摂名字の相承等」であるとこじつけている。虚偽の論証を繰り返して、「十二箇条の法門」が特別なものではないと言いたいのである。そもそも松岡は、「十二箇条の法門」に「形名種脱の相承や判摂名字の相承」が含まれるのか、「十二箇条の法門」と「形名種脱の相承や判摂名字の相承」とは内容的にイコールのものなのか、何一つ分かっていない。松岡の主張は当てずっぽうである。

  「日道伝」の意味については、『家中抄』草本と対比して読めば明白である。

草本の「日道伝」に明らかな如く、「十二箇条の法門」と「形名種脱の相承、判摂名字の相承」は別個の法門である。その上で「日道伝」を読めば、「御上洛の刻には法を日道に付属す所謂形名種脱の相承、判摂名字の相承なり(傍線、原著者)」(要5-216)と、「等」の字に「形名種脱の相承、判摂名字の相承」以外に相承の内容があることを、きちんと示されている。その上で、「惣じてを謂はば内用外用金口の智識なり、別してを論ぜば十二箇条の法門あり甚深の血脈なり(傍線、原著者)」(同前)との文を読むと、唯授一人血脈相承の全体の総別を「之」と言っていることが明らかである。つまり、「内用外用金口の智識」とは唯授一人血脈相承における本仏の「内用」「外用」の相伝である。そしてこの相伝に、別しての「十二箇条の法門」が存するということである。要するに「十二箇条の法門」とは、「形名種脱の相承、判摂名字の相承」と別個のものである。「十二箇条の法門」は、具体的な内容は勿論、「十二箇条」個々の名目すらも伺うことが出来ない唯授一人の秘法なのである。

 ところで、松岡は日亨が何らかの講次において十二箇条の法門の存在に触れたと述べているが、今日にいたるまで十二箇条の法門は表示されたことがない。

  また松岡は、十二箇条の法門の内容を知らないにもかかわらず、その内容はすでに日寛によって公開されているともいう。しかし知らないものについて何故断定できるのか。まさしく、認識なくして評価するという愚を犯している。

 最初に阿部は、「知りもしない御相承の内容」(『阿部側回答書』四五頁)について、私が阿部と対等の立場で議論していることをなじっている。再度言うが、私は血脈相承の当事者が書き残した言説(史料)を用いて立論している。それが、人文科学研究における当然の手法だからである。大石寺の歴代法主の中で最も教義的に信頼のおける日寛が、「宗門の奥義此に過ぎたるは莫し」と言われる宗門究極の奥義について「已むことを獲ず粗大旨を撮りて以て之を示さん」と自ら記し(要3-70)、寿量文底の三大秘法義を開示している。私はそこに最も着目し、金口相承の理論的開示説を有力な仮説として提示したのである。

また学問の世界は、真理以外の権威を一切認めない。真理探究の場においては、世界的大学者も一学生も対等である。阿部がそのような世界を嫌うのなら、最初から研究者である私に議論を挑まなければよい。阿部の主観的で感情的な発言に対し、従順な信者らが有難がって拝跪合掌する分には、当方も「どうぞ、ご自由に」と言うしかないだろう。しかしながら、阿部が私の厳密な学問的試論に対し、正当な論理的根拠もなく非難するのは黙過できないのである。

登座以来、阿部は、自分が血脈相承の当事者であることを具体的かつ客観的に立証できず、ひたすら単純な循環論法で宗内を押さえ込んできた。「日顕上人は血脈御所持の当事者であり、血脈に関する御指南は『説』ではなく、全て『真実』なのである」(『阿部側回答書』四五頁)というのは、程度の低い循環論法の典型である。その意味で、阿部の方こそ「知りもしない御相承の内容」を当てずっぽうに語っている可能性が高く、加えて私のごとく史料を学術的に取り扱ってもいない。だとすれば、確実に相承を受けた先師の諸文献を根拠に組み立てられた私の論理的主張の方が、相承の事実が立証できていない阿部の恣意的見解よりも、遥かに信憑性が高いはずではないか。私に対する阿部の非難は、天に唾するものである。

次に、阿部は、私が日精の『家中抄』を「誤謬の多い史伝書」と評したことに対し、歴史事実において、日亨上人との見解の相違や多少の間違いがあったとしても、宗門上代の歴史を記録した文献として高い権威がある」(『阿部側回答書』四六頁)と反論している。言っておくが、日亨が指摘した『家中抄』の誤りは「見解の相違」「多少」といった程度のものではない。例えば、同抄の「日道伝」に、日目から日道に相伝された「高開両師」からの切紙の目録がみられる。まず日亨は『富士日興上人詳伝』の中で、この『家中抄』の切紙相承の記述に関して次のように批判している。

同師(日精のこと=筆者注)の目師伝の下(或は日道伝の誤りか=筆者注)には、日辰造仏の思想より目師には似もつかぬ悪筆の切紙を拾ってきて、目師より道師への切紙相承の証としてある。それは、はじめに「日興が作の釈迦」云云の文が利用したさからである[40]

日精は『家中抄』の中で「日辰造仏の思想より目師には似もつかぬ悪筆の切紙を拾ってきて、目師より道師への切紙相承の証とし」たのだ――日亨は容赦なく、日精の相承法門の捏造を断罪する。日亨がここで言う「『日興が作の釈迦』云云の文」とは、具体的に言うと「日興師御サクの釈迦一ソン一フク一ソン一フク・・・・・・ 一ソン一フク(傍点、日亨)」(研教6-190)との記載を指していると思われる。この記載に関して日亨は、「本師(日精のこと=筆者注)造読家なる故」云々(同前)との天註も付している。日亨の考えでは、「日興師御サクの釈迦一ソン一フク」などと『家中抄』に記されたゆえんは、日精が大石寺正統の大曼荼羅正意論・方便寿量の二品読誦論に反し、要法寺日辰の造仏・一経読誦の思想に固執していたからである。こうした日亨の日精批判は、単なる「見解の相違」などではない。それは、日精が勝手に捏造した「当宗嫡々法門相承ども」(同前)や、彼の要法寺流の異流義に対する、日亨の止むに止まれぬ学問的良心の告発に他ならない。日亨は、『家中抄』の当該箇所に関して「『其の外高開両師より相伝の切紙等目録を以て日道に示す』より以下三十項の切紙相承の文より『右日目御自筆今当山に在るなり』の三十三行の文は、ぜんぜん精師の牽強付会の迷筆である」[41]と日精の謬説を断罪している。

また『家中抄』全体に対する法義面、史実面での日亨の指摘は、「多少の間違い」の摘出どころか、戦後の『富士宗学要集』第五巻に収録されたものをみても百箇所を遥かに超えている。『家中抄』はまさに誤謬だらけの史伝書であり、同抄を「未だ精密ならざるなり」(要5-180)と当初から認めた日精自身でさえ、後世の学究にこれほど誤りを発見されるは思いもよらなかっただろう。

大石寺の歴代法主の行跡を調べる上で、『家中抄』が数少ない貴重史料であることは誰しも否定しない[42]。しかし『家中抄』の内容が法義上、史実上の誤謬に満ちていることは動かせない事実であり、今我々が問題にしている「日道伝」だけでも、十六箇所の誤りが日亨によって指摘されている。それゆえ私は、「十二箇条の法門」という重大事を論ずるうえで「そもそも先師が誤り多し≠ニした書を、なぜ何の断り書きもなく論拠とするのか」と阿部に問い質したのである。おわかりだろうか。史料の希少性と正確性とは別問題なのである。

もっとも、阿部の側は「日精上人は、血脈相承の授受に関して非常に厳格な判断をされておられる」(『阿部側回答書』四六頁)という点を強調したいようなので、それも大なる見当違いであることを例証しておきたい。すでに指摘したごとく、富士門流史家として名高い堀日亨は、日精が『家中抄』に記載した、日目から日道への「切紙相承」の文について「目師には似もつかぬ悪筆の切紙」「ぜんぜん精師の牽強付会の迷筆」である、と辛辣に批判している。阿部は第一に、この日亨の史料考証の結果をどう判断するのか。

第二に、『家中抄』の「日影伝」には、八世・日影が「血脈を伝ふべき機なき」ことを悲嘆して在家の油野浄蓮に血脈相承を授け、「下山三位阿闇梨日順は血脈を大妙に伝ふ其ノ例なきに非す、公白衣たりと雖も信心甚く深き故に之れを授く伝燈を絶えざらしめよ」と教示して没したと記されている(要5-255)。この日精の記述について、やはり日亨は「柚野浄蓮の事 本師(日精のこと=筆者注)何に拠りて此惑説を為すか 粛まざるの至りなり 例を日順に取ること妥当ならず」(同前)との天註を付し、血脈相承の史実に関する日精の誤りを手厳しく批判している。

第三に、『家中抄』の「岩本実相寺の事」の中に「大石寺には日源自筆の本尊七箇の決等あり」(要5-249)との記述もみられる。しかし、日亨の考証によれば、大石寺にある日源筆の本尊相承書は『本尊三度相伝』であって『御本尊七箇相承』ではない。よって日亨は、「日源自筆の本尊七箇の決」とする日精の説に「七個の決無し 三度相伝あり」と天註し、この点は日精の誤りではないかと推測している。

要するに、日亨の文献学的な検討結果を踏まえると、大石寺の血脈相承の授受やその内容に関する日精の『家中抄』の記載が正確である、などとは到底考えられないのである。日精上人は、血脈相承の授受に関して非常に厳格な判断をされておられる」(『阿部側回答書』四六頁)という阿部の主張は非学問的であり、自己中心的感情の産物以外の何物でもない。

 したがって、阿部の〈十二箇条の法門=金口相承〉説の根拠となる『家中抄』の「日道伝」についても、まず史料的価値に大いに疑問符がつく。すなわち、「法を日道に付属す所謂形名種脱の相承、判摂名字の相承等なり、惣じて之を謂はば内用外用金口の智識なり、別して之を論ぜば十二箇条の法門あり」(要5-216)との『家中抄』の記述に対する「本師の弁証は精美ならざる間付会を加えて益(ますます)誤れり後生悲しむべし」(研教6-198)との日亨の天註については[43]、我々も「さもありなん」と首肯せざるをえない。

阿部の側は、この日亨の天註がじつは日精批判を意味していない、とすることで、何とか『家中抄』の記述に信憑性を持たせようと苦心している。彼らは最初にこう言う。「この天註は、本文に傍点が付されておらず特定の文言につけられた註とは見られないこと、『日道伝』の最末尾に付されていること、などから考えて、特定の箇所に付された註ではなく、『日道伝』の全体についての註と拝される(『阿部側回答書』四八頁)。これは論点ぼかしである。『研究教学書』にしても『富士宗学要集』にしても、日亨が本文に傍点を付さずに天註を加えている例は枚挙に暇がない。「日道伝」の最末尾に付された天註だから「日道伝」全体についての註だとするに至っては、余りに不自然な解釈である。「日道伝」は要集でも五頁半にわたり、かくも広範囲の記述に註釈を加えるのに、天註という方法をとる編纂者がどこにいようか。日亨の天註に、そうした例が他にあるのか。あるなら出してほしい。そもそも「本師の弁証は……」との天註の直前には「用の字は証の誤りか」(研教6-198)との天註があり、その時点ですでに「惣じて之を謂はば内用外用金口の智識なり」(要5-216)の註釈に入っている。よって、「本師の弁証は……」との天註は、それ以降の「別して之を論ぜば十二箇条の法門あり甚深の血脈なり其の器に非ずんば伝へず、此くの如き当家大事の法門既に日道に付属す、爰に知りぬ大石寺を日道に付属することを、後来の衆徒疑滞を残す莫れ云云」(同前)との箇所を指すと一応は思われるが、「本師の弁証」という言葉を考慮に入れると、「法を日道に付属す」から最後の「後来の衆徒疑滞を残す莫れ云云」までの一連の文章を指している、と考えるべきであろう。

次に、阿部は「この天註は、『精美ならず』すなわち完全ではないという意であり、『日道伝』における日精上人の御記述が、義において誤りがあるという意ではない」(同前)と弁解している。私が思うに、「精美」の意味がどうであれ、その後に日亨が「誤れり」と明記しているのだから、日目から日道への血脈相承に関する日精の記述は誤っている≠ニ解釈する以外にとりようがない。阿部は、「義において」の誤りではない、と強調したいのだろう。だが、それなら、日亨の「付会を加えて」との表現は何なのか。「付会(ふかい)」とは「無理につなぎ合わせること。こじつけること」の意である[44]。つまり、この日亨の天註は、日目から日道への血脈相承に関する日精の「弁証」が巧みでなく(精美ならざる)、こじつけの理屈もあり(付会を加えて)、ますます(益)「誤れり」と断じているのである。「弁証」「付会」が「誤れり」なのだから、まさしく「義において誤りがある」(『阿部側回答書』四八頁)ではないか。

また、「益(ますます)」という言葉からは、当該箇所より前の「日道伝」の血脈相承に関する記述、例えば相伝の切紙の目録等にも誤りがある、との日亨の考えが読みとれよう。「益」の一字をみても、この日亨の天註を「『日道伝』の全体についての註」とする阿部の解釈の誤りは自明である。

阿部の苦心の曲解はなおも続く。今度は、この日亨の天註が『富士宗学要集』刊行の際には省かれているから重要な註ではない、と言うのである。これは、阿部の得意な推測と演繹の混同である。「日亨がこの天註を要集刊行の際に省略した」という前提の中に「日亨はこの天註を重要ではないと考えた」という意味は含まれていない。したがって、阿部が「日亨上人は、読者に注意を促す大事な註であれば、必ず『富士宗学要集』にも残されたはず」(『阿部側回答書』四八頁)などと断定するのは論理的に誤りであり、本当は「〜かもしれない」という、可能性を表す推量表現にとどめなければならない。

わかりやすいように、別の可能性も示そう。日亨が要集刊行の際にこの天註を省略したのは、むしろそれが宗門にとって極めて不都合であったためかもしれない。なぜならば、第一にこの天註が血脈相承の内容という大石寺宗門の根幹にかかわるからであり、第二に要集が広く信徒や外部向けの出版物だからである。血脈相承の内容を歴代法主の一人である日精が誤解していた――そのような見解を宗門随一の碩学の元法主・日亨が公表し、信徒や一般の仏教家たちに知らしめたら宗門はどうなるか。少なくとも当時の宗門にとって、この問題は、日精が造読家であったことよりも、遥かに重大な意味を持っていただろう。日蓮正宗は、宗祖の正義の継承という〈事実〉が生命線である。たとえ一部の法主の信仰の狂いを認めることがあっても、日蓮の正義を連綿と血脈相承してきた≠ニ主張さえできれば、他門に対して大石寺の正統性の面目は保つことはできる。しかし、先の日亨の天註を要集で広く公表すれば、法燈連綿の〈事実〉が崩れ去り、現在、大石寺に伝えられている教義は果たして正統なものか、という疑義すら生ずるであろう。学者である半面、護教的態度も強かった日亨のことである。かの天註については学問より宗門擁護を優先し、要集記載を避けたとしても何ら不思議ではない。このような別の推測も、かなり有力な可能性を持っている。ゆえに阿部のごとく、安易に推測と演繹を混同し、日亨はこの天註を重要ではないと考えた≠ネどと恣意的に断定すべきではない。事実、日亨は自身の置かれた難しい立場について、次のごとく吐露することもあった。

自分は壮年時代に史筆を起こしてから、よりよりの猊下方に上申して本伝(『家中抄』あるいはその「日道伝」のこと=筆者注)の修正を公けにすべくしたが、内諾は得たこともあったが、いずれも公開は見合わせろとのことのために、老年にいたってこの穏順な意志をもって富士宗学要集編さんに当たっても、改修削除の英断はしばらくおいて天注に批判の筆を掲げたのみである[45]

史学者であると同時に宗門人でもあった日亨には、「公開は見合わせろ」などという宗門執行部からの有形無形の圧力が常にかかったようである。また日亨自身も、法主経験者として人並み以上に愛宗の情を持っていたと考えられる。そうした複雑な事情を説明しておくためにも、日亨は『富士宗学要集』の編纂に当たり、自分はあえて護教的配慮をした≠ニここに記したのではないだろうか。なお、ここでは、護教的配慮の中でも批判の天註は付した、と書かれている。だが、「本師の弁証は精美ならざる間付会を加えて益(ますます)誤れり後生悲しむべし」(研教6-198)という天註に関しては、法主の血脈相承観の誤りを指摘するものだけに、さすがの日亨も、天註すら控えるという特別の配慮をとったのだろう。それでも『富士宗学全書』(『研究教学書』)には、この天註を厳然と残しているのだから、日亨の真意は推して知るべし、である。

続いて、「日道伝」における「内用」という言葉の問題に移ろう。これに関して日亨は、要集における天註で「内用とは内証の誤りか」(要5-216)と記している。私も、これは内証の誤記であろうと述べた。しかるに阿部は、日亨の天註に「か」の字があることを奇貨とし、ここでも日亨の意見について「卒爾に断定できない要素がおありだった」(『阿部側回答書』四九頁)などと無理な解釈を行っている。すでに同じことを述べたが、阿部がどう解釈しようと、これは日亨が後世に残そうとした意見である。「か」の字を付したのは、学者としての彼の謙虚さの現れであると思われる。そして、もし日亨が真に迷っていたならば、そもそも天註を加えること自体を控えただろう。私の推測の方が、阿部の推測――彼らは、相変わらず「べきである」と断定調で記しているが――よりも多くの論理的根拠を有していると思う。後は、読者諸賢の判断に委ねよう。また阿部は、日精が『家中抄』の草本でも「内用」と記していることを示し、二度同じ言葉を使っているから誤字ではないとも言う。毎度ながら、粗雑な理屈である。阿部には、『家中抄』を精読してから物を言ってもらいたい。例えば、日精による「日道伝」には「上新田講所」という言葉が二度(要5-212,216)出てくる。日亨によれば、これは「上新田講師」の誤りであるが、日精は『家中抄』の草本の方でも同じ二箇所で「上新田講所」と記す誤りを重ねている。つまり、日精は合計で四回も「上新田講師」を「上新田講所」と誤記し、その都度、日亨から「所は師の誤りなり」(要5-212)「講所に非ず正しくは講師なり」(研教6-188)などと訂正の註を加えられている。この事例から、日精は、同じ誤字を何度も繰返す人物だったとも推測されるし、誤った知識を鵜呑みにする、史家には不向きな人物であったとも考えられよう。阿部の説が一つの推測にすぎないのは当然として、この点でも、私の推測の方がより合理的ではないかと信ずる。

「内用」の話に戻りたい。この言葉は、『望月仏教大辞典』、龍谷大学編『仏教大辞典』、織田得能著『織田仏教大辞典』、中村元著『広説 仏教語大辞典』、『岩波仏教辞典』、創価学会教学部編『仏教哲学大辞典』、『日蓮聖人遺文辞典』等々、数ある著名な仏教辞典及び日蓮・法華関係の辞典の、いずれにも記載されていない。しかも先述のごとく、『家中抄』の「日道伝」に出てくる「内用」については、大半の宗門人が、日亨の天註に従って「内証」の誤記であろうとみているはずである。にもかかわらず、かつて阿部は「十二箇条の法門」を説明する段で、何の補足説明もせず「内用」という語を使い、あたかも宗門の伝統用語のごとく取り扱った。それゆえ私は、なぜそのような不親切かつ不可解な説明をするのか、と阿部に尋ねたのである。

