阿部日顕の教学に対する十の学術的批判
はじめに――論争の経過
昨年末、私は『東洋哲学研究所紀要』第二〇号に「現代の大石寺門流における唯授一人相承の信仰上の意義」と題する論文を発表した。同紀要は正式な学術雑誌として、毎年、全国の主要な大学図書館、研究所等に広く送付されている。が、大石寺門流史に即して「血脈公開論」を唱えた拙論については、ぜひ現在の門流(日蓮正宗)の人々にも読んでいただき、宗門改革の一助にしてもらいたいと考えた。そこで、彼ら向けに小冊子を作成し、現法主の阿部日顕をはじめ、同宗門の全住職に送付したのである。この送付の目的は宗門改革なので、当方の肩書や名前は「青年僧侶改革同盟 松岡雄茂」とした。
しかるに小冊子の送付から約五ヵ月が経った頃、「日蓮正宗宗務院監修」と銘打たれ、「日蓮正宗青年僧侶邪義破折班」(平成十七年六月七日発行、以下、「邪義破折班」と略す)が著したという「離脱僧松岡雄茂の本宗の唯授一人血脈相承に対する邪誑の難を粉砕す」(以下、『血脈公開論批判』と略す)なる書が私の元に届いた。内容を読むと、私の提言に真摯に対応することなく、論旨不明の非難中傷に終始している。私としては、別に日蓮正宗に論争を仕掛けたわけでもなく、それに返答する義務は全く感じなかった。しかしながら日蓮正宗側は、私からの論文送付を教義論争の宣戦布告と捉えたようである。
七月末に大阪府羽曳野市にある四天王寺国際仏教大学で開催された「日本印度学仏教学会」の第五十六回学術大会において、私は「大石寺日寛の教学にみる相承法門の開示」というテーマで研究発表を行った。この時、例年になく、多くの日蓮正宗の僧形者たちが会場に姿をみせた。とくに、日蓮正宗宗務院の教学部書記である竹内雄慧らが私の発表の直前に入場し、テープで私の発言内容を録音しながら聴講し、私の発表が終わるや、そそくさと会場を後にしたのは印象的だった。また、質疑応答の際には、日蓮正宗・平安寺の副住職である岡崎法顕が「富士学林の岡崎です」と名のって私に質問をしてきた。彼が印仏学会の正会員なのかどうかは知らないが、日蓮正宗内の僧形者のみを対象として公的認可も受けずに設置されている「富士学林」など、とても正式な学術研究機関とは思えない。岡崎は、宗門の内と外の区別ができていないように感じた。当の質問内容も相承法門のすべてが公開されたというのは言いすぎではないか≠ニいった趣旨であり、相承法門の核心の理論的開示を日寛が宣言している≠ニいう私の主張を全く理解していなかった。時間がなかったこともあるが、当方が得るものは何もなく、まことに残念であった。
ところで、先の『血脈公開論批判』は常軌を逸した法主信仰に貫かれ、目に余る文献学的、論理的な誤謬をともなっている。かくも宗義逸脱的で非学問的な書を「日蓮正宗宗務院監修」の名で平然と発行せしめる、現法主の教学観は一体どうなっているのか――。私の胸には、そんな疑問が芽生えてきた。そこで私は、現法主の阿部[1]に対して質問状を作成・発送し、丁重に返答をお願いした。後になって、「邪義破折班」がそれを期限を切った、脅迫めいたお願いだ≠ネどと非難しているが、私は添付の案内状の中で「勝手なお願いで甚だ恐縮ですが、できれば8月末日までにご回答を頂きたく、重ねてお願い申し上げます」と丁重に依頼し、返信用の封筒まで同封したのである。しかも、期日までに回答できない場合は「ご回答頂ける旨」の意思表示だけでもよい、と書き添えた。ここまで配慮を重ねて丁重にお願いをしたうえで、回答の意思表示さえなかった場合、回答不能か、敵対意識による無視か、のいずれかである。けれども、誰かに敵対意識を持っているときには、郵便物の受取りを拒否するなど、何らかの非難の意思を相手に伝えてくるのが阿部らの常である。それもないとすれば、当方としては「回答不能の意思表示」と解するしかない。なお、同質問書は、阿部以外の数人の宗門高僧にも送付されたが、それは法主の阿部の元に確実に届くよう、諸方面にあたる必要を感じたからである。この質問状は、あくまで私と阿部の間の問題であり、公開の意図など私には全くなかった。だからこそ、阿部以外の発送先はわずか数人の阿部側近や高僧に限定し、例えば「法道院 早瀬日如さんへ 同封した書類一式を、阿部日顕さんに送付いたしましたので、お伝えする次第です。あなたの方からも、研究調査への協力を呼びかけて下されば、当方としても嬉しく思います」などと記した一文を添えたのである。
ところが八月の下旬頃、宗門の教師講習会において阿部本人が私の質問書の件について切り出し、質問に対する回答書を私個人だけでなく、宗内に広く配布する旨を話した、との情報が私の方に入ってきた。そして実際に、「日蓮正宗宗務院監修 松岡幹夫の傲慢不遜なる十項目の愚問を弁駁す」(平成十七年八月二十四日発行、以下『阿部側回答書』と略す)と題した「邪義破折班」著の小冊子が、私や青年僧侶改革同盟の諸氏に郵送されてきた。この阿部の所業は、学問的良心の上から信義と礼を尽くした私に対する、大変に非礼な行為と言わねばならない。返答書が阿部本人の執筆ではなかったこと、内容が私への罵詈讒謗に終始していること、私の許可もなく私の質問状の内容やそれへの返答を宗の内外に広く配布したこと――どれもこれも、社会常識を甚だしく逸脱している。阿部とはまともな学問的議論など到底できない、と痛感させられた出来事であった。
しかしながら、「邪義破折班」による今回の『阿部側回答書』が、齢八十を超えて法主職を務める阿部の意を受けて代筆されたことは明らかであり、その内容が現宗門の公式見解であることも「日蓮正宗宗務院監修」という表記によって確認できる。ゆえに、今回の『阿部側回答書』は、阿部自身の教学観を日蓮正宗として公式に表明した文書である、と認識しておく。そして阿部が、私の許可を得ず、私と阿部との質疑応答のやり取りを勝手に印刷して小冊子を作り、宗門の全教師に配布したことに対しては、阿部本人が私に対して公式に論争を挑んできた、とみなすことにする。
ただ、阿部日顕は大学院等で正式に訓練を受けた研究者ではなく、私のことを「汝」と呼び捨てにするなど、その言説は恫喝的かつ感情的である。頑迷固陋の老僧形者と議論したところで学問的進展につながるのか、という躊躇は今でも私の側にある。とはいえ、阿部は日蓮正宗の現法主とされている。阿部の教学の特質を解明すること自体、大石寺門流の宗学研究に資するところがあるかもしれない。結局はそう考え、阿部からの挑戦を受けて立ち、本稿の執筆を決意した次第である。
以上の事情に基づき、本稿においては、先に私が阿部に出した質問状の内容に即して全体の構成を組み立てている。すなわち、松岡(私)から阿部への十項目の質問事項によって十の項目を立て、それぞれの項目の中で「松岡から阿部への質問」「阿部側の回答要旨」「松岡の再批判」の順に論述を進めていく。本稿中に掲げる質問状の内容は、実際に阿部に送付した原文に文末脚注を付し、敬称を略し、誤植等を正すなどして、他の部分の記述と整合性を持たせている。質問の内容自体に変化はないので、その点ご了承されたい。また、引用文献の内容に一貫性を持たせるために、阿部側の文書中の引用に関しても、筆者が選んだ引用書の表記と頁数に改めさせていただいた。例えば、十七世・日精の『家中抄』に関して、私は『富士宗学要集』から、阿部側は『日蓮正宗聖典』から、それぞれ引用している。こうした場合、本稿では、阿部側の引用文を『富士宗学要集』の該当箇所の表記に改めている。
折しも本稿の執筆中、阿部がまたしても私を批判する小冊子を作り、当方に送付してきた。日蓮正宗宗務院は「全国教師各位」に達示を出し、その中で「本書を精読せられ、創価学会破折、法華講員の指導に充分に活用して下さい」と記すなど、この小冊子の普及徹底をはかっている[2]。小冊子の題名は「創価学会機関誌『大白蓮華』掲載 松岡雄茂の『法主信仰の打破』なる邪論を破す」(平成十七年九月十二日発行、以下『法主信仰擁護書』と略す)という。これは、本年の『大白蓮華』誌の九月号に私が寄稿した「『法主信仰』の打破――日寛上人の言論闘争」という、わずか六頁分の小論に対し、阿部の命を受けた「邪義破折班」が六十九頁に及ぶ小冊子を作って反論してきたものである。
私の『大白蓮華』への寄稿文は、一種の教学随想である。にもかかわらず、阿部は、先に私が出した学術論文や学術的質問状と同じ感覚で私の教学随想を捉え、「汝(松岡)は、御法主上人猊下(阿部日顕)に対して、研究調査に対する協力のお願い≠ニして八月末日までの回答をお願い≠オておきながら、その期限を待たずに八月下旬に発刊した『大白蓮華』に反論を発表した」(二頁)と筋違いの非難をしている。私が『大白蓮華』に寄稿した教学随想は、信仰者の立場からの論であり、学術研究者として阿部に出した質問状や論文とは次元が異なる。例えば、一国の首相が私人と公人の立場を使い分けるようなものである。この教学随想の文体をみれば、それが研究調査に対する協力のお願い≠ニは別の立場で書かれた文書であることぐらい、誰の目にも明らかであろう。学術論文とエッセイとの違いが、阿部には全くわかっていない。
本稿では一応、この『法主信仰擁護書』も、阿部本人の教学的見解を代弁した書として取り扱う。必要に応じて、いくつかの問題箇所を取り上げることにする。ともかく、阿部には一つ注文をつけておきたい。もし、これから私が述べていく主張に何か異議があるならば、本稿が学術論文であることを忘れないで反論してもらいたい。研究者が行う議論は、宗派内の神学論争とは違い、公共性を有している。品性が疑われるような下劣な誹謗中傷の言は厳に慎み、最低限の学問的ルールは守り、信仰と論理・感情と事実をきちんと立て分け、理性的、常識的に意見を開陳してもらいたい。議論の開始にあたり、このことを阿部に強く念告する。