しかるところ、『阿部側回答書』(四九頁)においては「一切法とは、権実の一切法にして皆な摂するなり、此れ経名を証するなり。一切自在神力とは、内用を自在と名け外用を神力と名く、即ち用を証するなり」[46]という『法華玄義』の一節と、それに対応する『玄義釈籖』の文とを提示してきた。当文が『法華玄義』の通釈、七番共解の第二引証の中にあることは、天台系・日蓮系の学者なら誰でも知っている。しかし、「内用」という語が登場するのは、『法華玄義』の中で、ここ一箇所のみではないか。かかる希少な語は、多くの仏教者の間で概念として共有されておらず、したがって一般に通用する仏教語とは言えない。その意味で私は、阿部への質問状において、仏教語として一般に認知された「内用」の語などは知らない、と述べたのである。阿部や配下の者たちは、「内用」の語が祖書の中に全くみられないので、仕方なく天台の三大部にあたり、ようやく『法華玄義』中に一例を発見し、それに対応する『釈籖』の文も付け加えて、何とか体裁を整えたつもりなのだろう。そのような虚しい努力の成果を見せつけ、私に対して「仏教の基本を知らない」とはよく言ったものである。ちなみに、中国仏教の法華経思想を専門とする斯界の権威・菅野博史博士が訳註した『法華玄義』を紐解くと、阿部が引用した箇所で仏教語として註が付けられているのは「五乗」「九法界」「開示悟入」等であり、「内用」については註記がない[47]。むろん、『国訳一切経』の玄義の註にもない。「内用」とは、註を付すほどの語でもないのである。

それよりも私としては、阿部による、先の『玄義』の文の解釈について、どうも釈然としないところがある。阿部が引用した箇所は通釈の「引証」の一部であり、「即ち用を証するなり」とは当然、五重玄の「用」を証するとの意である。ゆえに、ここは「内証」と結びつけて「内用」を議論すべき箇所ではない。しかるに阿部は、天台や妙楽の文意から離れ、「内用自在」について「悟りの内容に約せば『内証』であり、その「内証」を用いることを「内用」という」(『阿部側回答書』五〇頁)などと勝手な講釈を垂れている。これこそ、宗学の基本たる天台三大部も素直に読めない勉強不足の姿ではないか。もし私の指摘を誤解だと言うのならば、『玄義』及び『釈籖』の文章のどこを根拠に「『内証』を用いることを『内用』という」と言えるのか。ただ「内用自在」の一語ですべてを片付けるのではなく、明確な文脈上の根拠を示されたい。 

さらに、阿部の言うごとく「内証」を用いることが「内用」ならば、ここに言う「外用」とは何か。「内用」と同じく、「外用」も「内証」を用いることなのか。だとすれば、内証と内用・外用とは違うのだから、『家中抄』の「内用外用金口の智識なり」という文における「金口の智識」とは本仏の「内証」そのものに関する「智識」ではない、ということになる。阿部らは金輪際、金口相承に関して「内証の法門」などと言うべきではない。とくに阿部は、平成十四年の「開宣大法要」の際に「内証と外用の二大法門」と言っていたが[48]、今後は「内用と外用の二大法門」に変更するべきであろう。

結局、阿部は何のために『玄義』と釈籖』の文を引いたのか。私にはまったく意図がわからない。推察するに、阿部は「内用」なる語が辛うじて天台の文献にも存在することを、とにかく示したかっただけなのだろう。私にとって、こうした無益な論議に付き合わされるのは迷惑千万である。しかしながら、今回の阿部の回答によって、阿部が日精の誤記にも気づかず「内用」の語を使い、すこぶる安直に唯授一人相承の法門を根拠づけようとしたことが明るみに出た。このこと自体は、一つの収穫なのかもしれない。

そろそろ、本項目の本題となる「十二箇条の法門」の議論に入ろう。ここに及んで阿部の思考は一層の混乱を呈しているが、私の主張は極めて単純である。もう一度、わかりやすく説明する。「法を日道に付属す所謂形名種脱の相承、判摂名字の相承等なり、惣じて之を謂はば内用外用金口の智識なり、別して之を論ぜば十二箇条の法門あり」(要5-216)という日精の「日道伝」の文を素直に読めば、「形名種脱の相承、判摂名字の相承等」は別して「十二箇条の法門」である、と捉えるしかない。つまり、「形名種脱の相承、判摂名字の相承等」=「十二箇条の法門」という関係が認められる。そこで「等」の字に注意しつつ、「十二箇条の法門」には「形名種脱の相承」と「判摂名字の相承」が含まれる、と言いうる。ところが他方、日寛の『観心本尊抄文段』に示された「重々の相伝」の中にも「形貌種脱」「判摂名字」という名目がみえる。ということは、「重々の相伝」と「十二箇条の法門」には共通する法門内容がある。すなわち、形貌種脱」「判摂名字」という二つの法門が両者に共通している。この意味から、先の「日道伝」の文を根拠に、日寛の「重々の相伝」を「外用」、「十二箇条の法門」を「内用」と立て分け、両者を次元の異なるものと解釈した阿部の説は完全に間違っている、と私は述べたのである。

これに対する阿部の反論は「論旨不明」の一言に尽きる。『阿部側回答書』の原文を読んだ方々の多くは、彼らが要するに何を言いたいのか、皆目見当がつかなかっただろう。かくいう筆者も、長嘆息をつきながら読み返し、ようやく彼らの反論の輪郭をつかんだ次第である。

はじめに、阿部は私の質問にみられる論理的矛盾を突こうとしている。「汝は、『十二箇条の法門』に『形名種脱の相承や判摂名字の相承』が含まれるのか、『十二箇条の法門』と『形名種脱の相承や判摂名字の相承』とは内容的にイコールのものなのか、何一つ分かっていないのである」(『阿部側回答書』五二頁)というのがそれである。私は、「『十二箇条の法門』と『形名種脱の相承や判摂名字の相承』とは内容的にイコールのもの」などとは一言も述べていない。私の主張は、一貫して「『十二箇条の法門』に『形名種脱の相承や判摂名字の相承』が含まれる」ということである。

「日道伝」に「形名種脱の相承、判摂名字の相承等」とある以上、「形貌種脱」「判摂名字」以外にも何か(「等」)がある。したがって両者の関係としては、形名種脱の相承、判摂名字の相承等」=「十二箇条の法門」とするか、「形名種脱の相承、判摂名字の相承」「十二箇条の法門」とする以外にない。私は質問状の中で、このどちらかの意に沿った表現を用いたが、「形名種脱の相承、判摂名字の相承」=「十二箇条の法門」とは一度も述べていない。私の質問状のどこにそれがあるのか。阿部に聞く。

もしや、貴君は「『家中抄』の『日道伝』の記述自体は、あくまで形名種脱の相承や判摂名字の相承が『十二箇条の法門』の内容である、としか読めない」という私の質問状の記述を根拠にそう言っているのか。だとしたら、阿部は日本語の基礎的な読解能力を欠いている。「形名種脱の相承や判摂名字の相承が『十二箇条の法門』の内容である」という文は、「形名種脱の相承や判摂名字の相承が『十二箇条の法門』の内容のすべてである」ということを含意しない。つまり、必ずしも形名種脱の相承、判摂名字の相承」=「十二箇条の法門」という意味にはならない。両相承が「十二箇条の法門」の内容のすべてであるか、あるいはその内容の一部であるのか、といった問題には、先の私の記述は何も触れていないはずである。私の記述は、両相承が「十二箇条の法門」の内容にあたる、という意味以外の何物でもない。要するに阿部は、私の質問状の記述に誤った拡大解釈を施し、なおかつ、それが一つの推測であるにもかかわらず断定的結論であるかのごとくに論を進め、最後には「汝は何一つわかっていない」と勝手に決めつけて私を非難しているのである。こうした二重の不当性を有する論法は阿部の常套手段であり、もはや驚くこともないが、ためにする批判には弁証法的な議論の進展が望めない。すなわち、学問の上で生産的な論争にはならない。今後は、絶対に止めていただきたい。

さて次に、阿部は「日道伝」の草本に「御上洛の刻み法を日道に付属し玉ふ。想じて之を謂へば内用外用金口智識なり。委細に之を論ずれば十二箇条の法門有り。又御書并びに血脈抄に於て一大事の相伝あり。謂く形名種脱の相承、判摂名字の相承也。此の二ケ相承は当家一大事ナル故甚深の血脈なり。其の器に非れば伝へず。斯の如く当家一大事の法門既に日道に付属す。爰に知りぬ、大石寺を日道に付属することを。後来の徒衆、疑滞を残すこと莫れ。」(研教6-437〜438)とあることを理由に、「『十二箇条の法門』と『形名種脱の相承、判摂名字の相承』は別個の法門なのである」(『阿部側回答書』五三頁)と断じている。

この断定にも重大な欺瞞が存する。

それは、阿部が草本を基準にして完成本の文意を解釈していることである。阿部によれば、『家中抄』の草本と完成本については「表現方法に多少の相違はあったとしても、よほどのことがない限り、同趣旨のことを述べられていると拝して差し支えない」(同前)という。しかし、草本や稿本とは「したがき」のことである[49]。いまだ修正を経ない文案である下書きが、公表された完成本と「同趣旨のことを述べられている」とどうして言えるのか。少なくとも阿部が「差し支えない」と断定できるわけがなく、「同趣旨のことが述べられている可能性もある」くらいの推量表現にとどめるべきである。

いわんや、下書きを基準にして完成本を解釈するに至っては、本末転倒も甚だしい。話が逆である。完成本を基準にして草本を解釈することが、筆者の真意を正しく理解することに通ずるのである。完成本の『家中抄』の「日道伝」には、形名種脱の相承、判摂名字の相承等」が「十二箇条の法門」であることが明記されている。一方、草本の「日道伝」では、日目から日道に付属された「法」が「内用外用金口智識」「十二箇条の法門」であるのに対し、「形名種脱の相承、判摂名字の相承」は「甚深の血脈」「当家一大事の法門」として日道に付属されたことになっている。完成本を基準にして草本を解釈すれば、草本の文脈においても、「十二箇条の法門」と「形名種脱の相承、判摂名字の相承」との密接な内容的関連性をみてとることは十分に可能である。草本における形名種脱の相承、判摂名字の相承」は、「甚深の血脈」「当家一大事の法門」とみなされ、最重要の付属法門とされている。であれば、その「甚深の血脈」にして「当家一大事」の「形名種脱の相承、判摂名字の相承」こそが「法を日道に付属し玉ふ」と言われるところの付属の「法」にあたり、この「法」を委細に論ずれば「十二箇条の法門」になる、という日精の考えが自然に推知されるではないか。

傍証として、完成本の「日道伝」では「十二箇条の法門」が「甚深の血脈」とされている、という点も挙げておきたい。草本においては、「形名種脱の相承、判摂名字の相承」が「甚深の血脈」とされている。すなわち、日精において「形名種脱の相承、判摂名字の相承」と「十二箇条の法門」とは、ともに「甚深の血脈」だったのであり、決して別物ではなかったのである。

どうだろうか。「付属」「甚深の血脈」「一大事」に着目した、この私の草本解釈の方が、「又御書并びに」云々の「又」の字によって前後の文意を無理に区切り、付属の「法」と「形名種脱の相承、判摂名字の相承」とを「別個の法門」とみなす阿部の草本解釈よりも、相当に蓋然性が高いとは言えまいか。何よりも、完成本を基準に草本の記述を考えるべし、という道理に照らせば、完成本の記述に合致する私の草本解釈の方が採用され、完成本の記述と対立する阿部の草本解釈は否定されて然るべきである。

ただし、先述のごとく、草本と完成本が必ず同趣旨のことを述べているとは限らない。かりに両者の趣旨が食い違っていたとすれば、すなわち日精が完成本の段階で草本に記した趣旨を変更したとすれば、阿部の主張が通る可能性もゼロではなくなる。しかし、その場合でも、完成本の記述こそ最終確定された日精の意図であるから、やはり阿部の解釈を採用する余地はない。完成本よりも草本を重視する阿部の解釈は、日精の最終的な意志を隠蔽し、剰え冒涜することにもなろう。阿部はそれでも構わないのだろうか。

 なお、阿部は、日精の『当家甚深之相承之事』(写本)の「当家甚深の相承の事。全く余仁に一言半句も申し聞かす事之れ無し、唯貫首一人の外は知る能わざるなり」(歴全2-314)、及び『家中抄』の「日興伝」の「判摂名字の相承、形名種脱の相承あり、日目、日代、日順、日尊の外漫には相伝し給はざる秘法なり」(要5-170〜171)の両文を引き、日精は「総じての法門相承」と「唯授一人の相承」を厳格に立て分けていた、と主張している。この主張は全くの誤りである。『家中抄』の「日道伝」(完成本及び草本)には、日目が形名種脱の相承と判摂名字の相承を日道一人に付嘱した、と述べられている。ところが同抄の「日興伝」では、それらの相承が日興から日目・日代・日順・日尊の四人に相伝されたと記されている。これでは、形名種脱の相承と判摂名字の相承が「唯授一人の相承」なのか、複数の僧に相伝される「総じての法門相承」なのか、はっきりしない。阿部からみれば、『家中抄』における日精の記述は、むしろ法門相承と唯授一人相承の立てわけについて曖昧なはずである。

 もっとも、日精としては、自分が受けた唯授一人相承の内容が宗門上古の相承内容と同じなのかどうかわからず、日興・日目・日道の時代の相承法門の内容を具体的に特定できなかったのかもしれない。そう考えると、日精が大石寺の唯授一人相承の内容について不可解な記述を残しているのは、とりもなおさず同寺の相承法門の内容に変遷があったことを示唆しているようにも思える。

あるいはまた、日精にとって、大石寺の唯授一人相承とは大石寺門流内の取り決め事にすぎなかった、という見方も成り立つ。つまり、形名種脱の相承と判摂名字の相承は、要法寺(日尊)や西山本門寺(日代)にも伝わっているが、大石寺門流では日道以来、唯授一人の相承法門とされてきた――このように日精が考えた可能性も大いにある。この見方をとった場合、「当家甚深の相承の事。全く余仁に一言半句も申し聞かす事之れ無し、唯貫首一人の外は知る能わざるなり」(歴全2-314)との日精の書き置きは、他門はともかく、大石寺門流においては「当家甚深の相承の事」が「唯貫首一人」に限られる≠ニいうことを強調したものと解されよう。

実際、『当家甚深の相承の事』の内容をよく読むと、日精が「全く余仁に一言半句も申し聞かす事之れ無し」等と「檀那中」に法主の専権性を力説した背景には、相承を残らず請け取ったとする「名利」の僧が出来し、本尊を数多く書写するという問題があったことがわかる(同前)。当時の日精は、大石寺門流内における相承系譜の混乱や本尊雑乱に強い危機感を覚え、唯授一人相承の法主の権威を信徒に強く訴えざるをえなかった。ゆえに、日精が「当家甚深の相承の事。全く余仁に一言半句も申し聞かす事之れ無し」云々と書置きしたことなどを根拠に、阿部が日精は「総じての法門相承」と「唯授一人の相承」を厳格に立て分けていた≠ニ主張するのは、切り文による独断的解釈に他ならない。ここでの日精の意図は、大石寺門流内における法主の教義占有権の確保にあり、興門全体が有する「総じての法門相承」に対して大石寺法主の「唯授一人の相承」が宣せられた、ということではない。現宗門の言論文書の全体に言えるが、阿部らの『当家甚深の相承の事』の引用の仕方は恣意的であり、とても史料を適切に用いているとは言い難い。

以上の考察を踏まえると、阿部の出した次のような結論も、何ら論理的根拠のない憶測であることが判明する。

 「日道伝」を拝せば、「御上洛の刻には法を日道に付属す所謂形名種脱の相承、判摂名字の相承なり(傍線、原著者)」と、「等」の字に「形名種脱の相承、判摂名字の相承」以外に御相承の内容があることを、きちんと示されている。その上で、「じてを謂はば内用外用金口の智識なり、別してを論ぜば十二箇条の法門あり甚深の血脈なり(傍線、原著者)」との文を拝せば、唯授一人血脈相承の全体の総別を「之」と仰せられていることが明らかである。つまり、「内用外用金口の智識」とは、先に挙げた『玄義』の「内用を自在と名づけ、外用を神力と名づく」との文に明らかな如く、唯授一人血脈相承における御本仏大聖人の「内用」「外用」の相伝である。そしてこの御相伝に、別しての「十二箇条の法門」が存するということなのである。要するに「十二箇条の法門」とは、「形名種脱の相承、判摂名字の相承」と別個のものなのである(『阿部側回答書』五三〜五四頁)。

私が先に述べた、「論旨不明」の文章の最たるものがこの一文である。論理の基本がわかっていないにしても、せめて文章の論旨だけは明確にしてもらいたい。「論旨を明確にせよ」とは、「文脈に沿って具体的に示せ」ということである。右の文中で、「『等』の字に『形名種脱の相承、判摂名字の相承』以外に御相承の内容がある」と説明しているところはわかる。しかし、阿部はそこから、いきなり「唯授一人血脈相承の全体の総別を「之」と仰せられていることが明らかである」などと切り出す。これはどういう意味か。「形名種脱の相承、判摂名字の相承」の下の「等」の字の内容=「唯授一人血脈相承の全体」と言いたいのか。そういうことなら、今、私が解説したように、文脈に沿って具体的に書き示せばよい。阿部の文書を読んで常に感ずることは、論理的表現能力の未熟さである。

ともかく検討を続けよう。今の私の解釈でよければ、阿部は「日道伝」の「所謂形名種脱の相承、判摂名字の相承等」の中の「等」が、「じて之を謂はば」「別して之を論ぜば」との表現における二つの「之」にあたると読んでいる。本来、はっきり示すべきであるが、「じて」の「之」と「別して」の「之」とは、どうやら同じ内容と考えられている。「等」=「之」と、阿部は解するのである。

しかし、ここに阿部の重大な文脈無視が露呈している。「形名種脱の相承、判摂名字の相承等なり、惣じて之を謂はば内用外用金口の智識なり、別して之を論ぜば十二箇条の法門あり」(要5-216)という文をどう解釈すれば、「等」=「之」になるのか。文脈に沿った正しい解釈は、間違いなく「形名種脱の相承、判摂名字の相承等」=「之」である。したがって、じて」の「之」とは形名種脱の相承、判摂名字の相承のような唯授一人血脈相承≠ナある、としなければならない。同様に、「別して」の「之」も形名種脱の相承や判摂名字の相承のような唯授一人血脈相承≠指すのだから、「十二箇条の法門」とは形名種脱の相承、判摂名字の相承に代表される諸法門である、と解するのが最も妥当である。ここにおいて、「『十二箇条の法門』とは、『形名種脱の相承、判摂名字の相承』と別個のものなのである」という阿部の主張が、「日道伝」(完成本)の文脈を故意に無視した我田引水の理屈であることが鮮明となる。

 そもそも、「形名種脱の相承、判摂名字の相承等」という文章表現において、筆者(日精)の強調点が形名種脱の相承、判摂名字の相承」と「等」のいずれにあるのかは言うまでもない。形名種脱の相承、判摂名字の相承」にこそ日精の力点があり、「等」の内容は省略されるほど軽いのである。日精が「形名種脱」と「判摂名字」の両法門の相承を殊のほか重視していたことは、『家中抄』の「日時伝」に「当家に於て御書相伝に二あり、謂く判摂名字の相承、形名種脱の相承となり、其の外の相承どもあり」(要5-254)と記しているところからもうかがえる。日精にあっては、判摂名字・形名種脱の両相承こそ大石寺(当家)の「御書相伝」の肝心要であり、それ以外は「其の外の相承ども」という扱いを受けた。こうした日精の考え方が、「日道伝」では形名種脱の相承、判摂名字の相承等」という記述となって表れたわけである。

それでもなお、絶対に秘匿されるべき唯授一人の法門なるがゆえに「等」と書いたのだ、と言い張る人がいるかもしれない。だが、それならば、日精は、例えば貫主一人、当家一大事の秘法、及び形名種脱の相承、判摂名字の相承≠ネどといった表現にしたはずである。ところが、実際の日精は形名種脱の相承、判摂名字の相承等」と表現した。ここにおける「等」の法門内容は、どうみても形名種脱の相承、判摂名字の相承」と同レベルか、それ以下である。したがって、私が本項目の質問の冒頭で阿部に提示した、日寛の『観心本尊抄文段』の「序」における「重々の相伝」の数々――その中には「形貌種脱」「判摂名字」の名目もみられる――こそ、日精の言う「内用外用金口の智識」「十二箇条の法門」と密接な関連性を持つと推測できるのである。

阿部の欺瞞を総括しておこう。阿部は、『家中抄』「日道伝」の最後にみられる形名種脱の相承、判摂名字の相承等」との表現について、日精が名目を省略した「等」の内容の方が、その名目が明記された形名種脱の相承、判摂名字の相承」よりも甚深の極秘伝であると強弁した。そして、何の論理的根拠もないのに形名種脱の相承、判摂名字の相承」と「等」とを内容的に切り離した。しかも、そのうえに文脈を完全に無視した論を立てた。阿部の欺瞞の弁には三重の仕掛けがある。どうやら阿部の配下には、放言の多い阿部を擁護するためか、粗悪な詭弁の大量生産を専門とする特殊な僧形者がいるようだ。いわゆる「正信会問題」の時には、「トンチ教学」で名を馳せた水島公正がいたが、今回は誰なのか。私の耳には、粘着質の詭弁家として阿部に重用されている森岡雄樹の名前が聞こえてくる。誰であるにせよ、実名を隠して私に非難中傷を浴びせてくるのはフェアではない。せめて各章ごとに執筆者名を明記し、正々堂々と私に反論し給えと忠告する。

 最後に、阿部が「十二箇条の法門の内容を知らないことが明らかにも関らず、その内容はすでに日寛上人によって公開されているともいう。しかし知らないものについて何故断定できるのか」(『阿部側回答書』五五頁)と私に詰問しているので、簡潔に答えておく。まず私は、「十二箇条の法門」の「内容」が日寛によって公開されている、などと言った覚えはない。具体的に証拠を挙げて示してほしい。そのうえで、十二箇条の法門」の教義的核心を日寛が理論的に開示した、ということならば、私自身は提唱していないが、それには賛同する。十二箇条の法門」が実際に存在しようがしまいが、またその内容を私が知ろうと知るまいと、血脈授受の当事者である日寛は「宗門の奥義此に過ぎたるは莫し」(要3-70)とされる究極の奥義を「粗大旨を撮りて以て之を示さん」(同前)と述べ、『文底秘沈抄』の中で至上の「宗門の奥義」を詳細に解説した。ここで宗門の奥義は『文底秘沈抄』の法門を超えない≠ニ二十六世・日寛が言明していることから、十七世・日精が唱えた十二箇条の法門」も『文底秘沈抄』の法義内容を超えるものではないだろう、という見解が合理的に導かれる。これは、最も信頼するに足る大石寺の血脈相承の当事者の言説を前提として演繹された結論であって、阿部が頻繁に行っているような、論理なき憶測の類とは次元が異なる。大石寺教学研究の上での第一級史料を用いた合理的な仮説として、私はこの見解を支持したいと思う

 

9 日寛の『当家法則文抜書』について

 

(松岡から阿部への質問)

近年、あなた方は、日寛にも法主信仰があった、として前出の『当家法則文抜書』をよく持ち出します。今回の『血脈公開論批判』でも、同抜書の中に左京日教の「当代の法主の処に本尊の体有るべきなり」云々(要2-309)との文が記載されていることを再三にわたって紹介し、あたかも日寛が法主信仰を認めていたかのごとく論じています。しかし『当家法則文抜書』は、「抜書」すなわちメモの類であって、何かを主張するために執筆された論書ではありません。たとえ、この抜書が大石寺内で秘蔵され、日寛の謦咳に接した二十九世・日東の「拝見」との文字と署名花押がそこにみられるとしても、日寛自身が後世の宗徒に残そうとした重書とは言えません。日寛は、『六巻抄』については、強い調子で『三重秘伝抄』に「此は是偏に法をして久住せしめんが為なり」(要3-4)、『依義判文抄』にも「後世の弟子に贈る此は是偏に広宣流布の為なり必ず其近を以て之を忽にすべからず」(要3-103)と明記しています。古来、「当家の大事六巻抄」(要5-355)と言われるゆえんです。

その意味で、私はあなたに対し、次の問題提起を行います。「日寛がかねてより抜書きし、心に留めていた『当代の法主の処に本尊の体有るべきなり』との義は、日寛の出世の本懐とも言える再治本の六巻抄の中でまったく採用されなかった。そのことは、日寛が法主信仰を実質的に否定した、という何よりの証拠ではないのか」――と。じつのところ日寛は、法主の内証が本尊の体であると説くこの文が左京日教の作であることを知らず、ただ「当家御法則」として伝承されてきたとの認識しか持ち合わせていませんでした。この文を日教の作と断定したのは近代の堀日亨であり、近世の宗門人には知る由もなかったのです。ゆえに日寛が、法主の内証本尊義を説くこの文を、歴代先師の筆と考えていた可能性は大いにあります。にもかかわらず、日寛はこの文を六巻抄の中に一度も引用しませんでした。日寛が六巻抄の中で展開した本尊論や三宝論からすれば、法主の内証本尊義などは、法門の綱格を乱す逸脱義に他なりません。六巻抄に示された三大秘法義のどこに、法主の内証を「本尊の体」とすべし、との教説がありましょうか。三宝論においても、日寛の強調点は『当家三衣抄』の「行者謹で次第を超越する勿れ」(要3-239)というところにあったと思われます。後世に長く伝えるべき『当流行事抄』や『当家三衣抄』の中では、『三宝抄』にみられる「三宝一体」の義も、完全に排除されています。六巻抄における日寛は、もっぱら三宝の区別を明確化することに力を入れているのです。

 私は、どこまでも六巻抄の中に、日寛が最終確定した大石寺の教学があると考えます。そうではない、とあなたが言うのならば、しっかりした論拠を示して下さい。

(阿部側の回答要旨)

 法主に日蓮の内証が相伝されている≠ニいう事実を当方が述べたことに対し、松岡がそれを「法主信仰」などと表現するのは勝手な飛躍的解釈である。

 また松岡は、『当家法則文抜書』が「抜書」であり何かを主張するために執筆された論書ではないと言うが、 同抜書には日寛自身の教学的見解を述べた箇所も多い。ことに「予が末法相応抄の如し」(研教9-757)との註は、明らかに他人の閲覧を想定した教示である。 つまり、同抜書は、日寛が自身の要文集として所持したことはいうまでもないが、さらには日寛の弟子たちや後世の弟子の教学研鑽に資するために残されたのである。
 そして、松岡は
「日寛がかねてより抜書きし、心に留めていた『当代の法主の処に本尊の体有るべきなり』との義は、日寛の出世の本懐とも言える再治本の六巻抄の中でまったく採用されなかった。そのことは、日寛が法主信仰を実質的に否定した、という何よりの証拠ではないのか」と述べているが、日寛は『文底秘沈抄』に「法を日目に付し日目亦日道に付す今に至るまで四百余年の間一器の水を一器に移すが如し清浄の法水断絶せしむることなし蓮師の心月豈之に移らざらんや」(要3-94)と記し、現法主の処に「蓮師の心月」すなわち、金口嫡々血脈相承に基づく本尊の内証の法体を所持していることを明示している。これは、「当家御法則」の文の「当代の法主の処に本尊の体有るべきなり、此の法主に値ふは聖人の生れ替りて出世し給ふ」云々(研教9-740)の文と同様の教示である。

 この「当家御法則」の文については、左京日教の『類聚翰集私』の文であったとしても、この文を見た日寛が、大石寺の伝統法門を伝える要文としての意義を認め、抜書きしたものと信ずる。
 さらにまた、松岡は「
『当流行事抄』や『当家三衣抄』の中では、『三宝抄』にみられる『三宝一体』の義も、完全に排除されています」「どこまでも六巻抄の中に、日寛が最終確定した大石寺の教学があると考えます」と勝手に憶測をしている。しかし、三宝一体の法義は下種仏法の基本である。根本的な意義であるから、それをあらゆる処に示さねばならぬ道理も必要もない。この点からして松岡の評定は迷乱している。

(松岡の再批判)

 本項目に関しては、阿部の『法主信仰擁護書』の内容も踏まえつつ、再批判していく。

 本質的な論点は、何といっても「蓮師の心月」問題だろう。「当代の法主の処に本尊の体有るべきなり」「此の法主に値ふは聖人の生れ替りて出世し給ふ」(研教9-740)という「当家御法則」の文を六巻抄の中に一度も引用しなかった日寛は、法主信仰を実質的に否定したのだ――かかる私の主張に対し、阿部が唯一、反証のための文献として示してきたのが「四百余年の間一器の水を一器に移すが如し清浄の法水断絶せしむることなし蓮師の心月豈之に移らざらんや」(要3-94)という『文底秘沈抄』の文であった。阿部によると、ここに言う「蓮師の心月」とは「御本尊の御内証の法体」(『阿部側回答書』五八頁)を意味し、その本尊の法体が「現御法主上人の処」(同前)に所持されていることを当文は説いているという。

果たしてそうだろうか。真っ先に解明されねばならないのは、「蓮師の心月豈之に移らざらんや」という箇所における「蓮師の心月」と「之(此)」[50]の正確な意味である。そこでまず、『文底秘沈抄』の論述において当文が占める位置を確認し、しかる後に当文の意味がより鮮明になるよう、阿部が引用した箇所について前後の部分も省略せずに掲げてみる。

 この「蓮師の心月」云々の文は、『文底秘沈抄』の「第二 本門戒壇篇」の中で出てくる。本門戒壇篇では、本門の戒壇に「事」と「義」があることが示され、事の戒壇について霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か」(全集1022・定本1864)との日蓮の『三大秘法抄』の教示が取り上げられる。ここで日寛は「問ふ霊山浄土に似たらん最勝の地とは何処を指すと為んや」との問いを設け、「答ふ応に是富士山なるべし故に富士山に於て本門の戒壇之を建立すべきなり」と述べて、富士戒壇説を力説する(要3-90)。そして、自説の正当性を証明するために、「道理」「文証」「遮難」という三つの角度から論陣を張る。阿部が引用した箇所は「遮難」の一部にあたる。日寛は、様々な理由を挙げて身延山最勝説を唱え富士戒壇説を否定する他門に対し、その疑難の一々を論破しようとする。その中で、問題の次の箇所が出てくるのである。

問ふ有は謂く宗祖の云く未来際まで心は身延の山に住むべく候云云、故に祖師の御心常に延山に在り故に知ぬ是最勝の地なるをや、答ふ延山は本是清浄の霊地なり所以に蓮師に此言有り而るに宗祖滅度後地頭の謗法重畳たり興師諌暁するも止めず蓮祖の御心寧謗法の処に住せんや、故に彼山を去り遂に富山に移り倍先師の旧業を継ぎ一塵の汚有ること無し、而て後法を日目に付し日目亦日道に付す今に至るまで四百余年の間一器の水を一器に移すが如し清浄の法水断絶せしむることなし蓮師の心月豈之に移らざらんや是故に御心今富山に住するなり(要3-94)。

 ここでは、『波木井殿御書』の中で日蓮が「未来際までも心は身延山に住むべく候」(定本1932)と述べていることを根拠に[51]、「祖師の御心」は常に身延山にある、とする主張が紹介される。日寛はこの主張に対し、日蓮の滅後、地頭の波木井実長が謗法化したという点を指摘しながら、「謗法の処」となった身延山に「蓮祖の御心」が住むわけがないと反論する。そして、日蓮の法嗣たる日興が謗法の身延を離山して富士に移り、先師の正義を汚れなく継承し、以降は富士大石寺の歴代法主がその「清浄の法水」を伝えてきたことを説き示す。かく論じた後、日寛は「蓮師の心月豈之に移らざらんや」と述べ、このゆえに日蓮の「御心」は「今富山に住する」のだ、と結論づけるのである。

かくのごとく、一連の文脈を丹念にたどると、当該箇所は、日蓮の「御心」の所在地をめぐる議論であることがすぐにわかる。すなわち、『波木井殿御書』を引用した論者は日蓮の心が永遠に身延山に在ると言い、日寛の方は日興の身延離山以来の経緯を説明しつつ富士山に日蓮の心が在ると反論している。とすれば、「蓮師の心月豈之に移らざらんや」の「之(此)」とは、大石寺の所在地である「富山」を指すことが明らかではないか。阿部は、論全体の流れをわざと無視し、「四百余年の間一器の水を一器に移すが如し清浄の法水断絶せしむることなし蓮師の心月豈之に移らざらんや」という所だけを切り文して、「蓮師の心月豈之に移らざらんや」の「之(此)」が、いかにも「清浄の法水」を断絶せずに伝えている現在の大石寺法主=阿部日顕であるかのごとく見せかけている。しかも、そのために「蓮師の心月豈之に移らざらんや」に続く「是故に御心今富山に住するなり」との結論部分を不自然に隠して引用しているのだから、極めて悪質な行為と言わざるをえない。学問の世界では、決して許されざる行為である。

次に、「蓮師の心月」とは何か。先に私が引用したところを今一度、読み返していただきたい。「祖師の御心」「蓮祖の御心」「蓮師の心月」「御心」といった言葉が、次々と目に入ってくるだろう。要は、亡き日蓮の心を指して色々な表現がとられているわけである。ゆえに「蓮師の心月」とは、いささか文学的な表現ながら、日蓮の心を意味するとみて差し支えない。では、日蓮の心とは一体何なのか。阿部の言うごとく、本尊の法体なのだろうか。そう言えなくもないが、議論の文脈からは外れてしまう。「未来際までも心は身延山に住むべく候」(定本1932)との『波木井殿御書』の一節が、ここでの議論の出発点である。そこから、日蓮の心が「住む」べき場所について縷々論じられることを思えば、結局のところ、「蓮師の心月」とは〈本仏の加護〉という信仰実践的な意味合いで理解するのが、最も文脈に合った読み方であると言えよう。

日寛は「御心今富山に住するなり」との結論を出した後、さらに地頭の謗法によってその所在地に日蓮の心が住まないと言うならば、法華経に帰依していない世界中が謗法の地である。しかるに、どうしてあちらからこちらへ日蓮の心が移るなどと言えるのか≠ニいう詭弁的な疑難を設定し、それに対して「答う、総じて之れを言わば実に所問の如し、今別して之れを論ぜば縁に順逆あり、故に逆を去って順に移るなり」と切り返している。一閻浮提が皆謗法の中でも、別して言えばそこに順縁の衆生と逆縁の衆生がある、ゆえに日蓮の心は逆縁の身延から順縁の富士に移ったのだ、と言うのである。そして、『四条金吾許御文』の「されば八幡大菩薩は不正直をにくみて天にのぼり給うとも、法華経の行者を見ては争か其の影をばをしみ給うべき」(全集1197・定本1825)との文を引き、謗法の国を捨て去るべき諸天善神の八幡大菩薩も法華経の行者を加護するのだから、それに準じて日蓮の心が富山に住する意義も察知せよ、と説き教えている。つまり、一国謗法の中でも法華経の行者には諸天の加護がある、ということと本質的に同じ意味で、日寛は「蓮師の心月豈之に移らざらんや」と述べたわけである。やはり我々は、「蓮師の心月」を〈本仏の加護〉として理解すべきである。

以上の細密な考察により、「蓮師の心月豈之に移らざらんや」という『文底秘沈抄』の文は、かつて身延山の門下にあった〈本仏の加護〉が今は富士大石寺の一門に及んでいる、という意味であることが判明した。この文を、現法主の処に本尊の内証の法体を所持している、と読み換えてしまうあたり、阿部らの思考が徹頭徹尾、法主信仰に根ざしていることを痛感させられる。

そう言えば、『法主信仰擁護書』の中にも「日興上人以来、代々の御法主上人の血脈伝持の御功績により、現第六十七世御法主日顕上人に至るまで、厳然と、大聖人の御法体が相伝遊ばされているのであるから、そもそも御歴代上人が大聖人、日興上人の正しい教義から逸脱≠キることなど絶対にあり得ないのである」(四〇〜四一頁)という、およそ常人には納得できない説明があった。これでは、何を議論しても最後は循環論法に終わるわけである。こういう人物との議論は基本的に無益であるが、私の方は、やがて日蓮研究の大学者が陸続と出現することを予期し、幾分でも彼らの仕事の礎となれるような学説形成に真剣に取り組んでいる。その意味で当方は、なお一歩を進め、先の阿部の説の決定的な矛盾をも摘示しておこう。

 それは、阿部の「蓮師の心月豈之に移らざらんや」の解釈が、『文底秘沈抄』全体の構成からみて余りに不自然である、という点である。阿部の言うごとく、当文が現法主の「本尊の体」の所持を証しているのならば、これは『文底秘沈抄』の「第一 本門本尊篇」で詳細に論じられなければならない。ところが、「本尊の体」が法主に所持されている、という教説は「本門本尊篇」のどこにも見られない。これはなぜか。阿部は「御本尊の実体・深義は御内証によって伝承されているのであって、御内証の伝承を抜きにして御本尊の伝承はない」(『法主信仰擁護書』五頁)と言い切る。ならば、かくも重大な〈法主の内証=本尊の体〉の義の文献的根拠が、『文底秘沈抄』の「第二 本門戒壇篇」の、しかも日蓮の心の所在地をめぐる論述の中で、断片的・暗示的にしか取り扱われていないとは一体どういうことか。矛盾もいいところであり、阿部に対し、詳細な説明を求めるものである。

 さて、これ以外にも、阿部は私の見解に対し、いくつかの批判を提起している。どれもこれも枝葉の問題にすぎないが、一応は目を向けてみたい。

 第一に、阿部は、私が「法主信仰」という言葉を使ったことに反発し、「当方が論じた趣旨は、御法主上人に大聖人以来の御内証が相伝されている事実を述べただけのことであり、なぜそれが『法主信仰』などという表現になってしまうのか。これは汝の勝手な飛躍的解釈である」(『阿部側回答書』五六頁)と異議を唱えている。私が阿部の信仰を「法主信仰」と呼ぶのは、それが大石寺伝統の本尊そのもの≠ノ対する信仰から逸脱し、いわば法主に付随する本尊≠ノ対する信仰へと変質しているからである。