1 循環論法の誤謬について
(松岡から阿部への質問)
現日蓮正宗の主張は、学問的にみると循環論法に陥っているのではないでしょうか。循環論法とは、論点が先取りされ、「前提の真理と結論の真理とが相互に依存し合うような堂々めぐりの虚偽の論証」[3]のことです。例えば、あなた方は常に、歴代法主の専権的な立場を歴代法主の文言によって正当化しようとします。単純な循環論法であり、検証も反証も不可能な、自己閉塞している議論と言わねばなりません。こうした論法は、宗教に非論理性がつきものだとしても余りに閉鎖的であり、合理性を尊ぶ近代社会の人々からは、カルト集団のマインドコントロールと同様に見られてしまいます。何よりも、経論による「文証」を不可欠のものとし、重視した宗祖・日蓮の、開かれた精神に背くのではないでしょうか。この点に関する、あなた自身のご意見をお伺いいたします。予め断っておきますが、あなた方は、たしかに法主の権能を宗祖のいくつかの言説によっても根拠づけようとしています。しかし日蓮文献に関する研究上の定説では、それらはすべて後人の偽作か加筆であり、循環論法を脱しているという有力な根拠になりえません。したがって、別の角度からのご回答を期待します。
(阿部側の回答要旨)
現宗門が論証に用いた宗祖の書や相伝書が、なぜ偽作なのか、どの箇所が加筆であり、なぜそれが論証に不適切なのか、ということを、松岡の質問書は論理的に記述していない。相伝については『日蓮一期弘法付嘱書』と『身延山付嘱書』はその根本であり、これより血脈相承のすべてが伝承されている以上、循環論法(論証)などの言い掛かりこそ詭弁である。
(松岡の再批判)
私が平成十七年七月三十日付で出した阿部宛ての文書は、研究調査の参考とするための私的な質問書であり、引用文献の注記が施された本格的な学術論文ではない。しかも質問相手の阿部は、日蓮学の専門研究者ではなく、いわば宗派的な護教家である。そのような人物と、日蓮文書や相伝書の真偽などについて、いくら論争しても無益であろう。もし阿部が、日蓮に関する諸文書の真偽を私と学術的に論争したいのなら、自宗のドグマをいったん取り下げ、「論理」の世界で自らの正当性を堂々と主張することである。それでこそ、日蓮の公場対決の精神にも通ずると言えよう。
しかるに阿部は、今回の『阿部側回答書』の中でも、相変わらず循環論法を多用している。否、循環論法とすら言えない、初歩的な論理上の誤謬をあちこちで犯している。彼らが、当方の指摘を「言い掛かり」と言うのなら、一度、詳しく説明しておく。
同一の陳述が前提と結論の両方に使われる場合、それは「論点先取り」の虚偽の論証であり、循環論法と呼ばれる。阿部の循環論法とは、通例、次のようなものである。
A 日顕は血脈を受けている。
B 日顕が血脈を受けていることを、どうして知ることができるのか。
A それは、日顕が「血脈を受けた」と言っているからである。
B どうして日顕が言っていることを信用できるのか。
A 日顕は血脈を受けた当事者だからである。
Aの前提と結論とは同一の陳述であり、円環状に連鎖している。ゆえに循環論法と言うのである。具体例も挙げておこう。
日顕上人は血脈御所持の当事者であり、血脈に関する御指南は『説』ではなく、全て『真実』なのである(『阿部側回答書』四五頁)。
ここでも、日顕は血脈所持の当事者である≠ニいう前提と血脈に関する日顕の説は全て真実である≠ニいう結論との間に、密接な関係が見出される。このような場合には、前提に関して、「血脈」なるものが確実に存在すること、それが現時点で「所持」できること、そして「日顕」が血脈所持の「当事者」であること、等々を証明しなければならない。ところが、阿部は常にその証明を避ける。換言すれば、「血脈」「法主」に関して一切の思考を停止する阿部は、それらが問題となるや、前提と結論の連鎖を円環で閉じるしかなくなり、循環論法の誤謬に陥るのである。
それだけではない。たとえ日顕は血脈所持の当事者である≠ニいう前提が証明されても、血脈に関する日顕の説は全て真実である≠ニいう結論は演繹されない。なぜならば、「血脈御所持の当事者」に「真実を述べる」という意味は含まれていないからである。換言すれば、血脈所持の当事者が必ず血脈に関して真実を述べる、とは言えない。ゆえに、この例では前提に対応するいくつかの結論のうちの一つが述べられているにすぎず、その結論は本来、推測された仮説として「〜であろう」といった表現で示されねばならない。推測を演繹と取り違える論理的な誤謬が、ここにはみられる。
「相伝について『日蓮一期弘法付嘱書』と『身延相承書』はその根本であり、これより血脈相承のすべてが伝承されている」(「阿部側回答書」五頁)という記述も、同様な例である。いわゆる「二箇相承」は、日蓮と日興の関係についてのみ記された文書である。したがって、二箇相承が信仰上の「根本」だとしても、歴代法主間の血脈相承とは論理的につながらない。あくまで仮説の域を出ないはずである。「いや、歴代の先師は二箇相承をもって大石寺歴代の血脈相承を正当化してきたから、それが正しい」と強弁するのなら、今度は「権威に訴える論証の誤謬(fallacy of arguing from authority)」に陥る。そもそも、この例では、二箇相承が「根本」であるとはいかなる意味か、が明確ではない。「あいまいの誤謬(fallacy
of ambiguity)」も、そこには存する。
指摘すべき点は他にもある。阿部は、しばしば創価学会における過去の発言を取り上げ、それと私の発言との相違を非難する。私の論の矛盾を指摘したいのならば、私の発言内容を根拠にすべきである。そうではなく、私という「人」を根拠とし、松岡は創価学会側の人間だから、過去の学会指導と違うことを述べるのは自家撞着である≠ネどと言うのは論理的におかしい。そうした論法は、「人に訴える論証の誤謬(fallacy of argumentum ad hominem)」に該当する。感情的な批判にすぎず、論理からの逃避とみるしかない。
このように阿部は、二重、三重の論理的な誤謬を犯しながら、それに全く気づいていないのである。彼らの言説は、規則(rule)を知っている者たちの間だけで通用する、極めて特殊な形態の議論である。それは、一宗派で伝統的に決められた言語の規則である「血脈」「御法魂」「唯授一人」「相承」などの言葉によって構成されている。じつは阿部自身、それらの言葉の意味がわかっていない。なぜならば、それらの言葉に対し、論理的根拠をともなう定義を示していないからである。阿部は、ただ大石寺門流が伝統的に形成してきた言語の規則性に則って「血脈」「法魂」などの言葉を使用しているにすぎない。しかも、自分たちの言語使用の規則を共有しない他者とは、決してコミュニケーションをとろうとしない。かくして、今の日蓮正宗は一般社会から遊離し、現代人にとって意味不明な主張を行う不可解な宗教集団になっている。
断っておくが、私は、信仰よりも論理を優先せよ、などと言っているのではない。日蓮の直系として絶対無二の正義を標榜するのなら、西洋の論理学をも悠然と包み込む高度な教義的説明を行うべきではないか、と訴えているのである。絶対の真理は相対の真理を包む。相対の真理を排斥するのは、自らが相対の次元にいる証左である。ただし、日蓮仏教における絶対の真理はダイナミックな法≠ナあるから、相対の次元に降り立ち、相対の真理を否定しつつ包含していくのである。
日蓮は、「まことの・みちは世間の事法にて候」「世間の法が仏法の全体」(「白米一俵御書」、全集1597・定本1263)と説いている。一切法即仏法の立場をとる日蓮仏教にあっては、ヨーロッパの理性尊重主義もまた仏法である。理性の検証に耐えられない信仰や教義は、真の日蓮仏教とは言えない。閻浮第一の智者を自負した日蓮の気概を継承するならば、現代の日蓮門下は、理性の中に理性を越えるような宗教的直観を鋭く世に提示し、世界一流の知識人たちをも瞠目させるようでなくてはならない。その意味において、「学術」や「学問」の次元に開かれた日蓮思想の現代的展開を心がけている創価学会の言論活動は、素直に評価すべきであろう。他方で、日蓮正宗の現状はどうか。大学院等に進んで学術研究を志す少数の宗門教師たちは何かと冷遇されている、と私は聞く。この一点をみても、阿部の閉鎖的な法主信仰は宗祖の精神からの逸脱である、と考えざるを得ない。
2 内証の次元における因分と果分の立て分けについて
(松岡から阿部への質問)
日寛は、『取要抄文段』の中で「蓮祖の門弟はこれ無作三身なると雖も、仍これ因分にして究竟果分の無作三身には非ず。但これ蓮祖聖人のみ究竟果分の無作三身なり」(文段集571)と述べています。ここで日蓮のみが「究竟果分の無作三身」であるというのは、もちろん内証次元での話であり、日蓮の門弟が「因分にして究竟果分の無作三身には非ず」というのも内証が因分にとどまる意であります。ゆえに日寛は、「蓮祖の門弟」である以上、法主の内証も「因分の無作三身」を超えることはない、とみなしたと思われます。実際、日寛は法主の本尊書写を「受持」の修行中の書写行に分類しています。にもかかわらず、あなた方が「大聖人が究竟果分の無作三身であらせられるならば、それを受けて御本尊を御書写し給う御法主上人の御内証も究竟果分の無作三身にましますのである」(『血脈公開論批判』一六三頁)と言われるのは、かかる日寛の規定を変更したことに他なりません。そこで質問ですが、果分の仏を日蓮一人の内証に限定した日寛の教説を変更し、歴代法主の内証をも果分の仏であるとした、あなた方の主張の根拠は何ですか。先に述べたような循環論法は用いず、できるだけ論理的にご回答願います。
(阿部側の回答要旨)
松岡の説は、日寛の指南を主観的に断定した邪義である。『法華取要抄文段』における日寛の因分・果分の指南は、あくまで下種仏法の教相の上より判じた能化の仏と所化の衆生との対比である。法主の内証には日蓮の法魂がある。日有は『化儀抄』に「師匠有れば師の方は仏界の方、弟子の方は九界」(要1-77)と示している。法主の内証には日蓮の法魂があるのであり、日蓮が究竟果分の無作三身であるならば、日蓮の法魂を具える法主の内証も究竟果分の無作三身である。また、法主の内証は究竟果分の無作三身なのだから、法主の本尊書写には「能化における化他行」という意義が存する。
(松岡の再批判)
まず、私が日寛の『取要抄文段』における「蓮祖の門弟はこれ無作三身なると雖も、仍これ因分にして究竟果分の無作三身には非ず。但これ蓮祖聖人のみ究竟果分の無作三身なり」(文段集571)との文を根拠に、「果分の仏を日蓮一人の内証に限定した」と述べたのは、主観的断定などではなく、誰が見ても文脈に忠実な解釈である。むしろ、究竟果分の無作三身が「蓮租聖人のみ」でない、と反発する阿部の説こそ『取要抄文段』の文脈に背く恣意的解釈であり、そのことは火を見るより明らかである。
また、この『取要抄文段』における日寛の指南が「下種仏法の教相の上より判じた能化の仏と所化の衆生との対比である」とするのも、同文段の文脈に反する意図的な曲解にすぎない。あえて確認しておくが、当該箇所は日寛が「内証の寿量品の意」について述べていく中で出てくるものである。当該箇所の前の部分で、日寛は次のごとく記している。
故に文上の寿量の意は、釈尊久遠本果の三身を如来というなり。若し内証の寿量品の意は、釈尊久遠名字の三身を如来と説くなり。故に文辞は一なりと雖もその義は各別なり。若し深くこの意を得れば、久遠は即ち今に在り。今は即ち久遠なり。故に知んぬ、久遠名字の釈尊は即ちこれ今日の蓮祖聖人なることを。今日の蓮祖聖人は即ちこれ久遠名字の釈尊なり。故に末法今時、内証の寿量品の如来とは、全くこれ蓮祖聖人の御事なり。故に口伝に云く云云。これを秘すべし、これを秘すべし(文段集569)。
「内証の寿量品の如来」とは「釈尊久遠名字の三身」であるが、それは「全くこれ蓮祖聖人の御事」である、と日寛は断じている。そしてこの後に、「問う、台家の口伝に准ずるに、本地無作の三身とは即ちこれ一切衆生なり」(同前)との問いを自ら設けた日寛は、「答う、今この義に於て両重の総別あり。一には総じてこれを論ずれば一切衆生なり。別してこれをいわば蓮祖の末弟なり。二には総じてこれをいわば蓮祖の末弟、別してこれを論ずれば但これ蓮祖大聖人のみ、真実究竟の本地無作の三身なり」(文段集569〜570)と述べ、さらにその意味を説明していく。そうした末に、件の「蓮祖の門弟はこれ無作三身なると雖も、なおこれ因分にして究竟果分の無作三身に非ず。但これ蓮祖聖人のみ究竟果分の無作三身なり」(文段集571)との結論が導き出されるのである。このように、日蓮一人が究竟果分の無作三身である、との日寛の言は、明らかに内証の次元での判定である。
にもかかわらず、阿部がこの日寛の主張を「下種仏法の教相の上より判じた能化の仏と所化の衆生との対比」と言うのは、どういうわけか。文底の義から言えば、釈尊の仏法は教相であり、日蓮の仏法が観心となる。今、我々が問題にしている日寛の主張は寿量文底の内証の意に沿った論であり、明らかに観心の立場の説である。その観心の説を「下種仏法の教相」などと言い張る阿部は、本来は観心・内証そのものである「下種仏法」の説を強引に教相・外用とみなし、自分勝手に新たな観心・内証を立てようとするものである。これを、日寛が定めた下種仏法の綱格からの大なる逸脱と言わずして何と言うのか。道理の上から、やはり現在の日蓮正宗は、日寛文書を信仰の「正依」とする現在の宗規を速やかに変更すべきである。
結局、阿部の新観心論、新内証論を支えている信念は、法主の内証に本仏・日蓮の法魂が具わっている、という合理的根拠なき思い込みに他ならない。彼らは、日寛の『文底秘沈抄』における「今に至るまで四百余年の間一器の水を一器に移すが如し清浄の法水断絶せしむることなし蓮師の心月豈之に移らざらんや是故に御心今富山に住するなり」(要3-94)との文を引用して、「御本仏大聖人よりの金口嫡々の血脈法水は一器より一器へ相伝され、当代の御法主上人の御内証には清浄なる大聖人の御法魂がましまされる」(『阿部側回答書』七〜八頁)と断じている。これまた、文脈無視も甚だしいと言わねばならない。他の項目の所で詳述するが、この日寛の文では、宗祖・日蓮の「御心」が謗法の身延山を去って富士山に移ったことが述べられている。文脈に忠実に解釈すれば、日蓮の「御心」は富士大石寺に住する、というのが日寛の意であり、一器より一器への法主の血脈相承は、日蓮の心が富山に住するための手段的意味を持つにすぎない。したがって、当文をもって法主の内証に日蓮の法魂あり≠ニする阿部の説は、贔屓目にみても合理的根拠を欠く仮説である。つまり、それは前提から推考される多くの結論中の一つであり、しかも前提の文脈から外れた恣意的な仮説とすべきである。そのような信憑性の薄い仮説を根拠に、日寛の立てた下種仏法義に反する新観心論を唱えているのが、今回の『阿部側回答書』なのである。
また『阿部側回答書』は、日有の『化儀抄』から「師匠有れば師の方は仏界の方、弟子の方は九界」(要1-77)という箇所を抜き出して「御法主上人に対する師弟相対の信心」(八頁)を強調し、法主の内証が究竟果分の無作三身であることの傍証としている。しかし、この日有の言説は、『化儀抄』という名の通り「化儀」に関する教示であって、内証の法体に関する指南ではない。大石寺門流の化儀においては、法主が「仏界の方」にいる場合もあれば、反対に「仏界の方」に向かう場合もある。あるいは、末寺住職が「仏界の方」にいることもある。堀日亨は『有師化儀抄註解』の中で、「貫首の座位も御堂は北面にて即ち直に仏界たる本尊壇に向ひ」「本末共に葬礼に於ける導師の引導の時は、其座位必ず本尊壇又は三尊を背にして・仏界の方にありて直に九界の亡者に対向せり」(要1-108)等と述べている。かように化儀は可変的であり、化儀即法体とは言っても、むろん〈化儀=法体〉の意味ではないのである。問題の日有の文は本尊書写に関連した指南であるが、日亨によれば、本尊書写も「宗門第一尊厳の化儀」(要1-112)とされる。
そうである以上、日有が化儀の面から法主を「仏界の方」と説いたからと言って、ただちに法主が仏界の主であるかのごとく論ずるのは、化儀と法体とを混乱した迷論と言わざるをえない。そもそも、「師の方」「仏界の方」というときの「方」とは何か。もし日有が法主を究竟果分の無作三身と考えていたなら、「方」をとって「師は仏界」とだけ記したはずだろう。この「方」という字は、『化儀抄』における仏界・九界の立て分けが、どこまでも化儀上の分別であることを示唆しているように思われる。日有は『化儀抄』の第三十三条で「当宗の本尊の事、日蓮聖人に限り奉るべし」(要1-65)と述べているが、そこにみられる「日蓮聖人に限り奉る可し」との日有の信念は、まさに「但これ蓮祖聖人のみ究竟果分の無作三身なり」との日寛の教説と符合する。日有や日寛の言説には、阿部のごとき法主信仰はみられない。
その他、阿部は法主の本尊書写を「能化における化他行」と言うが、この主張も、法主の内証は究竟果分の無作三身である≠ニいう彼らの思い込みの産物であって文献的証拠は何一つ示されていない。日寛の『観心本尊抄文段』では「受持が家」の「書写」として「本尊書写」を位置づけており、文脈上は、それ以外に解釈の余地がない。日寛は、「受持」という因行の一つとして法主の本尊書写を理解していたのである。
阿部のごとく、本仏・日蓮と歴代法主の内証を同等にみなしていくと、いずれは信仰実践の面に重大な影響が出てくると予想される。つまり、阿部の教学指南に従う人々は、大石寺門流が守ってきた〈日蓮=末法の教主〉という信仰信条を事実上、捨て去ってしまうのではなかろうか。法主の内証は、本仏・日蓮と同じ究竟果分の無作三身である≠ニ考えることは、「末法の教主」としての日蓮の唯一者性の否定につながる。そして、日蓮の方は物言わぬ過去の人なのだから、実質的には、現に生きている法主の指南が信者の信仰行動の絶対的な拠り所となる。現法主が日蓮の教説といかに異なる指南をしても、両者の内証の同等性を大前提とするかぎり、何とか現法主の教えに合うように日蓮の教説をねじ曲げるしかない。これが阿部の法主信仰にみられる本末転倒の思想構造であり、「邪義破折班」が出す文書は、すべて、この屈折した思想構造の産物に他ならない。かくして阿部の法主信仰においては、「末法の教主」の実質的権威が、日蓮から現法主の阿部へと移行しているのである。
3 『三宝抄』の三宝一体義について
(松岡から阿部への質問)
あなた方は、日寛の『三宝抄』の文を引用して「三宝一体」を強調し、それによって歴代法主を神聖化しています。『三宝抄』では、仏宝・法宝・僧宝の三宝が「内体」において「体一」、「外相」において「勝劣」、と「分別」された後、「法宝を以て中央に安置し仏及び僧を以て左右に安置する」「仏宝を右の上座に安置し僧宝を左の下座に安置し」云々と、三宝安置のあり方が長々と論じられています(歴全4-392〜394)。ここに明らかなごとく、『三宝抄』の三宝一体義は、信仰対象となる三宝についての議論です。すなわち、日寛が『当流行事抄』で規定した「久遠元初の三宝」(要3-213)についての議論なのです。宝前に安置し信仰対象となる僧宝は、大石寺門流では、古来より開山の日興に限定されています。