日寛は、『観心本尊抄』の中で「『信力』とは一向に唯この本尊を信じ、この本尊の外には全く仏に成る道無しと強盛に信ずるを即ち『信力』と名づくるなり」(文段集486)と明言している。このように、大石寺門流の正統な信仰では、日蓮図顕の曼荼羅本尊の外には「全く仏に成る道無しと強盛に信ずる」こと、すなわち本尊に対する純粋一途な信順が強く求められる。ところが、阿部の考えは「本門の本尊といっても唯授一人の血脈相承を所持なされる御法主上人を離れては利益成就はない」(『法主信仰擁護書』一八頁)というものである。阿部によれば、日寛が指南した「一向に唯この本尊を信じ、この本尊の外には全く仏に成る道無しと強盛に信ずる」信仰では不可であり、「この本尊の外に」法主の内証への信仰が絶対に不可欠とされる。否、それどころか「御本尊の実体・深義は御内証によって伝承されているのであって、御内証の伝承を抜きにして御本尊の伝承はないのである」(『法主信仰擁護書』五頁)と訴えるわけだから、これはもう法主に付随する本尊≠ヨの信仰と呼ぶにふさわしい。私はこの意味から、阿部の逸脱した信仰を簡潔に「法主信仰」と呼び、大石寺正統の「本尊信仰」から区別したのである。

 第二に、阿部は、日寛のいわゆる『当家法則文抜書』には日寛の弟子たちや後世の弟子の教学研鑽のために執筆された側面がある、とも主張する。断っておきたいが、私は、日寛が同抜書を他人に見せる意図が全くなかった、などとは一度も言っていない。ただ、日寛畢生の大作たる六巻抄のごとく、同抜書が「日寛自身が後世の宗徒に残そうとした重書」(松岡質問状)とは言えない、と述べたのである。つまり、『当家法則文抜書』は基本的に日寛が自分の思索の参考とするために用意した要文の抜書であり、弟子等に見せることを重要な目的として書かれた作品ではない。思索の参考とするための抜書要文集であるから、そこに日寛自身の私見が付記されるのは当然であり、それによって同抜書の備忘録的性格が否定されることもない――。もちろん、これは私の推測である。けれども同時に、「日寛上人の御弟子方はもちろんのこと、後世の弟子の教学研鑽に資するために同書を残された」(『阿部側回答書』五七頁)とする阿部の見解もまた、考えられうる多くの推測のうちの一つにすぎないと言える。

 そこで、問題はどちらの推測の方に高い蓋然性が認められるか、ということになってくる。私は、自分の推測が高い蓋然性を有しており、阿部の推測は蓋然性が低いと考えている。その理由を以下に列記してみよう。

@ 『当家法則文抜書』では、はじめに「当家御法則文 御法則抜書」(研教9-739)と記されている。つまり、日寛自身が最初に、この文書が「論」でもなければ、教義註釈の「抄」でもなく、「抜書」であることを明記している。このこと自体、『当家法則文抜書』が第一義的に個人研鑽用のものであるという証左である。

A 『当家法則文抜書』が「後世の弟子の教学研鑽」を想定した書き物だったのならば、日寛はそれなりに論述を整えたであろう。序文を付したり、全体を通じて問答形式にしたり、または執筆動機を説明したり、といったことをしたはずである。しかし、同抜書の原文には、そうした形跡が見受けられない。同抜書の最初の部分には「抜書雑雑集 下」とも記されているが、これは恐らく日東の筆であろう。いずれにせよ、「後世の弟子の教学研鑽」書としてふさわしい体裁が、『当家法則文抜書』ではとられていない。こうしたことから、日寛自身が『当家法則文抜書』を一つの著作作品として後世に残そうとしたとは考えにくい。 

B 堀日亨は『富士宗学要集』を編纂するにあたり、日寛の『当家法則文抜書』を掲載しなかった。この事実は、富士門流の史料に造詣の深かった日亨が、同抜書を日寛作の重書とは認めなかったことを意味している。阿部の言うごとく、同抜書が「後世の弟子の教学研鑽に資する」重書であるならば、近代随一の富士門流史家の日亨が、これをいったん『富士宗学全書』に収録しながら、あえて『富士宗学要集』の内容から外すという道理はない。「日亨上人は、読者に注意を促す大事な註であれば、必ず『富士宗学要集』にも残されたはずであり、これを省かれたということは重要な註ではなく、省くに如かずという日亨上人の御意志の表れと拝される」(『阿部側回答書』四八頁)と、先に私を説教したのは阿部の方である。まさか、この私の意見に賛同しないとは言うまい。また、さらに推考するならば、日亨にとって、『当家法則文抜書』は何らかの意味で広く公開したくないものだった、という可能性もある。日亨は『富士宗学要集』の「宗義部」に、無題の日寛の雑記まで収録している(要3-316〜317)。ここには、祖書や経論の内容や巻数等が簡潔に記され、日寛による本格的な私註はみられない。かような日寛の雑記すら要集に掲載した日亨が、なぜ阿部が重視する『当家法則文抜書』を掲載しなかったのか。阿部に返答を求めたい。

C 『当家法則文抜書』が「後世の弟子の教学研鑽に資する」ためのものならば、教学上の重要事項に関しては明確な指南が行われていなければならない。しかるに先述のごとく、日寛は「文底の大事」に関する日有の説を抜き書きし、自らは違った意見であるにもかかわらず、ただ大貳云く云云」と記すにとどめている(研教9-777)。これなど、「後世の弟子の教学研鑽に資する」には余りに不親切な態度と言えよう。じつは、『当家法則文抜書』が書かれたとされる正徳四(一七一四)年から、再治本の『三重秘伝抄』が完成する享保十(一七二五)年までの間に、日寛はこの問題に対する自らの態度を微妙に変化させている。すなわち、学頭時代の日寛は『開目抄愚記』の中で「『我本行菩薩道』の文底に久遠名字の妙法を秘沈し給う」(文段集77)と明示しているが、再治本の『三重秘伝抄』になると「師の曰く本因初住の文底に久遠名字の妙法事の一念三千を秘沈し給へり」(要3-50)とのみ述べて具体的な文の表示を避けている。こうした点を考慮に入れるならば、学頭時代の作と考えられる『当家法則文抜書』の段階では、「文底秘沈」の文をいかに取り扱うかについて、まだ日寛の態度が十分には固まっていなかったと思われる。かくのごとく、教義解説の上で不親切かつ不確定的な文書を再治もせず、日寛が「後世の弟子の教学研鑽に資する」ために残した、とは到底考えられない。

D 日東は、日寛の『当家法則文抜書』を「享保第廿」年に「拝見」したと記している(研教9-804)。享保二〇(一七三五)年と言えば、同抜書を日寛が記したとされる正徳四(一七一四)年から二十一年も経過している計算になる。日寛の逝去からも八年が経過しており、その段階で、ようやく当時の法主であった二十九世・日東が「拝見」したという記録が登場するのである。つまり、このことは、他人による同抜書の閲覧が長期間なかったことを裏付けるものとも考えられる。阿部は、当時、日東以外の日寛の門下が同抜書を見ていた、ということを証する史料を提示できるのだろうか。もし何も示せないのならば、少なくとも「日寛上人の御弟子方」の「教学研鑽に資するために同書を残された」(『阿部側回答書』五七頁)などという仮説は撤回すべきである。

 以上、日寛の『当家法則文抜書』は基本的に自己の思索の参考のために作成された抜書である、と私が推測したゆえんを五点にわたって説明した。『当家法則文抜書』は「日寛上人の御弟子方はもちろんのこと、後世の弟子の教学研鑽に資するために」残された(『阿部側回答書』五七頁)、とする阿部の推測は、どうみても蓋然性が低いと判断せざるをえない。総括的に言うと、『当家法則文抜書』は、弟子の教化育成用と考えられるほど内容的に整備完成されてはいない、ということである。

 なお、阿部は「註の中には、予が末法相応抄の如し(研教9-757)と記されており、明らかに他人の閲覧を想定された御配慮をされ」ている(『阿部側回答書』五六〜五七頁)という点を殊更に強調しているが、そのこと自体は私も否定しない。けれども、限られた学僧たちに内見を許した可能性があるとみることと、広く弟子の教化育成のために執筆されたと言うこととでは、意味が全く異なってくる。意図的かどうかはともかく、阿部は、まさにそこを履き違えているのである。

 また、阿部はこの問題に関連して「汝は殊更に六巻抄のみを持ち上げるが、六巻抄は下種仏法の御法門それぞれの主意を当時の状況に応じて開陳されたものであり、六巻抄にのみ日寛が最終確定した大石寺の教学がある≠ネどいうのは、汝が妄想の上に作り上げた虚構であり、『軽率な概括による虚偽』に当たる」(『阿部側回答書』六〇頁)と述べ、私の日寛教学への理解の仕方を批判している。しかしながら、再治本の六巻抄を日寛の「出世の本懐」とみなすことは、大石寺の歴代法主が繰り返し強調してきた門流の常識ではないのか。例えば、四十八世・日量は、「当家の大事六巻抄」(要5-355)と記しているし、五十九世・日亨は次のように力説している。

本師(日寛のこと=筆者注)八十余巻の述作中無益の冗書は無いが此を総轄する要本は此六巻抄であり、自身三十年の言説を要約した計りで無く釈迦仏の又蓮祖大聖の総てを此中に納めたりとの会心の御作であったのは、候補たる学頭日(ママ)師への御譲の御談にも顕れてをる(要3-2〜3)。

 六巻抄こそ日寛の「八十余巻の述作」を「総轄する要本」であるとともに、「釈迦仏の又蓮祖大聖の総てを此中に納めたりとの会心の御作」である――日亨は、ここまで六巻抄を賞賛している。この日亨の理解に従えば、『当家法則文抜書』の方が八十余巻の述作」の一つに数えられるかどうかといった類にすぎないのに対し、六巻抄は日寛の「自身三十年の言説を要約した」重書中の重書である。それなのに、阿部は『当家法則文抜書』を「数多くの尊い日寛上人の御教示が存在する」(『阿部側回答書』五七頁)と不当に持ち上げ、他方で六巻抄には「下種仏法の御法門それぞれの主意を当時の状況に応じて開陳されたもの」と低評価を下す。そして、あげくには六巻抄を日寛の再重要書とみなす私に対し、「妄想の上に作り上げた虚構」「軽率な概括による虚偽」などと品のない誹謗中傷の言を連ねるのである(『阿部側回答書』六〇頁)。すべてがあべこべであり、阿部の論こそ「詭弁の上に創り上げた虚構」であろう。

日亨をして「釈迦仏の又蓮祖大聖の総てを此中に納めた」とまで言わしめた六巻抄の中には、当代の法主の処に本尊の体有るべきなり」「此の法主に値ふは聖人の生れ替りて出世し給ふ」(研教9-740)という『当家法則文抜書』の記述が全く反映されなかった。それこそが、日寛は最終的に法主信仰を完全排除した≠ニいう動かぬ証拠である。私は再度、こう力説するものである。

 最後に、「三宝一体の法義は下種仏法の基本である。根本的な意義であるから、それをあらゆる処に示さねばならぬ道理も必要もない」(『阿部側回答書』六〇頁)と阿部が嘯くに至っては、何も返す言葉が見つからない。根本的な意義を言葉で示す必要がない、と考えるような人たちは、最初から「言葉による議論」に参加すべきではない。また私は、六巻抄の中に『三宝抄』の「三宝一体」の義が一つもみられないと指摘したのであって、「あらゆる処に示さねばならぬ」などとは言っていない。人に反論するときには、よく文章を読んで意味を理解してからにしてほしい。

ついでに言うと、「日寛上人は、抜書された『当家御法則』の文が、『類聚翰集私』中にあることを御存知であったかどうかは不明であるが、もし御存知でなかったとしても、この内容は大石寺の伝統教義であると認識されていたのである」(『阿部側回答書』五八頁)という阿部の主張も、何か勘違いしている。これでは、「日寛は、法主の内証が本尊の体であると説くこの文が左京日教の作であることを知らず、ただ『当家御法則』として伝承されてきたとの認識しか持ち合わせていませんでした」という本項目の私の質問内容を、ただオウム返しにしただけではないか。公式文書を出すときには、もっと万事において慎重たるべきである

 

10 在家僧の認識について

 

(松岡から阿部への質問)

 最後にお聞きします。あなたは、自分自身を「出家」であると思いますか、それとも、実際には「在家」である、と認めますか。「出家」とは文字通り、家を出る、という意であり、中村元編『仏教語大辞典』には「家庭の生活から出離して、専心に道の修行を行うこと」[52]などと説明されています。現在、あなた方は「家庭の生活」を送りながら寺院内で僧侶としても活動しており、変則的な「在家僧」の身分という以外にありません。この考え方に同意されますか。

 また、在家僧ということであれば、問題は「僧」の意義であります。大石寺門流では、正法正義を伝える人を「僧」と定義するようですが、私の論のごとく、金口相承の法門内容の核心が理論的に開示されている、と仮定した場合、俗世間の人も、僧形の人と同じく法義の核心を学び、伝承できることになります。であれば、現代では、僧形の人も俗形の人も仏道修行に励むかぎり、ともに「在家僧」であるとは言えないでしょうか。あなたは、どこまでも金口相承の法門内容が非公開であるとの立場にこだわるでしょうが、それでは話が平行線に終わるだけで、研究調査上、有益とは思えません。もし大石寺の唯授一人相承が理論的に開示されているとすれば、現代の僧俗をともに在家僧とすべきかどうか、しないならばどこが違うのか、という角度からのみ、ご回答下さい。

 さらに、明治以来、大石寺では肉食妻帯し、家庭を持った法主が本尊書写を行ってきました。特にあなたは通常、自分の妻子を出入りさせている大奥内で本尊を書写しています。明治の日応の頃から今日に至るまで、日蓮正宗では在家者が本尊を書写し続けてきた――こう断定しても、よろしいですか。また、すべての篤信・篤学の僧俗が在家僧と言いうる今の状況にあって、それでも本尊に関する権能を在家法主が占有すべきである、とする論拠がもしあれば、ここで示して下さい。繰り返すようですが、くれぐれも循環論法にならないようにお願いします。

(阿部側の回答要旨)

 この項で松岡は、中村元の『仏教語大辞典』の「出家」の項の記述を根拠に、在家僧であることに我々が同意するか、そうであれば日蓮正宗では在家者が本尊を書写し続けてきたと断定してよいか、などと質問している。そこでは、「であれば」「仮定した場合」「断定しても、よろしいですか」と仮定の議論を繰り返し、次々に仮定の上に成り立った質問を押しつけている。それでいながら、松岡はこの虚構の上に成り立った質問への回答を循環論法にならないようせよ≠ネどという。このような矛盾撞着の質問をして恥じない者が博士を気取るとは笑止千万である。
 まず、出家の定義については、宗派個々の教義などによってバラバラである。

日蓮の仏法における出家の立場は、仏法を習い、市井において法を広めなければならない。したがって小乗仏教などの出家の定義を、日蓮正宗の出家に当てはめて論ずることはできない。

 日蓮は『四恩抄』に「仏宝・法宝は必ず僧によて住す」等と指南し、僧侶によって仏法が令法久住される旨を述べている。また日興も『遺誡置文』に、「当門流に於ては御抄を心肝に染め極理を師伝して」と指南し、出家の弟子に極理を師伝し、令法久住していくという道理を示している。このように、出家者の存在は、日蓮の仏法を令法久住していく上において絶対不可欠なのである。日蓮は、「涅槃経に云く」として「内には弟子有て甚深の義を解り 外には清浄の檀越有て仏法久住せん」
(全集1038・定本910)との文を引用して指南しているが、内に仏法を久住する出家者と、それを外護する在家者とは役割・立場が異なるのであり、決して混同されるものではない。

 次に、「肉食妻帯」等についてであるが、末法の日蓮仏法では基本的に釈尊仏教の戒律は用いない。日蓮は、ただ本門の本尊を信ずるところが受持即持戒であることを明かしており、この文底下種の妙戒を金剛宝器戒と呼ぶ。肉食妻帯≠ヘ爾前経の戒であり、松岡はいつから釈尊の弟子となり、爾前経の修行者となったのか。

 但し、人間の生命活動において、僧俗共に放逸無懺な悪業が不幸を招くことは当然であり、自然に正しい道理に適った生活となっていくところに、戒壇本尊を信受する金剛宝器戒の功徳が存する。また『太田左衛門尉御返事』に「予が法門は四悉檀を心に懸けて申すなれば、強ちに成仏の理に違はざれば、且く世間普通の義を用ゆべきか」とあるように、仏法においては弘教こそが肝要であり、その上から世間法をも尊重すべきことは当然である。しかし、今日にあっては僧侶が妻帯することに対する世間法上の非難はない。さらに、社会的に僧侶も結婚することが常識化した現代では、日蓮正宗僧侶が社会に法を広めていく為、寺院を守る為、布教の為、様々な面で妻帯することがプラスになるのであり、寺族の果たしていく役割も大きい。

 また、「日蓮正宗では在家者が本尊を書写し続けてきた――こう断定しても、よろしいですか」「篤信・篤学の僧俗が在家僧と言いうる今の状況」などの言もあり得ない暴論である。

 松岡が所属する「青年僧侶改革同盟(傍線、原著者)」とは一体何か。僧侶と在家に区別がないと言い張る松岡が、「僧侶」を標榜する団体に所属するのは自語相違の最たるものではないか。

 

(松岡の再批判)

 最初に、阿部は、私が学問的良心の上から自分の見解をあくまで仮説とみなして論を進めることに不快感を表し、「虚構の上に成り立った質問」(『阿部側回答書』六二頁)などという見当違いの批判を浴びせている。こうした態度こそ、阿部が「論文」の何たるかを全く知らず、偏狭なドグマに凝り固まっている証である。真理の前ではどこまでも謙虚であることが、公正な議論を行うためには大前提となる。ゆえに私は、論理的に正当と思われる自らの主張を、あえて「仮説」として阿部に提示した。それのどこが「虚構」なのか。

科学哲学者のK・ポパーは、科学と非科学の境界基準として「反証可能性(falsifiability)」という概念を構築した。科学的理論は常に反証しうる暫定的仮説でなければならず、反証不可能な論は非科学的なドグマに他ならない。もちろん、科学と宗教とでは次元が異なるが、ドグマを排した公正な議論を期すうえで、反証可能性という概念は大いに参考となる。その意味から言えば、根本的に論理が欠如した阿部の法主信仰は、もとより仮説ではなく、ドグマと呼べるほどの域にも達していない。それこそ、正真正銘の「虚構」と呼ぶべきなのである。

 では、本題に入ろう。阿部は、中村元編『仏教語大辞典』が「家庭の生活から出離して、専心に道の修行を行うこと」を「出家」と定義していることに過敏に反発している。そして、「出家の定義は、宗派個々の教義などによってもバラバラなのである」とか、小乗仏教などの出家の定義」「市井において法を広めなければならない」存在である「本宗の出家」には当てはまらないとか、様々に弁解を試みている(『阿部側回答書』六三頁)。これらは皆、問題をはぐらかす逃げ口上に思える。