ところが『血脈公開論批判』は、日寛の『文底秘沈抄』から「今に至るまで四百余年の間一器の水を一器に移すが如し清浄の法水断絶せしむることなし」(要3-94)との文を引用し、歴代法主も「一器の水を一器に移す」のだから三宝一体の僧宝に含まれる、と私に反論しています(『血脈公開論批判』一八九頁)。では、お聞きしますが、あなた方は歴代法主をも信仰対象としての僧宝とみなすのですか。そうではなく、『三宝抄』や『文底秘沈抄』の一部の文を根拠に法主への尊信を説くのだ、と言いたいのならば、ここには三つの重大な誤りがあります。
第一に、あなた方は、三宝の一体性と差別性を「分別」したうえで三宝を安置する形式を論ずる、という『三宝抄』本来の文脈から外れ、法主の内証の尊厳を示すために同抄の三宝一体義を用いています。三宝安置論とは別の次元で『三宝抄』の三宝一体義を引用することは明らかに恣意的であり、いわゆる「切り文」の謗りを免れません。ちなみに、『三宝抄』の中で日寛は、「予が如き無智無戒も僧宝の一分なり」(歴全4-396)と述べています。「僧宝の一分」という日寛の自己認識は、それが謙遜であろうとなかろうと、法主の位に就くだけで僧宝になれるわけではない≠ニいう彼の実力本位の僧宝観を示すものと言わねばなりません。このこと一つをとっても、あなた方の『三宝抄』の解釈が日寛の意図から逸脱していることは自明です。
第二に、かりに牽強付会の解釈によって法主を「三宝一体」の中に含めたとしても、あなた方の主張は日寛教学の規定から外れています。2で論じたように、日寛は、究竟果分の仏は日蓮一人に限られる、と述べています。そこからすると、「三宝一体」の内証の次元でも、仏宝たる日蓮大聖人と僧宝たる日興上人との間には、なお「一体の中の区別」があるとみるべきでしょう。
あなた方のごとく、「御法主上人の御内証にのみ、久遠元初の完全なる悟り(境地冥合)≠ェ相伝される」(『血脈公開論批判』一六一頁)と説くなどは、日寛の教えの否定と言わざるを得ません。あなた方の三宝一体義は、むしろ三十一世・日因の法主信仰を受け継ぐものです。日因は、金沢の信徒に対し「日興上人已下の代々も亦た爾なり。内証に順ずるに則仏宝也。外用に依れば則僧宝也。故に末法下種の大導師日蓮聖人の尊仏に対すれば、則外用を存し以て僧宝と為るのみ」と述べ、日興已下の歴代法主の内証をも三宝一体としています。客観的にみると、創価学会が日寛教学を厳格に受け継ごうとするのに対し、あなた方は日因の法主信仰に帰ろうとしている、と言えます。したがって、あなた方が三宝一体義によって法主への尊信を説き勧めたいのならば、日寛の諸文書を「正依」とする現在の宗規は変更し、正式に日因系統の宗派となる旨を公的に表明すべきでしょう。
さて第三に、『血脈公開論批判』が掲げた『文底秘沈抄』の文は、日寛が身延山最勝説を批判する中で出てくるものです。対外的論議において、大石寺の法主である日寛が、自門の血脈相承の歴史の恥部に触れるわけがありません。しかし、日寛の本音は違ったのではないでしょうか。彼が残した『当家法則文抜書』には、一七世の日精が著した『日蓮聖人年譜』(以下、『年譜』と略す)からの抜書がみられます。それは、三大秘法や正行・助行に関する箇所の抜書ですが、日寛教学からみれば、大変な邪義が述べられています。そこで日寛は、この『年譜』の論述について「精師且く他解を述ぶ。是れ則ち日辰の意なり。故に本意に非ざるなり」「他解なり。正義に非ざるなり」(研教9-757,763)と付記しています。つまり、『年譜』にみられる邪義は、要法寺日辰の「他解」であって日精の「本意」ではない、と解釈したのです。しかし、『年譜』の邪義が日精の本意でないのなら、なぜ日精自身が「これは日辰の邪義である」と明示しないのでしょうか。どう考えても、おかしな話です。結局、日寛は日精本人が邪義を説いていることを承知のうえで強引に日精をかばった、とみるしかありません。日寛は十代の頃、江戸の地で、日精の説法を聞いて出家を決意しました。それだけに、日精には大恩を感じ、自らも大石寺の血脈相承を受けたことから、たとえ抜書文書の類であっても、あからさまな日精批判ができなかったのでしょう。
日寛は、歴代先師の言に対しては、慎重に直接的批判を避けていました。一例を挙げます。九世・日有は、大石寺門流の「文底の大事」とは『法華経』寿量品の「如来秘密神通之力」の文の底を指す、と考えていたようです。ところが、この日有の説を「日有上人雑々聞書」として抜書した日寛は、寿量品の「我本行菩薩道」の文の底にこそ当家の「文底」の義があると考えていました。これでは、「文底の大事」という重要な問題について、歴代先師である日有の説に反対することになります。そこで日寛は、日有の文底義の抜書の後で「大貳云く云云」(研教9-777)と記し、あえて自説の披露を遠慮する姿勢をとったのです。これについて、堀日亨は「有師の説と本師(日寛)の主論と徑庭(けいてい)甚だしきが故に冗説せざるか」(同前)と註釈しています。とはいえ、日寛は『開目抄愚記』の中で、「当流一大事の秘要」として「我本行菩薩道の文底に久遠名字の妙法を秘沈し給う」(文段集77)と本意を明かしています。日寛の「大貳云く云云」(研教9-777)の真意は、やはり日有の文底義の批判だったわけです。このように、『当家法則文抜書』における日寛の付記に関しては、相承の先師に対する日寛の遠慮、というものを念頭において理解しなければなりません。そうするならば、日寛は、同抜書において婉曲的な言い回しながら日精の邪義を手厳しく弾劾している、という真相がはっきり見えてくるのです。
第三の論点を整理しておきましょう。日寛は『文底秘沈抄』の中で「今に至るまで四百余年の間一器の水を一器に移すが如し清浄の法水断絶せしむることなし」と述べる一方で、『当家法則文抜書』には「精師且く他解を述ぶ。是れ則ち日辰の意なり。故に本意に非ざるなり」「他解なり。正義に非ざるなり」(研教9-757,763)との日精批判の付記を残しました。私は、日寛が本心では完全無欠な大石寺の法水写瓶≠ニいう見方に懐疑的だったのではないか、と思います。『文底秘沈抄』の文が外部向けの言説であるのに対し『当家法則文抜書』の方は個人的な記録文書であること、日寛に歴代先師に対する遠慮があり、とりわけ日精に対しては恩義も感じていたことなどを総合して考えれば、日寛は『当家法則文抜書』で婉曲的に日精を批判した、と結論せざるをえないのです。
以上、私の主張を申し述べました。これに関する、あなた自身の見解をお示し下さい。
(阿部側の回答要旨)
松岡が引用した『三宝抄』の文は、三宝は一体に約す内証の意と「任運勝劣」の外相の意義が具わることを述べられるに際し、その外相の具体例として本尊奉安形式をもって説明したものである。よって「三宝一体」の文をわざわざ日興に限定して解釈しなければならない根拠は全くないと共に、外相の上の僧宝についても日興のみとする道理はない。むしろ日寛は『三宝抄』全般を通じ、日興は僧宝の「首」であるとし、さらに僧宝たる理由が「秘法伝授の御弟子」(歴全4-385)つまり唯授一人の血脈相承にあることの上から、それ以下の血脈付法の歴代法主をも僧宝であるという意義を明示しているのである。
また日寛は「一器の水を一器に写すが故に師弟亦体一なり、故に三宝一体也」(歴全4-392)と言っているのだから、「一器の水を一器に移す」(『文底秘沈抄』、要3-94)歴代法主をも三宝一体と言っていることは明白である。日寛が『三宝抄』と『文底秘沈抄』に述べた「一器の水」の文意に如何なる内容の相違があるのか。
さらに日寛が自身を「僧宝の一分なり」と言ったのは事実を述べたのであり、何も謙遜表現ではない。『三宝抄』の中で日寛は、日興を僧宝の「首」であると言い、そして日寛自身も「僧宝の一分」であると述べているのである。これは日寛自身が僧宝の中に加わっていることを明確に主張した指南である。
その他、松岡の記述に対しては次のような疑問がある。
@ 松岡は日寛の言は大石寺門流のものとして正しいが、日因の言は間違っているという。この正邪の区別を何によってしているのか。
A 日有は「手続の師匠の所は三世の諸仏高祖已来代々上人のもぬけられたる故に師匠の所を能く能く取り定めて信を取るべし、又我が弟子も此くの如く我れに信を取るべし、此の時は何れも妙法蓮華経の色心にして全く一仏なり、是れを即身成仏と云ふなり云云」(「化儀抄」、要1-61)と指南し、歴代法主を「僧宝」として尊信せよと言っているが、松岡は「だんまり」を決め込んでいる。
B 松岡は六巻抄に関して、一方では「貫主直伝の秘書」と言い、他方では「対外的論議」の書であるという。これは論旨が矛盾している。
C
松岡によれば、日寛は、十七世の日精に少なからず教義的な誤りがあったと認識していたが、抜書文書の中で正面切っては批判しなかったという。
しかし、この主張は成立しない。なぜならば、日寛は直接日精の謦咳に接し、また日精の大曼荼羅正意・要品読誦の化導の実態を聞き及んでいたからである。また抜書文書の中で日寛が、本尊の当体について、日有の聞書との見解の相違に忌憚のない意見を述べている箇所もある。したがって、松岡の説は恣意的な解釈であると断ずる。さらに松岡は、堀日亨が日寛の抜書文書の一部に関して「有師の説と本師(日寛)の主論と徑庭(けいてい)甚だしきが故に冗説せざるか」(研教9-777)と註釈している、とも言うが、日亨は「冗説せざるか」と述べ「自ら決せざる『歟』の字」を付している。つまり、この問題については日亨を含め、何人も断定しえないのである。
(松岡の再批判)
最初に今一度、問題となっている『三宝抄』の文を掲げておこう。
一、問う、三宝に勝劣有り乎。
答ふ、此れ須く分別すべし。若し内証に約せば実には是れ体一なり。所謂法
宝の全体即ち是れ仏宝なり 故に一念三千即自受用身と云い、又十界具足方名円仏と云うなり。亦復一器の水を一器に写すが故に師弟亦体一なり、故に三宝一体也。若し外相に約せば任運勝劣あり。所謂、仏は法を以て師と為し、僧は仏を以て師と為すが故なり。故に法宝を以て中央に安置し仏及び僧を以て左右に安置する也(歴全4-392〜393)。
阿部は、この文の最後にある「故に法宝を以て中央に安置し仏及び僧を以て左右に安置する也」を「外相に約せば任運勝劣あり」ということの「具体例」(『阿部側回答書』一二頁)であるとし、それをもって当該箇所における僧宝を日興一人には限定できない、と反発している。しかし、阿部の主張は「故に」という接続詞の存在を意図的に無視した暴論である。
かりに、「故に法宝を以て中央に安置し仏及び僧を以て左右に安置する也」との文が、外相面の三宝勝劣に関する「具体例」を示したものならば、なぜ「故に」という接続詞が用いられているのか。「具体例」を示すにあたって使用されるべき接続詞は、当然、「例せば」「例えば」の類である。しかるに、問題の『三宝抄』の文では「故に」とだけ記され、「故に例せば」「故に例へば」とも記されていない。「故に」という接続詞は「こういうわけで」「このために」という意味であり、そこに「例」という意味は含まれていない。むしろ、「故に」という接続詞に忠実な解釈は、本尊奉安形式の説明を、外相面の三宝勝劣の具体的な現れ≠ニして理解することだと言えよう。そう考えれば、前掲の引用文が示唆する僧宝とは日興一人と解するのが妥当である。
阿部の『三宝抄』解釈は文脈を離れた陳述であり、「文脈上の誤謬(contextual fallacy)」にあたる。しかもそれは、意識的になされた誤謬であって「詭弁(sophism)」に他ならない。余りに論理的なルール無視がひどいので、合わせて指摘しておく。阿部はここで、「あいまいの誤謬」の中の「多義の誤謬(fallacy
of equivocation)」も犯している。阿部が言う「具体例」とは、外相面での三宝勝劣に関する唯一の具体例なのか、あるいはその具体例の一つにすぎないのか。どうにも判然としない。彼らのごとき曖昧な記述では、誰人もその正確な意図を把握できないだろう。また阿部は、単なる仮説を演繹的結論として提示している。本尊奉安形式の説明を外相面の三宝勝劣の「具体例」として解釈することは、三宝一体・勝劣を論じた前文から必然的に演繹される結論ではない。阿部の主張は、「故に」という接続詞を無視した確率の低い仮説にすぎない。それを動かぬ定説であるかのごとく断定的に相手に示すことは、論理の飛躍、すり替え以外の何物でもないのである。
さて次に、『阿部側回答書』は、日寛が『三宝抄』と『文底秘沈抄』に述べた「一器の水」の文意に如何なる内容の相違があるのか、などと当方を詰問している。この問題は、日寛が自らを「僧宝の一分」と称したことに関連してくるので一緒に論じてみたい。
今回、『阿部側回答書』では「日寛上人が御自身を『僧宝の一分なり』と仰せられたのは事実を述べられたのであり、何も謙遜表現ではない」(一五頁)と記し、正式に歴代法主を「僧宝の一分」と定義した。このことは、過去に阿部が「僧宝とは……日興上人を随一として、
唯授一人血脈付法の歴代上人の全てにわたるのであります」「門流の大衆、すなわち法主に 信伏随従する本宗の一般僧侶も、みな僧宝の一分に加えられるのであります」(平成三年十一月七日付『創価学会解散勧告書』) と述べ、法主は僧宝の全分、門流大衆は僧宝の一分≠ナあるかのごとく述べていたことを思えば、まさに隔世の感がある。一体、阿部はいつから僧宝観を変更したのだろうか。
法主が「僧宝の一分」である、という前提を阿部が認めるのなら、話は簡単である。日蓮の『観心本尊抄』には「無顧の悪人も猶妻子を慈愛す菩薩界の一分なり」(全集241・定本705)とある。当然ながら、「無顧の悪人」は「菩薩界」の衆生ではない。だが、「妻子を慈愛」する「無顧の悪人」にも「菩薩界の一分」が認められる。同じように、「歴代法主」は「僧宝」ではない。しかし、正法正義を各々応分に伝える「歴代法主」には「僧宝の一分」の意義が認められる。阿部は図らずも、歴代法主が僧宝そのものでないことを言明してしまった。結局、阿部は今回、僧宝の全分=日興、僧宝の一分=法主≠ニいう立て分けを承認したことになる。
とすれば、『三宝抄』と『文底秘沈抄』における法水写瓶の意義の相違は、もはや自明であろう。『三宝抄』に説かれる日興の法水写瓶には僧宝の全分≠フ意義が存するのに対し、『文底秘沈抄』に示される歴代法主の法水写瓶は僧宝の一分≠フ意義にとどまる。前者の僧宝は秘法伝授に関して無謬、後者の僧宝はそれに関して有謬である[4]。ゆえに、信仰対象としての僧宝=日興にかかわる『三宝抄』の三宝一体論を、歴代法主にまで拡大して適用する阿部の主張は不当なのである。
別の角度からも考察しておきたい。それは、「三宝一体」の必要条件とは何か、ということである。日寛の『三宝抄』では、三宝が「内体」では一体不二、「外相」では勝劣あり、と立てる。ここで我々は、「外相」の勝劣を無視して「内体」の一体性のみを独立的に主張することができない。「外相」と「内体」とは三宝の表裏であり、少なくとも表の「外相」が裏の「内体」の必要条件となるはずである。「外相」の勝劣は「仏は法を以て師と為し、僧は仏を以て師と為す」というものである。ということは、じつは「外相」における〈法←仏←僧〉という師弟関係の次第こそが、「内体」における三宝一体の必要条件となるわけである。わかりやすく言えば、正しい法を師とする仏、正しい仏を師とする僧、という二つの必要条件が満たされないかぎり、「内体」の三宝一体も成立しない。その意味から、三宝一体を成就せしめる中心軸は「法」にあると言える。「法」に背く「僧」は、もちろん〈法←仏←僧〉という三宝一体の必要条件を満たしていない。だから、「内体」において三宝一体とは言えない。
日蓮は『真言見聞』の中で「謗法とは謗仏・謗僧なり三宝一体なる故なり」(全集142・定本649〜650)と述べている[5]。ここに「謗法とは謗仏・謗僧なり」とあるごとく、日蓮も「法」を中心として三宝一体を説いている。阿部らは、この『真言見聞』の文を謗僧とは謗法・謗仏なり≠ニ読み替えたいのであるが、そういう解釈は、〈法←仏←僧〉という「外相」面の師弟の序列を隠蔽し、いたずらに法義を惑乱させるだけである。正法に違背する僧の否定は、謗法・謗仏どころか、むしろ正法護持につながるではないか。それゆえ日興は、「時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」(『日興遺誡置文』、全集1618)と遺誡したのである。日蓮に至っては、『守護国家論』に「設い仏菩薩為りと雖も法華涅槃に依らざる仏菩薩は善知識に非ず」(全集67・定本124)と断じ、「仏」でさえ「法華涅槃」の「法」に背く可能性があることを示唆している。日蓮仏法は、どこまでも「法」を中心とした信仰信条を貫く。三宝一体義についても、その例外ではない。
ところが阿部は、〈法←仏←僧〉という三宝一体の必要条件を巧みに隠蔽したうえで、どんな法主(僧)でも三宝一体なのだから、戒壇本尊(法)や日蓮(仏)と一体である≠ニいう虚偽の論理を作り上げた。それは、実際には現法主中心の三宝一体義の提唱となる。三宝一体なのだから、現法主の法義解釈は常に正しい――この一見、もっともらしい阿部らの理屈は、「仏宝」の日蓮も、「法宝」の戒壇本尊も、そして「僧宝」の首たる日興も、すべて〈物言わぬ存在〉である、という事実を悪用することによって成立する。つまり問題の本質は、「僧宝の一分」にすぎない現法主だけが〈物言える存在〉である、という点にある。いわば「死人に口なし」という状況において「三宝一体」の権威を笠に着た現法主は、戒壇本尊を意のままに操り、日蓮の「御書」や、日興をはじめとする歴代先師の教えを、自分に都合よく解釈できる。現法主が何を言おうが、また何をしようが、〈物言わぬ存在〉の三宝は一切、異議を唱えられない。かくのごとく、三宝一体義の中に法主を含めてしまうと、結局は、現法主中心の三宝一体義、という下克上的な事態が生じてしまうのである。
これに対し、日寛の『三宝抄』では「法宝」中心の三宝一体義が示されている。そうなるのは、〈物言える存在〉の現法主を三宝一体義の中に含めないからである。法華経を師とし、身命を賭して修行した日蓮。その日蓮を仏と仰ぎ、徹して師事し抜いた日興。こうした事跡は〈法←仏←僧〉という三宝一体の必要条件に適合している。そして、この「外相」の歴史的事実はもはや動かせない。ゆえに「内体」の三宝一体も確定し、末法の衆生の信仰対象となりうるのである。阿部らのごとく、『三宝抄』の三宝一体義の中に〈物言える存在〉の現法主を加えてしまえば、〈法←仏←僧〉が〈現法主←法←仏←僧〉へと変質する可能性が出てくる。その可能性が考えられる以上、日蓮(仏)・戒壇本尊(法)・日興(僧)の「内体」における三宝一体、という確定事項の中に、現法主を加えることなどできないのである。