私は、何も難行苦行、禅定、戒律主義、山林修行等の修行形態の違いにまで踏み込んだ出家の定義を示したのではない。中村編『仏教語大辞典』は、仏教全般に関する辞典として、いわば「出家」の最大公約数的な定義を行っている。簡単に言えば、「少なくとも、この条件だけは満たさなければ出家ではない」という定義を示したものである。その「出家」の最大公約数的な条件が、「家を出る」「家を捨て去る」「家庭の生活から出離」する、ということである[53]釈尊にせよ、小乗仏教の僧にせよ、すべての出家者は「家庭の生活から出離」した修行者である。家庭生活から離れる、という点だけは、全ての仏教宗派の「出家」の定義に共通してみられる。「出家」と名のる以上は、必ず家庭生活から離れなければならないのである。

日蓮も『開目抄』の中で「父母の家を出て出家の身となるは必ず父母を・すくはんがためなり」(全集192・定本544)と述べ、明確に「家を出」ることを「出家の身」と定めている。日蓮自身、生涯独身であり、個人の家庭生活から離れた存在であった。出家としての、最大公約数的な条件を満たした修行者であった。こうしたことを踏まえ、私は、現在の日蓮正宗の僧侶が、「家庭の生活から出離」する、という出家としての最大公約数的な条件を満たしているのかどうか、をあえて聞いたのである。この出家としての最低要件を満たさずして、いかに「市井において法を広めなければならない」「令法久住」「金剛宝器戒」などと力説しても、何ら出家者であることの証明にはならない。

けれども、阿部が確信犯的な言い逃れに終始しているのなら、これ以上、何を論じても時間と労力の無駄であろう。そこで、阿部に二つ質問を出しておく。「阿部日顕さん、あなたには妻や子供、孫たちがいますか。あなたの場合、答えは『はい』『いいえ』のどちらかしかありません。どちらですか」――。「はい」と答えれば、阿部は「家庭の生活から出離」していない。すなわち、出家としての最低要件すら満たしていない。むしろ、公然と家庭生活を送っている。よって、阿部日顕は「在家」である、という事実が確定する。二つ目の質問である。「阿部日顕さん、あなたは剃髪し、袈裟衣を着て寺院内で暮らしていますか」――。「はい」と答えれば、阿部日顕は明らかに「僧形の人」である。しかし、彼が「僧」であるか否かはわからない。この点をはっきりさせるには、「僧」の一般的定義、及びその大石寺門流における定義を知る必要がある。

「僧」という言葉が、サンスクリット語の「サンガ」の音写であり、比丘、比丘尼の団体を指すことは比較的よく知られている。そのうえで後世、中国や日本では、この団体の中の個々の人々を指して僧と言うようになった。すなわち、仏門に入って袈裟をつけて仏道を伝える者を僧と称するようになったと言われる[54]

では、大石寺門流における「僧」の定義はどうなのだろうか。今回、『阿部側回答書』(六四頁)の中で示されたように、日蓮は『曾谷入道殿許御書』の中で「涅槃経に云く」として「内には弟子有て甚深の義を解り 外には清浄の檀越有て仏法久住せん」(全集1038・定本910)と指南している。また、『日興遺誡置文』には「当門流に於ては御書を心肝に染め極理を師伝して」云々(全集1618)との遺誡がある。これらによると、日蓮の仏法を正しく伝える存在を大石寺門流では「僧」と呼ぶと言えよう。

さて、こうした「僧」の一般的、及び大石寺門流内における定義に、阿部日顕や配下の宗門僧侶はあてはまるのだろうか。仏門の集団に入り袈裟衣を著しているという面では、彼らは「僧」の一般的定義の一分を満たしていると言えよう。だが、仏道を伝えるという面ではどうか。これは、大石寺門流の僧の場合、戒壇本尊中心の三大秘法義を正しく伝承しているかどうか、という問題になってくる。

阿部も一応、三秘総在の戒壇本尊を信仰対象とする。しかし、戒壇本尊の実体=内証は現法主が所持しており、そこに真の根本があるとされる。驚くことに、阿部は「御法主上人には、戒壇の大御本尊の御内証が唯授一人の血脈相承として受け継がれているのであり、そこに絶対的な体があることは宗門古来の伝統教義である」(『法主信仰擁護書』一八頁)とまで述べている。つまり、現法主こそが「絶対的な体」の所有者であり、戒壇本尊に実体を与える権限も現法主に存すると言うのである。戒壇本尊は、実質的には現法主の絶対的権威に従属する存在へと押し下げられている。

ここに至って、阿部は次のごとく断ずる。「本門の本尊といっても唯授一人の血脈相承を所持なされる御法主上人を離れては利益成就はない」(同前)のであり、法主に背く者の本尊には「義が事の戒壇に当たる功徳」(同前)もなく、従って現法主に背いて唱える題目には功徳などないのだ、と。いまや三秘総在の戒壇本尊ではなく、三秘総在の現法主である。これを、大石寺正統の戒壇本尊信仰から、阿部日顕流の法主信仰への教義歪曲と言わずして何と言うのか。かくも歪曲された教義を「宗門古来の伝統教義」と言ってのける、阿部の神経は尋常ではない。

彼らの法主信仰は厳密には「現法主信仰」であり、具体的に言えば「阿部日顕信仰」である。創価学会では、早くから今の日蓮正宗のことを「日顕宗」と呼んできたが、言いえて妙である。なるほど「日顕宗」の人たちは、「南無日顕上人」とは唱えない。けれども彼らは、日顕一人が専有する法体としての「南無妙法蓮華経」を唱えている。だから、本質論的には「南無日顕上人」と唱えるのと同じことなのである。

このように、阿部は大石寺の正統教義を著しく改ざんし、戒壇本尊信仰を阿部日顕信仰へと変質せしめた。したがって、彼らに〈大石寺門流の僧〉としての意義など一分も認められない。

さらに、阿部に関しては、別の面でも〈大石寺門流の僧〉として極めて不適格なところがある。日蓮は、「但正直にして少欲知足たらん僧こそ真実の僧なるべけれ」(『曾谷殿御返事』、全集1056・定本1254)と述べている。ここに「少欲知足」とあるごとく、日蓮は簡素な生活を送る僧侶を「真実の僧」と呼んだ。実際、日蓮は粗末な草庵で粗衣粗食に甘んじ、開山の日興も生活が非常に質素であったと伝えられる。ところが、日寛の時代になると、大石寺一門の中でも奢侈に流れる僧分が多く見られたようである。そこで日寛は、『当家三衣抄』に「当世に及び門葉の中に於て一心に仏道を求め世間に背捨する者は爪上の土の如く徒らに万金の衣を著、百味の食を食ふ者は猶大地の如し、嗚呼後生日々三び身を省よ」(要3-236〜237)と記し、門下を誡めている。これらを要するに、真実の〈大石寺門流の僧〉たるには、贅沢を避け、質実剛健の日常に生きつつ、仏道修行に精進することが必須条件となる。

しかるに、阿部日顕の日常は如何、と私は問おう。もはや贅言を要さないが、まさに王侯貴族並みの贅沢三昧に耽っているのが現実の阿部である。これまで、いくら指摘されても知らぬふりをしてきたようだが、今回は、阿部日顕が「僧」であるか否か、という宗教者のアイデンティティーを問われているのである。次に述べる数々の実例に関して、教義の上から確実に回答してもらおう。

 

@ 昭和六十一年十一月二十二日、東京赤坂の料亭「川崎」で、椎名法宣と阿部法胤との合同主催による古稀祝があり、阿部日顕はそこに招かれて出席したという。ここには、阿部日顕を含む十一名の宗門僧侶と八名の僧侶夫人も同席している。この一件については創価学会の機関紙に報道され、日蓮正宗側はこれに対して訴訟を起こした。しかし、阿部日顕本人ではなく「日蓮正宗」「大石寺」が原告となったため、最終的には「訴える資格のないものが訴えた裁判」 であると判定され、最高裁判所で日蓮正宗の敗訴が確定した。私は、この裁判の経過や判決について、全く質問する気はない。また、裁判の争点の一つとなった写真の偽造云々の件についても、何ら興味がない。したがって阿部日顕には、こうした問題について何一つ答えないでもらいたい。私が阿部日顕に答えてもらいたいのは次の三点である。

(a)少欲知足たるべき大石寺僧の古稀祝を、赤坂の高級料亭で行うことに対し、なぜその場で厳しく注意をし、自らは立ち去らなかったのか。
(b)芸者を九人も呼ぶ必要があったと思うか。思わないのなら、なぜ、その場で主催者に注意を与え、自らは立ち去らなかったのか。
(c)贅沢な宴会に対する抗議の意思表示として、なぜ芸者の酌を受けることを拒まなかったのか。

  聞くところでは、この一晩の宴席にかかった総費用は数百万円にのぼるという。私には、とても「少欲知足たらん僧」(全集1056・定本1254)の行いとは思えず、この宴席を企画した僧らは、日蓮の言う「真実の僧」ではないと言える。そして、日蓮正宗を統率する立場にある阿部は、かかる宴席の場に到着した時点で「少欲知足」の宗祖の訓戒を思い起こし、決然と席を立って本山へ帰るべきであった。にもかかわらず、阿部は、抵抗もなく数百万円の宴席の最上座に腰を下ろし、芸者の酌まで受けた。私は芸者の酌を受けたこと自体を問題視するつもりはない。必要もないのに高額な費用で呼んだ芸者の酌を自ら受けたことは、阿部が「少欲知足」の訓戒破りを承認したに等しい、と指弾しているのである。酒を飲みたいのなら、自分で手酌をするもよし、目下の僧にさせるもよし、何より夫人同伴なのだから、夫人らに酌をしてもらえばよいではないか。本仏・日蓮の法魂を所持するとされる阿部は、「高額の金をかけて、必要もない芸者を九人も呼ぶとは何事か!」と主催者を一喝すべき立場にあった。それを、芸者付の饗応を黙って受け、にこやかに記念撮影にまで応ずるとは、阿部自身が「少欲知足」の訓戒破りの与同者でなくして何なのか。その証拠として――阿部が宗門の僧形者たちの「少欲知足」違反に同調した証拠として――当日の記念写真 [ 資料A ] を掲げておく。しつこいようだが、この写真が偽造かどうかという点は日蓮正宗と創価学会との間の問題であって、私個人には何ら関係がない。私の質問は「これは、阿部の大欲不足≠フ証拠写真ではないのか」という一点である。もし、阿部が私の質問をはぐらかして写真偽造の問題に逃げ込んだ場合、または何の返答もしなかった場合、私は阿部が返答不能に陥ったものとみなす。そして私が将来、様々な論考を一冊の研究書にまとめるときには、その阿部の対応を必ず書きとどめ、歴史的事実として長く刻印したいと思う。

A なお、阿部自身に関しても、昭和五十八年一月七日、自分の還暦祝を「ホテル・オークラ」で行っている。この時は僧侶が約九十名参加して盛大に行われ、参加の僧侶・寺族に対し「洋服は禁止・全員着物で出席」との達しが出されたという。こうなると、先の「赤坂」での芸者付宴会も、法主である阿部の贅沢志向に合わせて主催者が気を利かせ、芸者を呼んだ可能性の方が高い。それはともかく、なぜ「少欲知足」の範を垂れるべき法主の阿部が「ホテル・オークラ」という、日本でも超一流のホテルで還暦祝いをしなければならなかったのか。費用は一体いくらかかったのか。なぜ参加者に着物の着用を要求したのか。以上の質問にすべて答えてもらいたい。

B 昭和五十八年、税務当局の調査により、当時の日蓮正宗・宗務総監の藤本栄道が五、六千万円もの所得を申告せず脱税していた事件が発覚した。藤本は、常泉寺所有の土地を貸しているA病院から得た借地権更新の書き替え料を、宗教法人の会計に入れず、自己の収入としていた。しかも、夫人名義にして隠し持っていたとも言われる。悪質な計画的脱税行為であり、税務当局は追徴課税を命じた。この藤本の脱税行為は、まさに「但正直にして少欲知足たらん僧こそ真実の僧なるべけれ」(全集1056・定本1254)という日蓮の教示に真っ向から違背するものであり、かかる不正直かつ虚偽の大欲者は、速やかに宗外に追放すべきであった。ところが阿部は、藤本を総監に任用し続け、能化に叙し、このほど日蓮正宗の重役にも登用した。阿部は、藤本の脱税行為を「正直にして少欲知足たらん僧」の行為とみなすのか。みなさないのなら、なぜ何の処罰もしなかったのか。また、なぜ総監の重責をその後も担わせ、能化・重役にまで取り立てたのか。

C [ 資料A ] で、阿部が着ている普段着の和服は一着いくらするのか。一宗の財産の管理責任を負う公人として、阿部には、この質問に答える道徳的義務がある。一説には、着物と羽織で二千万円とされ、阿部はこれを色違いで四着持っているという。また、法衣に関しても一式(袈裟・衣・袴・数珠・中啓等)にするとかなりの高額にのぼると言われる。簡明な質問に変えよう。阿部が二大法要(虫払い・御大会)用に着る法衣一式の費用は、五百万円以上するのか、あるいはそれ以下なのか。「はい・いいえ」の二者択一で答えてほしい。当方は法衣店等から取材済みなので、ウソを言うと後々新たな問題を生ずることだろう。五百万円以上だとすると、日寛が『当家三衣抄』の中で弾劾した「徒らに万金の衣を著」(要3-237)る者こそ阿部である、ということになる。その場合、宗祖や先師の訓戒を破っている阿部は、法主であるか否か、という問題以前に〈大石寺門流の僧〉として認められなくなる。

 以上が、阿部が日蓮正宗の「真実の僧」であるか否か、という問題をめぐって私が質問したい事項である。これらの質問に対する阿部の対応如何によっては、「阿部日顕は僧形の在家者である」ということを学問的に結論づけ、内外に公表したいと思う。

 次に、「肉食妻帯」の問題について考えてみたい。私は、日蓮正宗の僧侶が「肉食妻帯」することを「悪」と言ったのではない。「肉食妻帯」する僧侶は「出家僧」とは呼べず「在家僧」である、と述べただけである。この当たり前の事実を述べた私の質問状に対し、阿部はそれを「邪難」などと勘違いし、「肉食妻帯」の否定は爾前経の戒であるとか、金剛宝器戒の功徳によって自然に正しい道理に適った生活となるとか、今日では僧侶の妻帯に世間の非難はないとか、当方が聞きもしないことを延々と言い訳している。私の最初の意図は、現代の大石寺門流では僧俗を問わず「肉食妻帯」の在家である、と主張することにあった。だが、阿部がそこまで戒律論議を持ちかけてくるのなら、話は別である。日蓮正宗における「肉食妻帯」の問題点についても、実例に即した質問を、いくつか出すことにしよう。

@ 阿部の妻・政子は、平成二年から三年にかけて約一年半、藤本栄道(当時)の妻・禮子、八木信瑩(当時)の妻・澄子、石井信量の妻・ナツ子らと共に、京都の超高級オートクチュール、エステサロンなどで約二億円の散財をしていたという。エステサロンはパーマだけで数万円、美顔、全身美容などを含めると一回に十数万円。オートクチュールに至ってはスーツが最低でも二百万円もするという。このことは、本当なのかウソなのか。ウソであるならば、なぜ、これらを報じた新聞記事等をいつものごとく裁判に訴えないのか。これが本当であることが判明した場合、阿部日顕は出家でも僧でもない。「僧形の在家者」である。また、阿部は「日蓮正宗僧侶が社会に法を広めていく為、寺院を守る為、布教の為、様々な面で妻帯することがプラスになるのであり、寺族の果たしていく役割も大きい」(『阿部側回答書』六六頁)などと言うが、右のようなことが事実ならば、宗門僧侶の妻帯がプラスになる、などとは間違っても言えない。激しい社会的非難を受け、著しく日蓮門下の名を汚しているだけではないか。これは阿部自身の僧としての存在意義にかかわる重大問題なので、早急に調査の上、必要資料をすべて揃えて返答を願いたい。

A 阿部はなぜ、総本山大石寺の大奥に妻の政子や娘の百合子等を頻繁に出入りさせるようになったのか。本来、大奥は法主の執務室を兼ねた居室・寝室であり、妻子と団欒したり、食事したりする場所ではない。阿部以前の法主の頃には、大奥は女人禁制だったと聞く。なぜ阿部だけが、妻子を大奥に出入りさせているのか。その弊害は、顕著に出ている。阿部は、質素だった大奥を改造し、華美な和風の庭まで造っている [ 資料B ] 。宗開両祖の質実剛健の宗風を肉食妻帯の在家法主の阿部が壊している、と言われても仕方がないだろう。この点、阿部はどう考えているのか。

B 阿部は、大石寺内に設置されている「本尊書写室」を使用せず、妻子を出入りさせたり、自分が食事や着替えをしたりする大奥の「茶の間」の畳の上で本尊を書写しているという。このことほど、妻帯法主、在家法主の時代性を実感させるものはない。阿部は、大奥での家庭生活の延長線上に本尊を書写していることになる。この話は本当かウソか。阿部に仕えた「奥番」等は真実を知っているが、あえて阿部本人に聞いてみたい。六十五世・日淳は、「御本尊書写室」で常に本尊書写をし、冬の寒い日でも小さな火鉢ひとつで暖をとり、凍える手をその火鉢で暖めながら本尊を書写していたという。その本尊書写室も、私が宗門にいた頃には中がホコリだらけになり、あちこちに虫の死骸が落ちており、あろうことか、部屋の中にある机の上に印刷された本尊の和紙が数百枚、ホコリをかぶったまま山積みされていた。かように、肉食妻帯の弊害は法主の本尊書写にまで及んでいる。この現状では、日蓮正宗では在家者が本尊を書写し続けてきた――こう断定しても、よろしいですか」という前回の私の質問に対し、阿部が何も答えられず、ただ「あり得ない暴論」としか言えなかったわけである。

C 阿部は、平成十一年十月、東京都渋谷区の一等地である松涛に約二十六億円もの巨費を投じて「大石寺出張所」を建築した [ 資料C ] 。登記簿上、土地は「境内地」、建物は「寺院」となっている。だが実際は、建物の半分以上が阿部と妻の政子の住居部分と言われている。しかも内部は贅を尽くした本格的な京風建築であり、松の銘木を使った回廊に和風庭園、大理石張りの浴室、一千万円のシステムキッチン、大邸宅用の床暖房、壁には一千万円の「備長炭シート」まである、という人もいる。これらは本当の話なのか、ウソなのか。阿部が「少欲知足」の「真実の僧」であるかどうかを見極めるうえで重要な点なので、一つ一つ「これは本当、これは違う」と具体的に回答してもらいたい。もしそれらの多くが本当の事ならば、たとえ「大石寺出張所」であるとしても宗開両祖の「少欲知足」の精神に背逆するものであり、阿部を〈大石寺門流の僧〉と認めるわけにはいかない。

D 加えて、この渋谷の出張所は近い将来、阿部が妻の政子と二人で住む隠居所になる、と予測されている。このことは本当か、ウソか。はっきりとした答えを要求する。「汝に答える必要はない」などと、阿部は言ってはいけない。約二十六億円もの信徒の浄財をつぎ込んだ豪勢な隠居所に法主夫婦が住む時代が来ようとは、日蓮も、日興も、また日寛も夢想だにしなかったに違いない。またこの出張所に関しては、その規模の大きさから考えても、定期的に百人以上の会合が開かれていなければ、宗門の公共的な「寺院」とは言えないだろう。今のところ、そのような会合は一度も開かれていない。つまり、この約二十六億円かかった出張所は、実質的には阿部と妻のための私邸と化している。寺院の贅沢化と私物化――これらもまた、肉食妻帯の弊害が日蓮正宗の中枢を蝕んでいることを示す厳然たる事実である。そうでないと言うのなら、阿部は具体的な事実を挙げ、かつ論理的に反論すべきである。

 この他にも、大石寺門流内における僧形者の肉食妻帯の弊害として門閥化、寺院の世襲化などがよく取り上げられる。明治五年に「肉食妻帯勝手たるべし」との太政官布告が出されて以降、大石寺一門は、なし崩し的に肉食妻帯に走った。その結果、まず僧形者と俗人の修行形態が同一化し、やがて僧形者たちの間では、寺院財産の私有化や宗教貴族化という深刻な問題を生ずるようになった。このような歴史的経緯の説明を抜きにして、「今日にあっては僧侶が妻帯することに対する世間法上の非難はない」「社会的に僧侶も結婚することが常識化した現代」「妻帯することがプラスになる」「寺族の果たしていく役割も大きい」(『阿部側回答書』六六頁)などと強弁しても公正な議論とは言えず、歴史認識の能力の欠如を露呈しているにすぎない。

 そのことを承知しているからなのか、阿部は批判の矛先を私に向け、「汝が所属する『青年僧侶改革同盟』とは一体何か。僧侶と在家に区別がないと言い張る汝が、『僧侶』を標榜する団体に所属するのは自語相違の最たるものではないか(傍線、原著者)」(同前)と詰め寄っている。私個人は、自分の置かれた立場に対し、何の戸惑いも感じていない。私は肉食妻帯の在家である。しかし、大石寺門流の正統的な三大秘法義を伝持すべく布教・教化に励んでいる。したがって、私は〈大石寺門流の僧〉であると自負したい。要するに、私は自分を「在家僧」として自己認識しているのである。

そして、大石寺門流の正統な三大秘法義を伝持・弘宣しているという点では、篤信・篤学の創価学会員の人々にも〈大石寺門流の僧〉としての意義が認められうる。そもそも僧俗の区別は、日亨が「僧俗と両様に区別することは、古今を通しての世界悉檀にしばらく準ずるものであって、あるいはかならずしも適確の区分でもなかろう」[55]と述べているように、世界悉檀に準ずるのであり、時代状況によっては変化しうる。前法主の日達は、昭和三十八年に出した「訓諭」の中で、創価学会のことを「一大和合僧団」と表現している。

阿部にしてみれば、現在の創価学会は血脈付法の法主を否定する大謗法者であり、僧の意義など一分もない、と言いたいところだろう。けれども、本稿で仔細に検討したように、阿部の法主信仰は、学術的に日蓮真撰と認定された遺文によって根拠づけられていない。また大石寺教学の面からみても、論理的根拠を欠く循環論法に陥っている。よって、阿部の説く法主信仰を否定したからといって、創価学会の人々が謗法とは言えない。むしろ創価学会は、宗門正統の三大秘法の本尊を信受している。日蓮正宗が法主信仰の宗派と化した現在において、三大秘法の本尊義を正しく伝え、世界中に流布しているのは、事実上、創価学会だけである。いまや日蓮正宗に替わり、創価学会こそが日蓮―日興―日寛の意を汲んだ宗門正統の僧団にあたる、と言えよう。

ただし、創価学会員に〈大石寺門流の僧〉としての意義を認めるのは、あくまで正法伝持という本質論的な働きを指して言うのであり、「少欲知足」という旧来の僧分の規範を学会員がそのまま遵守すべきか否かについては、さらに厳密な考究が必要となろう。世界広宣流布を着実に推進している創価学会に関しては、日蓮が『観心本尊抄』(全集254・定本719)の中で予言した〈折伏の時代における賢王〉としての意義が甚だ大きい。現代の創価学会は僧俗両面の意義を有すると考えられる。先の日亨の説のごとく、日蓮門下における僧俗の区別が古今の「世界悉檀」に準ずる可変的な化儀だとすれば、俗にして僧″なる存在として創価学会が出現している事実も、決して怪しむに足りない。そして創価学会が、王者の威力をもって「愚王」を屈服せしめるという「賢王」の折伏面を第一義とする以上は、他面において僧の役割を担うとはいえ、粗衣粗食の聖者の行に頑なにこだわるべきではなかろう。

また創価学会と一体になって活動している日蓮正宗改革同盟・憂宗護法同盟・青年僧侶改革同盟の改革僧侶に関しては、現在のところ、正法伝持を主たる任とする従来の僧分の立場を守っていると考える。しかし、創価学会とともに一丸となって世界広布の一翼を担っていくならば、やがては改革僧侶も「賢王」の一分に連なるように思われる。将来的には、僧にして俗≠ネる存在とされていくのではないだろうか。

以上は、私が暫定的に考えた卑見にすぎず、もとより改革僧侶全体の総意ではない。こうした議論は、事態の進展を慎重に見極めたうえで、様々な角度から議論を深めていく必要がある。確たる見解が出されるのは、かなり将来の話だろう。

いずれにせよ、私のような宗門を離脱した僧も、また創価学会の人々も、ともに日蓮―日興の正統の系譜に連なる「在家僧」である。両者は、同じ仏道修行を行い、同じく在家者であり、まったく平等である。とすれば、私はなぜ「僧形」をなしているのか。阿部が「『青年僧侶改革同盟』とは一体何か(傍線、原著者)」と聞いてきた真意も、恐らくそこにあるのだろう。私が「僧形」でいるのは、そうすることが私の自由であり、別段それを変える必要も感じないからである。「僧形」自体に罪がある、とは今まで誰もいっていない。日蓮正宗の改革を進めるうえでも、意味なく僧形を捨てれば、内外に余計な誤解を招くだけである。

よく「日蓮正宗を離れたのだから、法主から受けた袈裟衣を返しなさい」などと、筋違いのことを言ってくる宗門人がいる。本質的に信仰上の問題であることを、法的な離脱云々の話にすり替えないでもらいたい。日蓮正宗の信仰から離れたのは、一体どちらなのか。阿部らの方ではないか。阿部らこそ日蓮正宗の袈裟衣を返上し、法主信仰宗の法衣を新しく制定して着るべきである。私は、宗開両祖の本尊信仰を継承する僧であるから、宗祖から受けた袈裟衣を著すべき存在なのである。

なお、私が「僧形」でいることには、日亨の言う「世界悉檀にしばらく準ずる」という意味合いもある。時には、日本一般の習俗に準じて〈僧形の在家僧〉である方が、〈俗形の在家僧〉であるよりも布教・教化を進めやすいことがある。ゆえに私自身は、今の「僧形」のままでいる方がよいと感じているのである。大体、「僧形」自体が原始仏教、南伝仏教、中国仏教、日本仏教と様々に異なっている。釈尊が着たと言われる「糞雑衣」と、阿部の着る最高級の正絹の袈裟衣とでは、同じ仏教とは思えないほどの懸隔がある。この変化の姿自体、「僧形」もまた「世界悉檀」に準ずることを物語っているではないか。

さて、議論を整理しておこう。前述のごとく暫定的な私見にすぎないが、創価学会員は、日寛が開示した金口相承の教義的核心を踏まえて本尊信仰に励む俗にして僧≠フ在家者である。また我々改革僧侶は、創価学会員と同様の本尊信仰を貫く僧にして俗≠フ在家者である。他方、異端的な法主信仰によって日寛の本尊義を歪曲し、大石寺正統の本尊信仰から逸脱し、あまつさえ正信者の信仰を妨害する日蓮正宗の僧形者たちは、秘法伝授の「僧」たる意義を一分も有さない在家者である。私が、阿部を学術的に批判する理由の一つには、彼らが〈僧形の在家者〉なのに〈僧形の出家僧〉を詐称している、という点がある。

本項目に関しては、阿部の考え方の誤りを、まだ何点にもわたって指摘しておかねばならない。けれども、それらの一々を真正面から取り上げて反論すれば、徒に紙数を重ねることになる。これ以上の冗長の謗りは免れたい。そこで私から、再批判の意を込めた質問を、さらに阿部に対して提起する。いわば反問形式の再批判を、以下に掲げるので了解せられたい。

@ 『阿部側回答書』の中に「自然に正しい道理に適った生活となっていくところに、本門戒壇の大御本尊を信受する金剛宝器戒の功徳が存する」(六五頁)との一文がある。その説明自体には当方も異論はない。だが、阿部に言いたいのは、私に「金剛宝器戒の功徳」を説くよりも自らの身辺を清浄にする方が先ではないのか、ということである。先に紹介した藤本重役の脱税事件もそうだが、「淫行禁止条例違反」等で逮捕された『大日蓮』編集室勤務の後藤信和 [ 資料D ] 、同じく淫行容疑で逮捕された日蓮正宗・興本寺住職の武富道晋 [ 資料E ] 、車で死亡事故を起こし「業務上過失致死罪」で実刑判決を受けた日蓮正宗・福生寺住職の西村道超、免許不携帯の飲酒運転で民家に激突するという事件を起こしながら後には日蓮正宗・法布院の住職に任命された須藤正伝 [ 資料F ] 等々、数え上げればきりがないほど、阿部の直弟子たちが「放逸無懺な悪業」(『阿部側回答書』六五頁)を繰り返しているではないか。とくに、阿部の世話係である「奥番」を長年勤めた西村が刑務所に収監された事件に対しては、阿部自身にも教化育成上の直接的責任があると言える。阿部はなぜ、西村を側に置き続けた師匠として、かかる犯罪事件の責任の一端を担わないのか。はっきり答えてもらいたい。また、阿部の弟子に関するかぎり、こうした「破戒」の事例は決して例外的なものと言えない。これまでに万引き、飲酒、喫煙、暴力等の悪行によって、修行途上での下山を余儀なくされた阿部の弟子たちの数が、一体どれぐらいになるのか。正直に公表するよう、阿部に強く要求する。もし公表できなかった場合、公表できないほどの多くの弟子たちが不祥事を起こしている、とみなす。私の経験的な推測では、軽く百人を突破するであろう。以上の私の質問に対し、阿部が誠実に答えなければ、今後は他人の事よりも自己反省にこれ努めよ、と阿部に忠告する。

A [ 資料G ] を見ていただきたい。この写真は昭和六〇年代、大石寺に在勤していた僧侶が、同寺の「大納骨堂」の内部を撮影したものである。当時の大石寺では、信徒から預かった合葬の遺骨を、使い古しの米袋や黒ビニールのゴミ袋に詰め込み、乱暴に放置していた。見ての通り、米袋が破れて白い遺骨が飛び出しているものもあった。阿部に聞く。この写真を本物であると思うか。思わないのなら、写真が偽造であるという明確な根拠を提出されたい。また写真が本物であると認めるなら、当時の大石寺の最高責任者として、どう道義的責任をとるのか。今まで、阿部本人から一言の謝罪もないが、態度を明らかにしてもらいたい。また、この写真のような実態が「自然に正しい道理に適った生活となっていく」「金剛宝器戒の功徳」(『阿部側回答書』六五頁)であると言えるのか。阿部本人のコメントを求める。念を押すが、くれぐれも論点を写真提供者の問題にすり替えないように願いたい。

B 阿部個人の醜聞についても、非常に多くの告発がなされているようである。そのすべての真偽を問い質そうなどとは、私も思わない。ただ、阿部から見て、余りにもひどい非難であるにもかかわらず、いまだに彼が否定も肯定もしていない問題が一つある。平成六年、憂宗護法同盟の僧侶らは、阿部信雄(現在の日顕)が遊興目的でパイプカット手術を受けた[56]、という話を昭和四〇年頃、宗内で聞いた≠ニ実名で告発した。そして、「日本ばかりか世界のどこに、パイプカットをした法主がいるだろうか」[57]と激しく阿部を非難した。言うまでもなく、家庭的、遺伝的な事情等によるパイプカット手術には何の問題もない。だが、遊興目的での手術となると話は別である。当時、私としては俄かに信じ難いことでもあり、当然、阿部も即座に全面否定するものと考えていた。ところが現在に到るまで、この問題について阿部が公的に発言した、という話を私は聞かない。今回、阿部は「正しい道理に適った生活」「金剛宝器戒の功徳」について私に教訓してきた。ならば、この機会に、かかる疑惑についても完全否定したらどうか。ただし、その際、余計な言葉は一切交えず、ただパイプカット手術そのものを絶対にしていない≠ニ言明してほしい。そうしないと、手術の事実の有無が曖昧になるからである。言っておくが、法主がそのような馬鹿げた話に答えるはずなどない≠ニ、もし配下の僧侶らが激高すれば、かえって阿部への疑いを増すだけである。この告発が虚偽であるならば、明らかな名誉毀損であり、身の潔白を医学的にも簡単に証明できるのだから、阿部は本来、法主の尊厳を守るために断固たる態度をとって然るべきである。同じ類の、いわゆる「シアトル事件」報道に対しては最高裁まで争った阿部が、この問題に対してだけはなぜ、反論しないのか。今回、もし阿部が何の返答もしなかった場合、当方としては阿部は、当時の事情を知る年配の宗門人の目を気にして、はっきりと否定できないのだろう≠ニ推断せざるをえない。

C 今回の『阿部回答書』にもみられるが、阿部は、創価学会に対して「様々な不幸な姿が現証として顕れている」(『阿部回答書』六五頁)などと述べることが多い。とくに平成七年一月に起きた「阪神大震災」以降、阿部は、主たる大規模な自然災害に関して、その宗教的原因をことごとく創価学会の「大謗法」に帰せんとしている。阿部のこうした主張が、日蓮の仏法の立場から肯定されるには、創価学会が「大謗法」であることが教義的に証明されねばならない。が、本稿の考察から言えば、阿部の学会謗法論は、突きつめると主観的感情に基づいている。したがって、阿部による災害の学会起因説には、教義上の確たる根拠が欠けている。そのうえ、論理的に全く理解できないところも多々ある。

第一に、創価(教育)学会が結成される前に起きた歴史的な自然災害、例えば「関東大震災」の宗教的原因は何なのか。「阪神大震災」の宗教的原因がわかると言うなら、ぜひ阿部に答えてもらいたい。

第二に、仏教と何の縁もなかった中世のヨーロッパでも、「阪神大震災」以上の大規模な地震が何度も起きている。一六九三年にイタリアのシチリア島で起きた大地震や、十八世紀にポルトガルで起きたリスボン地震は、いずれも死傷者が十万人に達する大惨事だったと伝えられている。これらの大災害は、いわば「無仏の国」で起きたことであり、「大謗法」が原因とは考えられない。謗ずる対象となる正法自体が存在しないのだから、少なくとも法華経に背く「大謗法」はなかったはずである。とすれば、「阪神大震災」等についても「大謗法」以外の原因で起きた可能性を考慮すべきであるが、阿部はどうして、その考察を抜きにして大謗法によって災害が頻発している≠ネどと安直に言いふらすのか。この疑問に明快に答えないかぎり、近年の阿部による災害の学会起因説は論理なき主観的断定にすぎない、と結論する。

  第三に、昨年末に発生した「インドネシア・スマトラ沖地震」において、インドネシアでは推定で十三万人以上もの人々が死亡したとされる。阿部は、この大震災も創価学会の「大謗法」が原因だと言っているようである。けれども、ことインドネシアに関しては、日蓮正宗の公称信徒数が比較的に多い。そして、大震災の時には、法主の阿部を迎えて二箇寺の落慶入仏法要を行うべく、現地信徒が準備中であった。また本年の九月下旬、阿部はインドネシアを再訪し、念願の寺院の入仏法要を行ったと聞く。ところが、この前後に、インドネシアでは、バリ島での爆破テロ事件や大規模なデモ騒動などが勃発し、世界中を驚かせた。これらの諸々の現実を、阿部の図式主義的な〈ある地域における大謗法の横行→その地域における即時的な大災害の発生〉説にあてはめた場合には[58]、むしろ日蓮正宗の「大謗法」が原因となって大震災や大事件が起きた、ということになるのではないか。

第四に、大災害と謗法の関係について、日蓮仏教には大災害を妙法の広宣流布の「瑞相」と捉える見方もある。その見方に立てば、一連の大災害を創価学会による妙法流布の瑞相とみなすことも十分に可能である。阿部は、創価学会を「大謗法」と断ずるので、そういう見方を最初から排除している。だが、阿部の創価学会謗法説は、宗門史において出所不明の法主信仰に基づいている。いわゆる二箇相承は、日蓮―日興の関係のみを記述したものにすぎない。「代々の聖人悉く日蓮なり」(要1-32)との文は、『御本尊七箇相承』の「七箇相承」に後から追加された作者不明の条目であり、宗門上古の諸文献には見当たらない。日有の『化儀抄』は化儀の指南書であり、法体に関係する法主信仰を証する文にはならない。また何度も述べたように、法主信仰は、論理的にも、日寛の正統教学によっても、全く根拠づけられない。

かくのごとく法主信仰が出所不明の疑義である以上、それを否定する創価学会を大謗法とは呼べない。それどころか、創価学会は、宗門正統の本尊信仰を貫くために出所不明の法主信仰を否定しているのだから、かえって正法の護持者と言うべきである。とすれば、近年の様々な大災害の発生を、創価学会が妙法を流布するがゆえの「瑞相」である、とみることも十分に可能であろう。阿部はこの点、どう反論するのか。返答を待つ

 

結論

 

 本稿は、筆者の当初の意図に反して大部の作となった。そのかわり、阿部日顕の教学が有する問題点をくまなく摘出し、批判できたように思う。ただ、論が多岐にわたり、内容的に錯綜した箇所もあるため、阿部教学に対する批判のポイントが見えにくくなったことも否めない。そこで稿を結ぶにあたり、私が本稿で展開した、十の批判の要旨を箇条書きにして列示してみる。 

(1)阿部日顕の教学には「論理」がない。それは、低次元の循環論法を多用し、他にも多くの論理的誤謬を含んでいる。

(2)阿部日顕の教学では、「末法の教主」の実質的権威を日蓮から現法主へと移行せしめる。

(3)阿部日顕の教学では、「死人に口なし」をいいことに「現法主」中心の三宝一体義を立てる。

(4)阿部日顕の教学では、丑寅勤行において、法主がその場にない無数の形木本尊を漠然と想起しつつ祈念することを〈御本尊の開眼供養〉と称する。それは、常住本尊には対面祈念、形木本尊には非対面祈念という差別も設ける。

(5)阿部日顕の教学は、法主を霊能者化する。それは、丑寅勤行における阿部の祈念により本仏の「法魂」を自由に操作できる、と論理的根拠もなく主張する。

(6)阿部日顕の教学では、日蓮の予言を無視して大石寺の唯授一人相承の永遠性を主張する。

(7)阿部日顕の教学は、日蓮正宗の「正依」たる日寛教学を枝葉末節の法門と見下す。

(8)阿部日顕の教学では、「十二箇条の法門」なる唯授一人の未公開文献があると主張するが、それは百箇所以上もの誤謬を指摘されている十七世・日精の『家中抄』の一文を、 曲解を加えつつ唯一の根拠とする。