なお、ついでに『阿部側回答書』の僧宝論にみられる論理的誤謬も指摘しておこう。阿部は、同回答書の中で「「『三宝抄』全般を通じ、日興上人は僧宝の『首』であるとされ、さらに僧宝たる理由が『秘法伝授の御弟子』つまり唯授一人の血脈相承にあることの上から、それ以下の血脈付法の御歴代上人をも僧宝であるという意義を明示されている」(一二頁)と述べている。ここで、日興一人を指すはずの「秘法伝授の御弟子」という言葉を、何の説明もなく「それ以下の血脈付法の御歴代上人」にまで拡大適用し、歴代法主をも僧宝とするのは、明らかに論理的根拠を欠いている。これは例えば、「リンカーンはアメリカの大統領であり、リンカーンは立派な政治家だから、アメリカの大統領はすべて立派な政治家である」と言うのと同じぐらい、論理が欠如した記述なのである。
その他の私への論難に関しても、簡潔に再批判しておく。@の論難では、私が日寛を正とし日因を邪とする区別の根拠を問うている。私の答えは明快である。日寛に法主信仰は見られないが、日因には見られる。この点において両法主の説は食い違っている。学問的に言えるのは、ここまでである。しかし、日蓮正宗は「宗規」で日寛文書を「正依」にすると定めている。だから阿部は日寛を正、日因を邪とすべきであり、そうしないのなら宗規を変更すべきである、と私は指摘したのである。今の私の立場は研究者であるから、信仰面で日寛を正、日因を邪と判定するつもりはない。ただ、日蓮正宗に所属する阿部はそうすべきではないのか、と彼らの矛盾を衝いたのである。阿部には、学問と信仰の区別が理解できていない。
Aの論難も、私としては理解に苦しむ。日有の『化儀抄』の「手続の師匠の所は三世の諸仏高祖已来代々上人のもぬけられたる故に師匠の所を能く能く取り定めて信を取るべし」(「化儀抄」、要1-61)との前提の文から、どうして歴代法主は「僧宝」である≠ニの結論が演繹されるのか。この日有の文は、文脈に即して言えば、堀日亨の言うごとく「師弟の道は神聖ならざるべからず」(要1-124)との意と解される。師であることと、僧宝であることとは別次元の問題である。すなわち、前者は化儀、後者は法体にかかわる。化儀上の師弟の問題と、法体にかかわる僧宝の問題とをイコールで結びつけることなどできない。
先ほども述べたように、化儀即法体といえども〈化儀=法体〉ではないのだから、当然の道理である。さらに言うと、阿部の主張は論理的に不正確である。先に述べたごとく、一口に僧宝と言っても歴代法主は「僧宝の一分」であり、秘法伝授に関して有謬の存在である。大石寺門流では真書とされる『日興遺誡置文』にも「時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」(全集1618)とある。そうした僧宝論上の立て分けを一顧だにせず、しかも化儀上の師弟の道について論じた日有の文をもって「御歴代上人を『僧宝』として尊信せよと仰せられたもの」(『血脈公開論批判』一八四頁)と結論づけるのは、二重の論理的誤謬に陥っているのである。
Bの論難に移ろう。阿部によれば、私は日寛の六巻抄を「貫主直伝の秘書」であるとしながら他方では「対外的論議」の書であるとも述べ、矛盾を露呈しているという。しかしながら、「貫主直伝の秘書」であることと、「対外的論議」の書であることとは必ずしも矛盾しない。私は、日寛の六巻抄を対外的論議に備えるための貫主直伝の秘書≠ニして理解している。四十八世・日量が著した『日寛上人伝』は、日寛が学頭の日詳に六巻抄を授与する際、次のように述べたことを伝えている。
此の書六巻の師子王あるときは国中の諸宗諸門の孤兎一党して当山に襲来すといへども敢て驚怖するに足らず尤も秘蔵すべし尤も秘蔵すべし(要5-355〜356)
「此の書六巻の師子王あるときは国中の諸宗諸門の孤兎一党して当山に襲来すといへども敢て驚怖するに足らず」との日寛の言は、六巻抄が「対外的論議」のための書であることを明かしている。現に、問答形式を多用し、日蓮宗各派の教義に対する破折が随所に織り込まれた六巻抄は、誰が見ても「対外的論議」の書である。そのうえで、日寛は再治本の六巻抄に関して「尤も秘蔵すべし」と日詳に指示したとされ、近代の堀日亨もそれを「貫主直伝の秘書」としたのだから、六巻抄は対外的論議に備えるための貫主直伝の秘書≠ニして執筆された、と考えるのが妥当である。
阿部は、「対外的論議」という私の言葉を「建前の論議」(『阿部側回答書』一九頁)という意味に受け取っているが、「対外」とは「外部に対する」という意である。「対外」を「建前」と解釈するのは論理的誤謬にも値しない。初歩的な国語の知識の欠如か、それとも意図的な曲解か、のどちらかである。
最後にCの論難であるが、これは日寛は先師である十七世・日精に配慮したので、『当家法則文抜書』の註記に際して日精の教義的誤りへの公然たる批判を控えた≠ニする私の説に反駁するものである。阿部によれば、直接日精の謦咳に接し、また日精の化導に触れた人々からその実態を聞いていた日寛は、日精の「大曼荼羅正意・要品読誦の『本意』を踏まえた上での註記」(『阿部側回答書』二一頁)を『当家法則文抜書』の中で行ったはずであるという。ここで問題なのは、日精の本意が「大曼荼羅正意・要品読誦」であるとどうして言えるのか、という点である。日精の『随宜論』では、反対に造仏・一経読誦が唱えられており、こちらを日精の本意とする説もかなり有力である。ゆえに、阿部が私の説を批判したいのなら、まず日精の「本意」について論理的に説得力のある議論を提出すべきである。
これまでに出された、阿部らの日精擁護論は、すべて護教論にすぎない。先ほどから指摘しているように、阿部らの論は基本的に循環論法であり、数々の論理的誤謬にも満ちている。そのことは、今回の『阿部側回答書』における日精擁護論を見ても一目瞭然である。
例えば、この回答書の中に「何より総本山客殿安置の御影は日精上人の造立であり、また御影堂、六壷などの御本尊を造立された日精上人の御本意が大曼荼羅正意にあることは火を見るよりも明らかなのである」(二〇頁)との一文がある。阿部は、日精が御影や曼荼羅本尊を造立した≠ニいう前提から日精の本意が大曼荼羅正意にある≠ニいう結論を出している。しかし、これは結論ではなく一つの仮説であり、「火を見るよりも明らかなのである」といった断定は論理の飛躍となる。論理的に言えば、日精は御影や曼荼羅本尊を造立したが内心では造仏論者だった、という別の仮説も成立するからである。
しかも、この別の仮説は、日精が実際に元和十年に仏像を造立したこと、法主登座後の寛永十年に書かれた『随宜論』において「造仏は即ち一箇の本尊なり、誰か之を作らざる」「聖人御在世に仏像を安置せざることは未だ居処定まらざる故なり」という本質論的主張がなされていること、寿円日仁の『百六対見記』や北山本門寺文書が日精の行った造仏に言及していること、三十一世・日因が「精師御所存は、当家実義と大相違なり」「精師、関東奥方の寺々に皆釈迦多宝四菩薩造立を許す」と記して激しく日精を批判したこと、近代の堀日亨も精微を尽した史料考証を通じて日精を「造像家」(要5-213)と断定したこと、等々の多くの補助前提に支えられている。つまりは有力な仮説である。
他方、阿部の仮説には一つの補助前提もない。日寛が日精の謦咳に接していたことは、何ら補助前提にならない。質問状の中でも述べたように、日精の謦咳に接して出家を決意した身なればこそ、日寛は直接的な日精批判を遠慮した、と考えた方がはるかに説得的である。結局、阿部の日精擁護論を貫いている思考は、「血脈相承を受けた歴代法主に法義上の誤りはない」「なぜ、そう言えるのか」「歴代法主は七百年以上にわたって正法正義を伝えてきたからである」「どうして歴代法主が七百年以上にわたって正法正義を伝えてきたと言えるのか」「それは、血脈相承を受けた歴代法主に法義上の誤りなどないからである」といった循環論法に他ならない。この循環論法を盾に、阿部は有力な反対仮説の補助前提を突き崩すべく、「随宜論は登座後に清書されたにすぎない」「日精造仏説は日因の誤解である」「日亨の日精批判は失念による」などと躍起になって弁解にこれ努めている。しかし、彼らの弁解は元が循環論法なので、根本的立場からの論理構築とはならず、所詮は根無し草的な小細工の詭弁に終始するのである。
また阿部は、日寛が『当家法則文抜書』において、日有の聞書との見解に率直な異議を唱えている箇所もあるとし、日寛は何も先師に遠慮などしていないと力説している。すなわち、日寛は「当宗の即身成仏は十界互具の御本尊の当体なり。其の故は上行等の四菩薩の脇士に釈迦多宝成りたまふ所の当体大切なり」云々との日有の聞書を抜き書きした後に「大貳云く、此の義観心に約する歟。報恩抄も恐らくは爾らざる歟。既に本尊抄に云く、釈尊の脇士には上行等の四菩薩云云。末法相応鈔の如し」と自らの所感を記しているという(研教9-772)。この日有の聞書では、曼荼羅本尊において四菩薩の脇士に釈迦多宝がなる、と記している。しかし、日蓮の『報恩抄』には「日本・乃至一閻浮提・一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂宝塔の内の釈迦多宝・外の諸仏・並に上行等の四菩薩脇士となるべし」(全集328・定本1248)とあり、『観心本尊抄』にも「釈尊の脇士上行等の四菩薩」(全集247・定本712〜713)とある。つまり日蓮の記述は、日有の聞書とは逆に、四菩薩を釈尊の脇士とするものである。
ここで、もし日寛が日有の聞書の誤りをはっきり指摘し、「大貳云く、此の義は誤りなり」などと記したならば、阿部の言うごとく「忌憚のない意見」(『阿部側回答書』二二頁)の披露に違いない。しかし、日寛はそのように日有の説を全面否定せずに「大貳云く、此の義観心に約する歟」と述べた。日有の説を一種の観心釈として会通し、「歟」という幅を持たせた表現も用い、何とかして肯定しようとしたのである。これこそ、日寛が先師に対し、慎重な配慮を幾重にも示しながら直接的批判を避けた好例ではないか。阿部の弁解はかえって自らの首を絞める愚行である。