(9)阿部日顕の教学は、大石寺正統の本尊そのもの≠ノ対する信仰を法主に付随する本尊≠ノ対する信仰へと歪曲する。

(10)阿部日顕の教学は、現今の在家僧を出家僧と取り違え、僧形者をそのまま僧とみなす誤謬にも陥っている。

阿部日顕の教学の本質は、じつに論のすり替えにある。阿部や配下の僧侶たちの全精力は、いかにして論点をそらし、すり替えるか、という一点に注ぎ込まれている。ゆえに阿部らは、論のすり替えに有利な局面では理性的検討にも熱心になるが、その反対の状況に追い込まれるや一転して理性を放棄し、自分たちが〈信仰〉と称する世界に逃げ込む。その〈信仰〉も、大石寺の正統教学から逸脱した法主信仰に他ならず、その異流義性のゆえに同門の者との公的な対論を頑なに拒否し、ひたすら脅迫的言辞で相手に「堕地獄」の烙印を押して立ち去っていくのである。

 本年の八月二十五日に行われた「全国教師講習会」の開講式で、阿部は『御義口伝』の「
第一如是我聞の事」に引用されている「如是とは信順の辞なり信は則ち所聞の理会し順は則ち師資の道成ず」(全集709・定本2607)との『法華文句』の文を紹介しながら、私の教義理解のあり方を批判した。阿部の批判は、次のようなものである。

 最近は総本山第五十九世日亨上人が様々な文献を公開されましたから、ありとあらゆる人々がそれらを目にすることができます。ですから、自分でこつこつと勉強するのはよいけれども、どうしても根本の信のところ、順のところ、すなわち信によって所聞の理を会するということ、また師資の道を成ずることを忘れて読んでいくと、知識としては解るのですが、そこを外れていくら勉強をしてもだめなのです……松岡某などという者の考え方も、また創価学会の考え方も全部、そうなのです。知識としては解っているつもりでいるのです。それでいて結局、そこから外れるのです。これが恐ろしいのです[59]

阿部のこの発言は、相承法門の核心が説かれた六巻抄等の重要文献は、五十九世・日亨の手によって公開された≠ニする私の主張を、暗に受け入れたうえでなされている。ただ、そこには大きく言って二つの問題点が存する。

第一に、右の阿部の主張は、宗祖・日蓮にみられる道理重視の考え方と真っ向から対立する。『曾谷殿御返事』には、「但し師なりとも誤ある者をば捨つべし又捨てざる義も有るべし世間・仏法の道理によるべきなり」(全集1055〜1056・定本1254)とある。日蓮は、師への信順よりも、万人に理解されるような「世間・仏法の道理」の方を優先した。ところが阿部は、一般人にも通ずる道理を軽視し、とにかく師たる自分への信順を最優先せよ、と宗門教師に迫っている、これでは、『曾谷殿御返事』における日蓮の説示と逆である。

別言すると、「知識としては解る」という点を排斥するかのごとき阿部の信仰指導は、宗門教師に盲信を勧めているに等しい。一般人にも通ずる「道理」を非常に重んじた日蓮は、法論の場でも、双方が納得しうる仏法の道理によって正邪を決しようとした。例えば、日蓮は『諸宗問答抄』の中で、禅宗破折の一方法として「道理を立てずして無理に唯即身即仏と云わば例の天魔の義なりと責む可し」(全集380・定本29)と教えている。このように、「道理」に則った他宗破折を行うためには、様々な仏教文献を「知識としては解る」ことが最低要件となる。知識として解る、という最低要件すら満たしていない者は、日蓮仏教の正当性を世に認めさせることもできない。いかに師への信順の姿勢が強かろうが、知識として解る次元で自らの正当性を十分に主張できなければ、日蓮正宗は、単なる盲信者の集団とみなされる。

今回、私との一連の議論において、阿部は、知識として誰もが解るような「道理」の次元を無視し、自らの法主信仰に合わせて論点をすり替えることばかりに腐心していた。こうした阿部の盲信的態度は、どこまでも「道理」に基づく議論を望んだ宗祖・日蓮の姿とは似ても似つかぬものである。

第二に、阿部の説く師への信順は、根源の師たる本仏・日蓮への背逆に他ならない。阿部のいう「信」とは、一体、何に対する「信」なのか。結論の(9)に記したように、それは、大石寺正統の本尊そのもの≠ノ対する「信」ではなく、法主に付随する本尊≠ノ対する「信」である。『経王殿御返事』に「此の曼荼羅能く能く信ぜさせ給うべし」「日蓮がたましひ(魂)をすみ(墨)にそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ」(全集1124・定本751)とあるごとく、南無妙法蓮華経の曼荼羅本尊は日蓮の「たましひ(魂)」そのものである、とされる。ところが阿部らは、「本門の本尊といっても唯授一人の血脈相承を所持なされる御法主上人を離れては利益成就はない」(『法主信仰擁護書』一八頁)と唱え、「本門の本尊」たる戒壇本尊ですら法主の阿部に付随する存在にすぎない、と見下すのである。明らかなごとく、阿部らは「日蓮がたましひ(魂)」の根源的所在を「本門戒壇の大御本尊」にではなく、法主の中に置いている。阿部の説く「信」とは、本尊そのもの≠ノ対する「信」ではなく、所詮は法主である阿部自身に対する「信」なのである。大石寺正統の信仰からすれば、このような法主信仰は正しい「信」のあり方とは言えない。それゆえ、阿部が説くように「信によって所聞の理を会する」どころか、むしろ(阿部への)信によって所聞の理を()げる≠ニいう事態に陥っている。これが、現在の日蓮正宗の偽らざる実情なのである。

 したがって当然のことながら、「順は則ち師資の道成ず」という意義も、現宗門には全く認められない。大石寺正統の信仰の立場に立てば、そう言うしかないだろう。結論の(2)に示したが、現宗門の法主信仰にあっては、「末法の教主」の実質的権威が、本仏・日蓮から現法主の阿部へと移行している。本来、阿部は日蓮の末弟なのであるが、今の宗門では阿部の指南がすべての中心であり、日蓮の「御書」を根本とする信仰態度はどこにもみられない。かくのごとき本末転倒の信仰の支配下において、師の阿部に「順」なることは、すなわち根源の師たる日蓮に「逆」なることを意味する。阿部の言う「師資の道」とは、本仏・日蓮に背逆する道である。現宗門の僧形者たちには、「師弟ともに無間地獄に堕ちて阿鼻の炎にもえ候」(『王舎城事』、全集1137・定本)といった日蓮の教示もあることを思い起こしてほしい。また一度、法主信仰への囚われを捨て、開山の日興が「日蓮聖人に背き進する師共をば捨ぬが還て失にて候と申法門也と御存知渡らせ給べきか」(歴全1-173)と指南した意を、虚心坦懐に考え直すべきである。

 現宗門の諸兄に、かかる再考を促すためにも、私は、阿部の法主信仰がいかに本来の大石寺教学から逸脱しているかについて、徹底的に論じ尽くしておきたい。その意味で、私にはまだ一つ、論ずべき課題が残されている。『法主信仰擁護書』の最後の所(五七〜五八頁)で、阿部は、私に対する詰問を三点にわたって並べ、「明確に返答せよ」などと迫っている。阿部の意図はさておき、私自身はこれに誠実に答えたい。先に、阿部の詰問を原文に沿って一つずつ紹介し、逐次、私の返答を示していこう。

(阿部から松岡への詰問 前提部分)

汝は日寛上人の『六巻抄』を出世の本懐≠ニ称賛し、金科玉条として崇めている。

(松岡から阿部への返答 前提部分について)

 私は、日寛個人にとっては六巻抄が出世の本懐≠セったと言える、と論じたにすぎない。それ以上の意味は何もない。ゆえに、この前提から、私が六巻抄を「金科玉条として崇めている」という結論は演繹されない。私の記述に対する阿部の理解は、論理的におかしい。

(阿部から松岡への詰問 @)

 『文底秘沈抄』に「三大秘法随一の本門の戒壇本尊は今富士山下に在り故に富士山即法身の四処なり、是則法妙なるが故に人尊く人尊きが故に処貴しとは是なり」(要3-93)「根源とは何、謂く本門戒壇の本尊是なり……既に是広布の根源の所住なり、蓋ぞ本山と仰ざらんや」(要3-97)と、本門戒壇の大御本尊まします総本山が法身の四処であり、広布の根源であると仰せられている。汝はこの御指南を死守するや否や、明確に返答せよ。

(松岡から阿部への返答 @)

  日蓮は「此の御本尊も只信心の二字にをさまれり」(『日女御前御返事』、全集1244・定本1376)と教示している。戒壇本尊も正しい「信心」におさまる。しかるに、阿部が統率する現在の大石寺は法主信仰に染まり、本尊信仰という大石寺正統の「信心」を失っている。阿部の説く「法」は「邪法」であり、それを信ずる大石寺一門の「人」は卑しく、卑人が住する「処」=大石寺も汚濁している。また大石寺一門の邪信の中に「根源」たる戒壇本尊はおさまらない。以上の理由により、阿部が挙げた『文底秘沈抄』の文に関しては、日寛在世の頃にはあてはまるが、現在の大石寺は「法身の四処」でも「広布の根源」でもない、と私は考える。この考えは、法主信仰を六巻抄から排除し、大石寺正統の本尊信仰を立てた日寛も支持するに違いない。

 「法妙なるが故に人尊く人尊きが故に処貴し」(要3-93)との文は、普遍妥当の物理的法則のごとく考えてはならない。「法」と「処」は、「人」の「信心」によって左右される――これが、「只信心の二字にをさまれり」との日蓮の教示から導かれうる見解である。そうでなければ、長年にわたって大石寺の戒壇本尊に直接仕え続けた後藤信和や西村道超が、畜生さながらの淫行や過失致死罪を犯して刑務所に行く道理などないはずではないか。この恥ずべき現実を、阿部はどう考えるのか。明確に返答せよ。

(阿部から松岡への詰問 A)

『文底秘沈抄』に、
今に至るまで四百余年の間一器の水を一器に移すが如し清浄の法水断絶せしむることなし蓮師の心月豈之に移らざらんや是故に御心今富山に住するなり」(要3-94)と、大聖人の清浄なる血脈法水が四百余年の間、日寛上人まで厳然と御歴代上人によって伝持されており、大聖人のお心は大石寺に住されていると仰せられている。汝はこの御指南を死守するや否や、明確に返答せよ。

(松岡から阿部への返答 A)

この問題については、すでに項目の第九番目で詳説した。その結論のみを言うと、「蓮師の心月豈之に移らざらんや」という『文底秘沈抄』の文は、日興が離山するまでは身延山の門下に向けられていた〈本仏の加護〉が、日寛の時代には富士大石寺の一門に及んでいる、という意味である。しかしながら、今の大石寺に「大聖人のお心」=〈本仏の加護〉はない。理由は、阿部が山内に蔓延させた法主信仰によって、本尊信仰という日蓮―日興以来の「清浄の法水」が「断絶」しているからである。したがって、この『文底秘沈抄』の文が説示する本質的な原理は、信仰者として尊重すべきであるが、今の大石寺の現実を説明する文にはなりえない。

 この文の意を殺し、結果的に日寛の指南を反故にしているのは阿部の方ではないか。第九項目の所で出した私の質問を再度繰り返すが、当文が現法主による「本尊の体」の所持を証している、とする阿部の解釈は、どうみてもおかしい。それならば、どうして当文が『文底秘沈抄』の「第一 本門本尊篇」で論じられず、「第二 本門戒壇篇」の中で、しかも断片的、暗示的にしか取り扱われなかったのか。明確に返答せよ。

(阿部から松岡への詰問 B)

 『当家三衣抄』に、「南無仏、南無法、南無僧とは、若当流の意は……南無本門弘通の大導師末法万年の総貫首開山付法南無日興上人師、南無一閻浮提座主伝法日目上人師、嫡々付法歴代の諸師。此の如き三宝を一心に之を念じ」(要3-238〜239)と仰せられ、信仰の筋目の上から、御歴代上人を僧宝と仰ぐべきことを御指南されている。汝はこの御指南を死守するや否や、明確に返答せよ。

(松岡から阿部への返答 B)

 第三項目の所で確認したが、日蓮の秘法伝授の弟子たる日興が僧宝の全分≠ナあるのに対し、歴代法主は僧宝の一分≠フ意義にとどまる。そのゆえんは、歴代の法主がもし「嫡々付法」であれば≠ニいう条件付きの僧宝だからである。事実、「嫡々付法」ではない法主もいたのだから仕方がない。

「造仏は即ち一箇の本尊なり、誰か之を作らざる」「聖人御在世に仏像を安置せざることは未だ居処定まらざる故なり」と法主登座後に書いておきながら、死ぬまでそれを訂正する言葉を残さなかった十七世・日精。「妙とは八紘一宇を言ひ法とは天壌無窮の根源を意味するなり」[60]などと、日本による世界統一を熱願する中で述べていた六十二世・日恭。こうした法主らの言動が、どうして「嫡々付法」の姿と言えようか。

そして、あの堀日亨をして「釈迦仏の又蓮祖大聖の総てを此中に納めたり」」(要3-3)と感嘆せしめた六巻抄の中に、全くみられない法主信仰の教説の数々――「御法主上人の御内証にのみ、久遠元初の完全なる悟り(境地冥合)≠ェ相伝される」(『血脈公開論批判』一六一頁)「御内証の伝承を抜きにして御本尊の伝承はない」(『法主信仰擁護書』五頁)等々の邪説――を声高に唱える阿部自身が、とても「嫡々付法歴代の諸師」にはみえないのである。

 結論として、この『当家三衣抄』の文についても、信仰の本質面から肯定すべきである。しかし、「信仰の筋目の上から、御歴代上人を僧宝と仰ぐべきことを御指南されている」といった阿部の解釈は、すべての法主が「嫡々付法」ではないという意味で、明確に間違っている。考えてもみよ。「八紘一宇」の世界征服を唱えた日本の軍部政府に諂うあまり、「妙とは八紘一宇」と叫んだ日恭の態度のどこが「嫡々付法」の僧宝の姿なのか。阿部に聞く。貴君は、「妙とは八紘一宇」という日恭の説を僧宝の言と仰ぐか。この質問に対してのみ明確に返答せよ。

 以上、私は、阿部からの高圧的な詰問に対しても、すべて誠実かつ真剣に答えた。今度は阿部の番である。本稿の中で私が提起した質問のすべてに、誠実に答えてもらおう。注の十一に記した、相承箱の公開に関する質問にも、必ず回答を示してほしい。まさか、人には「明確に返答せよ」と迫っておいて、自分の番になると逃げるような真似はしないものと信ずる。阿部のモットーは、「正直たれ」であったと思う。正直な気持ちで書かれた阿部からの返答を、私は心から期待して待っている。

最後に、本稿の執筆作業の全体を通じ、私が改めて実感させられたことを述べて筆を置くことにする。その実感とは、阿部の法主信仰における〈日本的なる思考様式〉の根深さである。有史以来、およそ日本人の思考様式には、現世を超越した普遍者の自覚が欠如していたと言われる。日本政治思想史の丸山真男によれば、日本人の思考様式の「原型」は神話や古代説話に現れており、呪術的段階における災厄観と罪観念から「集団的功利主義」「活動・作用の神化」といった行動の価値基準が生れ、活動そのものに重点を置く「生成のオプティミズム」の世界像が形成される。この原型の価値意識と世界像が、歴史観に展開されると「自然的時間の経過そのものが歴史である」とする「成り行き主義」に彩られ、また社会行動においては「その時々の状況適合性」が原理的特徴となると言う[61]

 ここで、丸山が指摘している「成り行き主義」「その時々の状況適合性」は、まさに阿部の法主信仰を貫く思考様式であると言えないだろうか。彼らの法主信仰には、何があっても不変不動たるべき普遍的な原理原則が存在しない。そこにあるのは「自然的時間の経過」としての現実そのものが仏意である≠ニする状況主義的な思考である。超越的普遍者である本仏・日蓮の教えにどこまでも忠誠を尽くすのではなく、むしろ「自然的時間の経過」として存在する現法主の指南にこそ従うべし、というのが法主信仰の論理である。

そう言うと、現法主は本仏と一体の身であるから、法主への随順は即本仏への随順ではないか≠ニ、法主信仰の論者は反発するだろう。しかし実際には、日蓮の教えに違背する法主の指南も多々あった。その場合、時の法主に従うならば、紛れもなく宗祖違背の法主信仰に陥る。一例を挙げよう。六十二世の鈴木日恭は太平洋戦争の開戦直後、「それ神武聖帝は、八紘一宇の顕現を勅宣し玉ひ。吾祖大聖人は『世界とは日本国なり』と宣言し。立正安国の大正義を説き給ふ正に是れ吾が宗門の一大誓願にして、僧俗の本分此処に存す」[62]と叫んだ。この鈴木日恭の日蓮解釈は、田中智学の「国体論的日蓮主義」を彷彿とさせるとともに、当時の軍部政府が鼓吹した「日本が他民族、他国家を征服し支配する聖なる使命を持っている」[63]とする侵略戦争のイデオロギーを積極的に共有している。そして先に一部を紹介したが、日恭は「妙法」「出世の本懐」の意義について「妙とは八紘一宇を言ひ法とは天壌無窮の根源を意味するなり即ち八紘一宇の使命遂行に対して、一死報国の誠を捧げ『世界とは日本国なり』の実顕こそ宗祖出世の御本懐である」とも説き示し、宗内に聖戦完遂の檄を飛ばしている[64]。宗祖・日蓮の遺文のどこに、そのような指南があると言うのか。かくも超国家主義の時勢に迎合し、日蓮の教義を曲げた当時の鈴木日恭が[65]、日蓮以来の血脈を相承した法主を標榜するとは、まさに「死人に口なし」である。

 こうした歴史的現実を直視すれば、やはり阿部の法主信仰の裏面には、日蓮の教義に背いてでも現法主の指示に追従していく、という暗黙の思考様式が隠蔽されていることがわかる。それこそが丸山の言う日本人に顕著な思考様式、すなわち「原型」的思考なのである。ある意味で、阿部の思考は、普遍者の自覚を妨げるものとして歴史的に機能してきた天皇制的精神構造とよく似通っている。

阿部らは、本仏・日蓮の教義に基づいて現実を裁断しようとせず、〈現実こそ仏意〉とみる立場から現法主への服従をひたすら求める。そこには、現世を超越した普遍者の自覚が決定的に欠落している。いかに不徳の者であろうと、〈現に法主の地位にいる〉という現実だけで、宗門僧俗からは是認を受けられる。法主に対する宗門人の服従は、宗内の現実的大勢に追随する思考の産物に他ならず、およそ純粋な忠誠心の発露であるとは考えにくい。今回の『阿部側回答書』にみられる「そもそも血脈相承をお受け遊ばされた御当人であられる日顕上人が、日達上人より血脈をお受けした、と仰せられており、そのことは御登座以来の御法主のお立場におけるあらゆる宗門教導のお姿が証明しているのである」(三四頁)との一文などは、「原型」的思考の典型と言うべきであろう。法主として現実に宗門を教導してきたのだから、日顕は法主であるに違いない≠ニいう、この理屈を、「自然的時間の経過」に従う「成り行き主義」と呼ばずして何と言うのか。阿部らの法主信仰は、低次元な循環論法のみならず、成り行き主義的な日本土着の思考様式によっても頑固なまでに支えられているのである