最後に、まともに答えるのも大人気ないような阿部の非難をとりあげる。阿部は、私が質問状で引用した堀日亨の註釈中の「冗説せざるか」(研教9-777)という表現に目をつけ、「冗説せざるか」の「か」は「自ら決せざる『歟』の字」(同前)だから日亨はここで何も断定していない、と主張している。この「か」はたしかに不確実な意を表す。が、だからと言って日亨が自らの意見を述べなかったわけではない。もし日亨が本当に「自ら決せざる」心境だったならば、註釈そのものを遠慮したはずである。そうではなく、「有師の説と本師(日寛)の主論と徑庭甚だしきが故に冗説せざる」と理由を挙げて説明しているのだから、日亨は自身の意見をはっきりと開陳している。とはいえ、碩学の日亨は阿部のごとく、仮説を演繹的結論にすり替える論法をとらない。ゆえに、良心的に「か」の字を付し、仮説は仮説のまま提示したのだろう。阿部も、少しは日亨の学術的態度を見習うべきではなかろうか。
4 法主による本尊の開眼と許可について
(松岡から阿部への質問)
あなたは、平成九年八月二十八日、大石寺で開催された「全国教師講習会」において「以前から今日に至るまで、あらゆる御本尊は、下附のために総本山から離れる前に、丑寅勤行において法主が祈念をしている」[6]と明言されました。しかしその直後、あなたは「以前に法道院より各末寺が送付を受けた御形木御本尊について『開眼がない』と(某氏が)推測しているのですけれども、当時の法道院主管の早瀬道応師、のちの日慈上人は、総本山の法主の許可によって、当時においてお取り次ぎをしていた」[7]とも述べました。非常に曖昧模糊とした語り口なので、今一度、確認します。あなたが「あらゆる御本尊は、下附のために総本山から離れる前に、丑寅勤行において法主が祈念をしている」というところの「あらゆる御本尊」の中に、形木本尊は含まれていませんね。なぜならば、その後で東京・池袋の法道院が各末寺へ送付していた形木本尊については「法主の許可」で充分だったと語っているからです。察するに、あなたの考えは「あらゆる法主直筆の常住本尊は開眼されているが、印刷の形木本尊については法主の許可さえあれば開眼の必要がない」ということと思われます。そうだとすれば、なぜ形木本尊には開眼の必要がないのですか。法主が直接祈念するわけでもなく、不特定多数の形木本尊に漠然と許可を与えるだけで、なぜ、すべての形木本尊に「法魂」が宿るのですか。草木成仏の意義の上から、教義的な説明を願います。また、いわゆる「特別御形木御本尊」については開眼の必要があったのかなかったのか、そしてなぜ常住本尊には開眼、形木本尊には許可といった区別を設けているのか、についてもお答え下さい。
(阿部側の回答要旨)
日顕は、形木本尊を含めたすべての本尊は丁重に開眼されている、と明確に言っている。丑寅勤行においてなされる開眼は、法主が允可した一切の本尊に及ぶもので、これには形木本尊も当然含まれている。日顕が言う開眼の意義とは、日蓮の内証たる唯授一人血脈相承の境界よりなされる開眼の祈念によって、允可された一切の本尊に時間・空間を超えて法魂が具わる、ということである。この開眼の意義に関する甚深の内容は、余人が知ることなどできるはずもない。
したがって過去に東京・池袋の法道院で行われていた形木本尊の下付に関しては、法主の允可のもとで行われ、その上で丑寅勤行の折に法主が開眼の祈念をし、さらに各末寺で丁重に宝前にお供えをしてから下付されてきたのである。
(松岡の再批判)
今日まで阿部は、法主が丑寅勤行の際、すべての形木本尊を宝前に供えて開眼してきたかのごとく釈明してきた。「あらゆる御本尊は、下附のために総本山から離れる前に、丑寅勤行において法主が祈念をしている」という阿部の発言は、そう受けとられて当然の内容である。ところが今回の『阿部側回答書』により、この阿部発言は悪質なレトリックであることが判明した。すなわち、法主の阿部は、形木本尊を目の前に安置して開眼の祈念を行っていなかったのである。わざと論旨不明瞭な悪文にして読者を幻惑しようとしているが、要するに今回の阿部の言い分はこうである。重要な証言なので枠に囲んで示す。
法主による本尊の開眼供養とは、新しい本尊を宝前に供え、法主が目の前の本尊に向かって草木成仏の祈念を行うことである――多くの人々は、そう理解していたのではあるまいか。しかるに阿部は、法主が丑寅勤行の際、その場にない不特定多数の形木本尊を想像しながら祈念すれば開眼したことになる、と言い張るのである。ここには、看過しえない多くの矛盾がある。
第一に、丑寅勤行での法主の祈念により、何十万何百万もの非対面の形木本尊に一斉に入魂がなされるのならば、あらゆる開眼の儀式自体が不必要となろう。ここで想起されるのは、宗門寺院で行われている数珠の開眼の儀式である。私の知るかぎり、現法主の阿部は「御開扉」の際に数珠の開眼を行っていた。その時には、予め宝前の「御前机」の上に、数珠の束を何十束も三方に入れて乗せておく。そして、「御開扉」の読経が寿量品に入ると、阿部は数珠の束を一束ずつ手にとり、それを自分の額に近づけながら「南無妙法蓮華経」と念ずる仕草をする。これが数珠の開眼の儀式であった。この儀式を経た数珠は「御法主上人御開眼の御数珠」と称し、一般信徒向けに販売される。阿部にとって、本仏の法魂を宿すべき形木本尊の開眼こそ、あらゆる開眼の中で最重要なはずである。それすら非対面の祈念で事足りるのに、なぜ数珠の開眼が、かくも物々しい儀式作法を踏んで行われているのか。大いに疑問であり、矛盾も感ずる。
第二に、阿部は丑寅勤行の際、常住本尊を宝前に供えて祈念することがある。私の記憶では、時折、「特別御形木御本尊」も丑寅勤行の際に宝前に供えられていたように思う。それなのに、一般信徒向けの形木本尊にかぎって丑寅勤行の際に宝前に供えないのはなぜか。つまり、同じ日蓮正宗の本尊であるにもかかわらず、常住本尊には法主が対面して祈念、形木本尊には法主が非対面の祈念、という区別をつけるのはなぜか。教義上の理由を、阿部は全く示していない。
第三に、「大聖人の御内証たる唯授一人血脈相承の御境界よりなされる開眼の祈念によって、允可された一切の御本尊に時間・空間を超えて御法魂が具わる」(『阿部側回答書』二五頁)という阿部の主張には、文献的・教義的な裏づけが何一つない。阿部は学術界の人間ではないから、「甚深の内容は余人が知ることなどできるはずもない」(同前一九頁)と力んで自己の世界に閉じこもるのも結構だろう。だが、そのように「権威に訴える論証の誤謬」を自覚的に犯して何ら恥じないのならば、私の言説に「観察に関する虚偽」「軽率な概括による虚偽」がある、などと俄仕込みの知識で応酬するのは慎んでもらいたい。私の論理の矛盾を云々したいのなら、まず自分たちが論理の世界から逃げないことである。その意味で、もう一点指摘するが、「一切の御本尊に時間・空間を超えて御法魂が具わる」(同前一七頁)という阿部の主張は一種の形容矛盾である。なぜならば、法主の祈念によって一切の本尊に「御法魂が具わる」というのはすでに時間的で空間限定的な行為であり、「時間・空間を超えて」という表現と矛盾するからである。
第四に、阿部はなぜ、独立した本尊開眼の法要を執り行わないのか。開眼の意義は「軽々しいものではない」(同前)と、阿部は私に言い渡してきた。ならば、広宣流布祈念を主眼とする丑寅勤行とは別に、厳粛かつ荘厳に本尊開眼の大法要を行うべきであろう。またも私自身の記憶に頼ることになるが、私は以前、阿部が正本堂での「大御本尊御開扉」の際に、新しく謹刻された個人下付の板本尊を宝前に供えているのを目にした。これらを要するに、阿部は、丑寅勤行や「御開扉」のついでに本尊開眼の祈念を行っていた、と考えざるを得ない。本尊開眼の意義を「軽々しいもの」にしているのは、むしろ阿部の方ではないのか。
第五に、阿部は平成九年夏の教師講習会において「あらゆる御本尊は、下附のために総本山から離れる前に」丑寅勤行で祈念される、と述べた。しかし、法主が直接対面して形木本尊の開眼の祈念を行わないのならば、法主自身は、どうやって祈念の対象となる「総本山から離れる前」の形木本尊と、すでに本山から離れた後の形木本尊とを区別しているのか。例えば、本山から離れる前の形木本尊の数と送付先を担当者が阿部に一々報告し、阿部がその都度、それらの形木本尊を思い浮かべて祈念するのか。「総本山から離れる前」とわざわざ念を押すのなら、その言に見合った開眼祈念の具体的手順を示すべきである。また、法主の祈念は時空を超えた甚深のもの≠ニ神秘化して議論を制止したいのなら、「総本山から離れる前」などという時間的表現を使ってはならない。さらに、以前は静岡県の総本山から遠く離れた東京都心の法道院(厳密には法道院内の「仏書刊行会」)で形木本尊の下付を行っていたわけだから、今さら「総本山から離れる前」の開眼祈念を強調する必要がどこにあるのか。これらの様々な疑問に阿部が十分に答えられなかった場合、我々はこう考えるしかない。阿部が「総本山から離れる前」の形木本尊の開眼祈念を力説したのは、いかにも法主が対面して形木本尊の開眼を行っているかのごとく信者に思い込ませるための虚偽表現である、と。