 



 

*『日蓮大聖人御書全集』(創価学会、一九五二年)、『昭和定本日蓮聖人遺文』(身延山久遠寺、一九五二〜一九五九年[二〇〇〇年改訂増補版を使用])、『富士宗学要集』(全一〇巻、創価学会、一九七四年〜一九七九年[初版一九五五〜一九五八年])、『日寛上人文段集』(聖教新聞社、一九八〇年)、『研究教学書』(全三〇巻、富士学林、一九七〇年)、『日蓮正宗 歴代法主全書』(全七冊、大石寺、一九七二年〜一九八八年)からの引用・参照箇所は、それぞれ「全集」「定本」「要」「文段集」「研教」「歴全」の字とともに文中に巻数・頁数をアラビア数字で示し、丸括弧で括った。

 

[1] 本稿では、阿部日顕氏のことを「日顕」でなく「阿部」と略称する。その理由は、阿部が真に大石寺の血脈相承を受けた六十七世法主であるとは断定できないこと、「日顕」という名が自称にすぎず師僧から授与された本来の日号(日慈)ではないこと、生活状況からみて明らかに在家であること、教義信条の上から〈大石寺門流の僧〉であるとは認定しがたいこと(本稿の第十項目の議論を参照)、等々である。

[2] 日蓮正宗宗務院「《創価学会機関誌『大白蓮華』掲載 松岡雄茂の「法主信仰の打破」なる邪論を破す》送付の件」(院第四〇三四号)。

[3] 『広辞苑(第五版)』岩波書店、一九九八年、一二九一頁。

[4] 『文底秘沈抄』の「今に至るまで四百余年の間一器の水を一器に移すが如し清浄の法水断絶せしむることなし」(要3-94)との記述については、結果的に「四百余年」の歳月を越えて「清浄の法水」が伝わったものの、個々の法主をみると、日精のごとく「清浄の法水」の伝持に関して有謬の者もいた、という意味に受け取っておくべきだろう。

[5] 日蓮の『真言見聞』については、文献学的な問題がある。じつは『真言見聞』は、日蓮門下の六老僧の一人である日向が記した『金綱集』を底本とするとの説がある。宮崎英修によると、それは『金綱集』の「真言見聞集」の冒頭より始まる見聞集の文を殆んどそのままに抽出したものであるという(立正大学日蓮教学研究所編『日蓮聖人遺文辞典』身延山久遠寺、一九八五年、五八三頁)。日向の『金綱集』を抽出して日蓮の「御書」になぞらえたのが『真言見聞』であるとすれば、本稿で取り上げた「謗法とは謗仏・謗僧なり三宝一体なる故なり」(全集142・定本649〜650)との文についても、そこに日向の主観的解釈が混入している可能性は否定できない。したがって、『真言見聞』の引用に際しては注意が必要となる。

[6] 阿部日顕『創価学会の偽造本尊義を破す』日蓮正宗宗務院、一九九七年、六一頁。

[7] 同前、六二頁。

[8] 阿部らが五十六世・日応の「此の金口の血脈こそ宗祖の法魂を写し本尊の極意を伝るものなり之を真の唯授一人と云ふ」(大石日応『弁惑観心抄』大日蓮編集室、一九七一年[初版は一八九四年]、二一九〜二二〇頁)との文を引用しつつ、法主が本尊に「法魂を写す」ことと、法主が「法魂を所持」することとを同一視するのは、論のすり替えに他ならず、厳密には循環論法とすら言えない。この点は、本稿の七一頁で詳しく論じている。

[9] 『広辞苑(第五版)』一〇七四頁。

[10]文は七箇の本尊口決の後加分に属し、その成立経緯が明らかではない。現時点では、日興記のものとしても真偽未決とするほかないだろう。富士宗学研究者であった松本佐一郎は、この「日蓮在御判と嫡々代々と書くべし」云々の条目について「『嫡々代々と書』といふのは代数標示と結びつけるのは無理だし、興師の妙曼で要集別巻巻頭に写真の出ているものには皆代数が書きこんでいないから、これは後世に(何時からかはまだ史料を得ぬが)起ったこと」「(『御本尊七箇相承』の)後分は一々各別に検討せねばならない」(松本佐一郎『富士門徒の沿革と教義』大成出版社、一九六八年、一七二、一七四頁)等々と所見を述べている。

[11] 日蓮も、いわゆる「佐渡流罪」の前には、真言宗を邪法として明確に指弾することがなかった。こうしたことを考慮すると、宗門と離別する前の創価学会が阿部らの法主信仰を黙認していたからと言って、それを即、日蓮の精神からの背反とみなすことは早計である。

[12] 『法主信仰擁護書』の中で、阿部は「邪義破折班」に「ただ一つだけ教えておこう。御相承箱は厳然と大石寺に存するとの(阿部日顕の)御指南があったことを」(五五頁)と言わせている。例によって低次元な循環論法に基づく主張であるが、相承箱の存在を証明することは至って簡単である。というのは、宗門史に照らし、相承箱の中身ではなく外見だけを人目にさらす分には何の問題もないからである。

六十五世・日淳から六十六世・日達への血脈相承の儀式が執り行われた際、日淳の命を受けた六名の一般僧侶は相承箱を守護し、車で東京都大田区の日淳の自宅まで送り届けている。『大日蓮』第一六六号(昭和三四年一二月、七五頁)には、その様子が次のように記されている。「十一月十五日午後六時十二分 日淳上人の命により、御相承箱を守護して左記の六名大講堂横より出発。八木理事補、寂日坊、理境坊、蓮東坊能勢(順)義寛房 先頭車(八木師御相承奉持、理境坊、蓮東坊能勢) 後車(寂日坊、義寛坊)」。この記録をみるかぎり、当時、能化でもなかった八木理事補(八木直道)が「御相承箱」を直接手にとって抱きかかえ、現在の宗務総監の早瀬日如(当時は早瀬義寛)も、少なくとも相承箱の外見を見たことになる。

かように、相承箱を外から一般僧侶が見たり触れたりすることは許されているのだから、阿部も「御相承箱は厳然と大石寺に存する」などと何の根拠もなく「御指南」するだけでなく、「御相承箱」の外見を何らかの形で宗門僧侶に示せばよいのである。相承箱の写真を撮り、公開するだけでもよい。なぜ阿部には、それができないのか。非常に疑問であり、阿部本人に事情説明を求めたい。

[13] 松本佐一郎『富士門徒の沿革と教義』大成出版社、一九六八年、九五頁。

[14]弁惑観心抄二一二頁。

[15] 渡辺慈済『日蓮正宗落日の真因=x(第三文明社、二〇〇〇年、二四七頁)を参照。

[16] 阿部が生前の日達に批判的であったことを示す資料として、いわゆる「河辺メモ」が挙げられる。これは、宗門の河辺慈篤という僧形者が記したメモのことであり、その昭和五十三年二月七日のメモには、阿部が河辺に対し「Gは話にならない。人材登用、秩序回復等全て今後の宗門の事ではGでは不可能だ」と語ったことが記されている。この頃、阿部は日蓮正宗の教学部長の職にあり、当時の宗門法主は日達であった。宗内の僧形者の間では、法主のことをしばしば「猊下(げいか)」と呼んでいる。したがって、先の河辺メモの中で、阿部が「Gは話にならない」等々と憤慨している相手の「G」とは、当時の「猊下=GEIKA」である日達を指す略式の暗号に他ならない。

このメモの存在が初めて明るみに出た平成十一年七月七日の三日後、河辺は「宗務院通達」を通じてメモが河辺自身の主観であり記録ミスであることを表明し、宗内一般に謝罪を行った。ところが後に、この河辺の謝罪は本心ではなく、阿部の意を受けた日蓮正宗の幹部らとの密談の結果であったことが判明した。メモ発覚の騒ぎが始まるや否や、河辺は、藤本日潤(宗務院総監)、早瀬義寛(宗務院庶務部長)、阿部信彰(宗務院庶務部・副部長)の三名と九州の某ホテルで話し合いの場を持った。そして、その結果を踏まえ、河辺は新たな自筆メモを流通させた。そこには「メモの件 1、当局の云う通りやるか 2、還俗を決意して思い通りでるか 3、相談の結論とするか 7/9 自坊tel 宗務院より『河辺の勘違』とのFAX(宗内一般)」と記されている(憂宗護法同盟『続 法主詐称』エバラオフィス、二〇〇四年、一一〇〜一一一頁)。河辺は日蓮正宗の宗務当局と一種の裏取引を行い、「宗務院より『河辺の勘違』とのFAX(宗内一般)」を宗内に流す、ということで「相談の結論」に達したのだろう。それからしばらく経ち、騒ぎを起こした河辺は、処分を受けるどころか、北海道にある寒冷地の寺院から東京都新宿区内の大寺院の住職へと異例の栄転を果たした。裏取引は、ここに完了したわけである。

かくのごとき裏事情が発覚した以上、河辺メモに記された「Gは話にならない」という阿部の日達批判に関しては、少なくとも河辺自身が事実≠ニ認識し続けていたことが確実である。また阿部が慌てて事態収拾の工作に走ったということも、河辺メモの真実性を逆に強調する結果を招いている。

なお、この河辺メモの中で最も問題になった阿部の発言は、「戒壇の御本尊のは偽物である。種々方法の筆跡鑑定の結果解った。(字画判定)」云々という部分である。河辺のメモによると、教学部長だった頃の阿部は、大石寺の戒壇本尊を筆跡鑑定したあげく「偽物である」と断ずるに至ったという。こうなると、阿部は内心では大石寺正統の戒壇本尊中心主義を根底から否定している、と考える必要も出てくる。「戒壇の御本尊のは偽物である」という認識を、彼が法主となってからも心に隠し持っているとすれば、阿部日顕の教学とは一体何なのか、という疑問がわいてくる。それは、一人の権力志向の無神論者(無仏論者)による、大石寺教学の政治的操作の産物なのだろうか。この問題は極めて重大である。筆者としても、いずれ稿を改め、詳しく考察する予定である。

[17] 前掲書『弁惑観心抄』二一二〜二一三頁。

[18] 『弁惑観心抄』二一九頁。

[19] 『日蓮正宗 富士年表』(富士学林、一九九〇年[増訂発行]、二七九〜二八〇頁)を参照。

[20] 『広辞苑(第五版)』一九六四頁。

[21] 堀慈琳『日蓮正宗綱要』雪山書房、一九二二年、六七〜六八頁。

[22] 『広辞苑(第五版)』二四七二頁。

[23] 『広辞苑(第五版)』一六〇一頁。

[24] 『弁惑観心抄』 二一二頁

[25] 『広辞苑(第五版)』一七七七頁。

[26] 同前、一九六八頁。

[27] ここで取り上げた日応の文については、日蓮正宗の高橋粛道も筆者と同様な解釈をとっている。『弁惑観心抄』の「此法体相承を受くるに付き尚唯授一人金口嫡々相承なるものあり」との日応の文を、高橋は「法体の相承を受けるにはその前提として唯授一人金口の相承があり、この相承を受けなければ本尊書写はできない、との意である」と解説している(高橋粛道『日蓮正宗史の研究』妙道寺事務所、二〇〇二年、四三五頁)。

[28] この点に関しても、詳しくは、前掲の拙稿「大石寺門流の本尊書写権に関する史的考察」における「7 法体相承について」の項を参照されたい。

[29]『弁惑観心抄』二一九〜二二〇頁。

[30]『弁惑観心抄』二二〇頁。

[31] 法体と化儀の違いの一面を述べれば、法体は不変、化儀は可変である。本尊書写の化儀が可変であることは、未来本尊、導師本尊、賞与本尊、東北地方にみられる曼荼羅本尊の石碑、写真印刷の形木本尊、「特別御形木御本尊」等々の変遷を見れば一目瞭然である。そう考えると、本尊書写の化儀における「代々の聖人悉く日蓮なり」との意義は、法主直筆の常住本尊を法主が主体となって授与した時代に定められたといえ、創価学会による形木本尊授与が主流となった現代では、「法主即日蓮」の化儀に加え、和合僧団たる創価学会を「日蓮なり」と拝すべき化儀も成立するのかもしれない。しかし、これはどこまでも化儀上の話であって、化儀と法体を混同した議論を行うと、教義的混乱を招く危険が生ずる。

[32] このような阿部の法魂観をみるかぎり、法魂は事の一念三千の法体ではなさそうである。事の一念三千の法体は、無始無終で宇宙法界に遍満し、時空を超えたものである。ゆえに、阿部の言うごとく、具わったり帰還したりするような、時間的で空間限定的なものではない。

[33] 「法魂」は日応の造語と考えられるが、彼は、それについての明確な定義を残していない。しかし、『弁惑観心抄』には「其の墨質を尊んで本尊となすにあらず其の字體を崇めて本尊となすにあらず尊む所は只だ其の正意のみ崇むる所は只だ其真理のみ」(二〇二頁)との記述がある。ここから察すると、日応自身は、曼荼羅本尊に顕示された本仏の「正意」即宇宙法界の「真理」を「法魂」と考えていたのではなかろうか。

その場合、法主の本尊書写は、本仏の「正意」や宇宙の「真理」を文字化する、という意義を持つことになる。掘慈琳(後の堀日亨)は「法の本尊と云ふのは誰の智慧ででも稍考が付く真如とか真理とかの、一層精選された事の一念三千の不思議の境界で、此が妙法の漫荼羅である。其姿を文字に顕はしてある」と述べている(掘慈琳『日蓮正宗綱要』雪山書房、一九二二年、一二八〜一二九頁)。この堀の法本尊観に基づくならば、法主の本尊書写は、自らが悟った真理を本尊に顕示するような営みではなく、むしろ真理の精選である「不思議の境界」を忠実に文字化する≠ニいう意義を持つように思われる。だからこそ、それは「図顕」でなく「書写」と呼ばれるのだろう。この問題については今後、更に検討していきたい。

[34] 堀日亨『日寛上人全伝』杉田屋出版部、一九三〇年、一二頁。

[35] 『日淳上人全集』日蓮正宗仏書刊行会、一九六〇年、九七三〜九七四頁。

[36] 阿部日顕『創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す』日蓮正宗宗務院、一九九七年、二〇四〜二〇五頁

[37] 阿部に送付した質問状の中では、この日亨の天註における「精美」を「精義」と記したが、単純なワープロの打ちミスなので訂正する。なお、阿部は「『精美ならず』すなわち完全ではないという意」(『阿部側回答書』四八頁)などと述べているが、「精美」に「完全」の意味はなく、自分たちに都合のよい解釈をしていると言うしかない。

[38] 『法華玄義』巻一(大正三三・六八四中)。『国訳一切経 和漢選述部』経疏部一、大東出版社、一九九〇年(改訂四刷)、八〜九頁。

[39] 『法華玄義釈籖』巻二(大正三三・八二六下)。なお、阿部が「通じて三徳に摂す」と訓読した所については、意味の誤解を招きかねないので、筆者が「通じて三徳を摂す」に改めた。

[40] 堀日亨『富士日興上人詳伝』創価学会、一九六四年(第二刷)、四五〇頁。

[41] 同前、四八〇頁。

[42] 私がこう述べるのは、次の日亨の所見と同じ意からである。「だいたい、古文書が読めぬのに加えて、要山日辰流の造仏の偏の邪思想が深入しておるより生じた誤謬である。これらを取り払えば、師の功は大いに記するに足るものがある」(前掲書『富士日興上人詳伝』四五〇頁)。

[43] 日亨は『富士日興上人詳伝』の中でも、問題の「十二箇条の法門」等に言及した『家中抄』の箇所を指して「この下の道師伝には、なお幾多の誤謬がある」(同書四八二頁)と記している。

[44] 『広辞苑(第五版)』二三一〇頁。

[45] 前掲書『富士日興上人詳伝』四八一〜四八二頁。なお、本稿を最初に製本出版した折には、当該引用文中の「本伝(『家中抄』あるいはその「日道伝」のこと=筆者注)」との箇所を「本伝(『家中抄』の「日道伝」のこと=筆者注)」と記していた。これは、文書法論の往復の最中で、執筆を急ぐうちに起きた作業上のミスである。

[46]『法華玄義』巻一(大正三三・六八四中)。『国訳一切経 和漢選述部』経疏部一、八〜九頁。

[47] 菅野博史『法華玄義 上』レグルス文庫、一九九五年、八一頁。

[48] 阿部日顕説法(開宣大法要)『大白法』五九五号、平成一四年四月一六日付二面。

[49] 『広辞苑(第五版)』一五五五頁。

[50] 日寛の真筆を確認すると、「之」ではなく「此」の字が用いられている(歴全7-116)。

[51] 『波木井殿御書』には『本満寺本』の写本があるが、日蓮の真蹟はない。古来、この書については真偽の両説があり、幾多の議論がなされている(前掲書『日蓮聖人遺文辞典』九〇七頁を参照)。現在では、偽書説がかなり有力である。

[52] 中村元編『仏教語大辞典』東京書籍、一九八一年、六七一頁。

[53] 同前、

[54] 同前、八七三頁。

[55] 前掲書『富士日興上人詳伝』七〇三頁。

[56] パイプカット手術とは、両側精管を結紮(けつさつ)して切除するものであり、男性避妊法の一種である。

[57] 憂宗護法同盟『法主の大醜聞』イースト・プレス、一九九四年、一一〇頁。

[58] 日蓮は、阿部のように、図式主義的かつ地域限定的な〈地域の謗法→地域の災害〉論を説いていない。阿部の災害論は、一見、日蓮の教義に事寄せているが、そのじつ日本人の習俗的な「たたり信仰」に訴えかけているように思われる。

[59] 阿部日顕「第五十四回全国教師講習会の砌」(『大日蓮』第七一六号、平成一七年一〇月、四九〜五〇頁)。

[60] 鈴木日恭「新春の慶びを述る言葉」(『大日蓮』第二七巻第一号、昭和一七年一月、三二頁)。

[61] 『丸山真男講義録[第四冊] 日本政治思想史 1964』(東京大学出版会、一九九八年)の第一章「思考様式の原型」(四一〜八一頁)を参照。

[62] 鈴木日恭前掲論文、三一頁。

[63] 村上重良『国家神道』岩波書店、一九七〇年、二〇七頁。

[64] 鈴木日恭前掲論文、三二頁。

[65] このような日恭の言説自体も、日本人の「原型」的思考の制約を受けていると言える。日蓮の立正安国は、仏法を普遍的基準として現世を裁くところにその本質的意義があり、日蓮が社会的・政治的状況に合わせて、自らの教義信条を曲げたり変更したりするようなことはなかった。丸山真男も、日蓮の思想の中に、「原型」的思考の制約を突破した宗教改革者の姿をみている(前掲書『丸山真男講義録[第四冊]』の第五章「鎌倉仏教における宗教行動の改革」[二二九〜三一四頁]を参照)。