さて、以上の諸考察に基づく私の見解を提示しておきたい。まず、本尊開眼の儀式は、少なくとも大石寺門流の重要な伝統にはなく、わずかに常住本尊や板本尊のために開眼の祈念が行われるにとどまっていた。法主の阿部は、その本尊開眼の祈念を主に丑寅勤行の片手間に行っているが、数の上から圧倒的多数を占める写真印刷の形木本尊については客殿の宝前に供えることなく、非対面の祈念という形をとっている。累計すれば何百万体にも及ぶ形木本尊を、すべて丑寅勤行の宝前に供えることなど、もとより物理的に不可能である。もっとも、阿部のように丑寅勤行等のついでに事を済ますのではなく、形木本尊を開眼するための特別法要を、形木本尊を保管する場所まで法主が出向いて定期的に行うならば、すべての形木本尊に関して常住本尊と同じく対面の開眼祈念を行うことも十分に可能だろう。とくに、信徒数が激減した現在ではそうである。この点から言えば、すべての形木本尊に対面して開眼祈念を行おうとしない阿部の態度は怠慢である、と言われても仕方がない。かくして、阿部の言う本尊開眼の意義とは、こうした怠慢が認められるほど「軽々しいもの」と言うべきなのである。
5 開眼本尊の焼却について
(松岡から阿部への質問)
さらにここで、具体的な事実関係について質問します。あなた方は「御本尊は御開眼により大聖人の御法魂が宿り給う」(『血脈公開論批判』一九五頁)と言われています。しかし、大石寺では以前、まるで人目を憚(はばか)るかのごとく、大坊西寮の近くの倉庫の中に密かに焼却炉を設置し、そこで所化小僧らに返納本尊の焼却をさせていました。私自身も大石寺に在勤していた折、この場所で本尊焼却に立ち会ったことがあります。もちろん、自分自身の体験のみをもって既成事実とみなすことは、研究者としての立場上いたしません。したがって改めてお聞きしますが、今現在、全国の寺院から送られてくる返納本尊を焼却していますか。「はい・いいえ」のいずれかでお答え下さい。また、もし本尊を焼却されているのなら、「大聖人の御法魂が宿り給う」本尊を大量に焼き払っていることになりますが、その点はどうお考えですか。仮に「法主が許可しているからよい」と言うのであれば、まず具体的にどのような手順で許可がなされるのか、ご説明下さい。そして次に、なぜ「開眼」の時と同じく法主が、いわば「閉眼」の儀式を行わないのか、文献的、論理的な根拠をお示し下さい。
(阿部側の回答要旨)
総本山では、全国の末寺より返納された御本尊に関して、しかるべき施設において丁重に「御火中」してきた。「お役目」を終えた形木本尊に具わる「御法魂」は、法主の許可のもとに「御火中」され、かつ丑寅勤行における法主の祈念によって日蓮のもとに還るのである。こと本尊に関する権能は法主にのみ存するのであり、法主の意に反して勝手に本尊を焼却することこそ大謗法行為である。本尊は法主の慈悲により信者に貸し下げられているものである。
(松岡の再批判)
阿部側の回答からわかることを列挙してみよう。
@ 阿部は「大坊西寮の近くの倉庫の中に密かに焼却炉を設置し、そこで所化小僧らに返納本尊の焼却をさせていました」という当方の記述を否定しなかった。したがって、阿部は本山内で人目を憚りながら所化小僧に返納本尊の焼却をさせていた、と断定する。当たり前の話だが、焼却炉というのは安全面からも屋外に設置すべきものである。それなのに阿部は、シャッター付の倉庫の内部に焼却炉を設置し、焼却炉が外から見えないようにして本尊の焼却作業を行っていた。これを「人目を憚る」行為と言わずして何と言うのか。
A 当方がどのようなプロセスで法主が本尊焼却の許可を与えるのか、そしてなぜ焼却前に「閉眼」の儀式を行わないのか、と尋ねたことに対しても、阿部は何の回答も示せなかった。よって阿部は、返納本尊の一々を直接に確認した後で焼却の許可を出しておらず、「閉眼」の儀式も行っていないことが判明する。
B とすれば、要するに法主の阿部は、返納本尊の焼却について何も関知せず、配下の僧侶に任せ切りにしていると考えてよい。かかる姿をもって「御法主上人の御許可」「御法主上人の裁断」による本尊焼却、などと言うのは欺瞞である。正確には、法主の阿部は、自分が知らぬ間に返納本尊の焼却が定期的に行われているのを漠然と黙過している≠ニいうのが実態であろう。
次に、阿部の回答のポイントは「お役目を終えられた御形木御本尊に具わり給う御法魂は、御法主上人の御許可のもとに御火中申し上げ、且つ丑寅勤行における御法主上人の甚深無量の御祈念によって、大聖人のもとに還御遊ばされるのである」(『阿部側回答書』三〇頁)というところに存すると思われる。そこで、この主張の問題点を指摘しておく。
@ 「お役目を終えられた御形木御本尊」と言うが、「お役目」を終えた本尊かどうかを、阿部はいかにして判定するのか。法主が一体一体の本尊を手にとって判定するわけでもあるまい。『阿部側回答書』では、「授与者が亡くなったり、継承する家族の不在などによってお役目を終えられた御本尊」(同前)と言っている。しかし、実際にはそのようなケースよりも、正宗の信仰を捨てた人が返納した本尊、いわゆる「退転者」からの返納本尊の方が多いのではないか。退転者からの返納本尊は、比較的新しい形木本尊であることが少なくない。しかも授与者を救う前に返納されてきた形木本尊なのだから、とても「お役目を終えられた」とは言えないはずである。阿部は、そうした「お役目」を終えていない返納本尊も、厳密に区別せずに焼却している。阿部の珍奇な「役目終了本尊=焼却」論の矛盾がここに顕れている。
A また、たとえ「お役目」を終えた返納本尊であったとしても、なぜ焼却しなければならないのか。「お役目を終えられた御形木御本尊に具わり給う御法魂」と述べられているように、阿部は、返納本尊にも本仏の法魂が宿っていると考えている。阿部から見て、そのように尊い返納本尊を焼却するのは余りにも勿体ないはずである。なのに、恐らく累計で何十万体もの返納本尊を焼却するとは何事か。言行不一致この上ないことである。宗開両祖の直筆本尊はもとより、歴代法主筆のすべての常住本尊は、いかに古く摩滅していても、または継承者が不在の場合でも、決して「お役目を終えられた」とは見なされず、寺宝として総本山内で保管されている。本仏の法魂を宿すという意味では、歴代法主の常住本尊も返納の形木本尊も同じであろう。してみれば、いかに大量の返納本尊を抱えようと、阿部はそれを焼却すべきではなく、寺宝として丁重に本山内で格護しなければならない。阿部の理屈に従えば、そうあるべきである。
B 「丑寅勤行における御法主上人の甚深無量の御祈念」によって、返納本尊の法魂は「大聖人のもとに還御遊ばされる」と阿部は言う。これは過去のいかなる法主も唱えたことのない新説であるが、宗祖・日蓮の教説=「文証」によって根拠づけられるのか。阿部は、これには法主以外は誰も知らない甚深の法門がある、などと言うかもしれない。しかし、たとえ法主だけが知る法門があるとしても、それは日蓮の教説を正しく知るための解釈論でなければならない。すなわち「経・釈・論」に約せば、日蓮の教えは「経」、歴代法主の指南は「釈・論」にあたる。「経」を示せない「釈」「論」はもはや釈論とも言えず、法主の己義となる。ゆえに、阿部が新しい法門(釈論)を唱えるのならば、何よりも日蓮の教示という「経」を示しなさい、と私は言うのである。
C 返納本尊の焼却について、阿部は「丁重に御火中申し上げてきた」「御火中申し上げる儀」(『阿部側回答書』二九、三〇頁)と勿体ぶった表現をしているが、それほど重大な儀式ならば、なぜその「御火中」の儀を所化小僧らに担当させているのか。私の経験から言っても、彼らは教師僧侶から何の指導も受けず、袈裟衣を著することすらなく、極めて事務的に返納本尊の焼却を行っていた。中には読経唱題もせず、まるで薪をくべるがごとく本尊を焼却している者がいた。本尊の法魂を本仏大聖人のもとに「還御」する重要儀式だ、と主張するのならば、法主の阿部自身が法衣で正装し、いかに面倒でも一体ずつ、丁重に「御火中」するのが筋ではないか。私の知るところでは、返納本尊の焼却は、阿部はもちろん、本山執事や内事部の理事、塔中住職も担当していない。大石寺において、返納本尊の焼却は実質的に下等業務とみなされていた。それゆえに、僧階が最も低い所化小僧がそれを受け持たされたのである。
以上、阿部の主張の問題点を指摘した次第であるが、この機会に本尊下付の件にも触れておきたい。阿部は、法主が信者に本尊を貸与することが「御本尊下付の本来の意義」であると考えている。この考えは、宗祖・日蓮の教示と食い違っている。『高橋入道殿御返事』には、「上行菩薩出現して妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生にさづくべし」(全集1458・定本1085)との日蓮の言が存する。 大石寺門流の教学において、「上行菩薩」とは本仏・日蓮の外用の姿であり、「妙法蓮華経の五字」は日蓮図顕の曼荼羅本尊を指している。つまり、本尊を「一閻浮提の一切衆生」に授与する主体は、あくまで末法の本仏たる日蓮その人である。念のために言うが、本仏の法魂を所持する法主も本尊授与の主体である、といった論には何の論理的、文献的根拠もない。あるのは、法主による法主の正当化という循環論法だけである[8]。また「一切衆生にさづくべし」ともあることから、本尊は上行菩薩即久遠元初の本仏から一切衆生に与えられるのであり、阿部の言うごとく「お貸し下げ」されるわけではない。「さづく」とは、「目上の者から目下の者に与える」という意である[9]。そこに「貸す」という意味はまったくないのである。
6 大石寺の唯授一人相承の永遠性について
(松岡から阿部への質問)
『血脈公開論批判』では「そもそも仏法は付嘱の次第により正しく流通されてきたのである。付法蔵二十四人の仏法付嘱、釈尊より滅後末法の弘通を託された地涌の上首上行への結要付嘱、大聖人から日興上人への御付嘱、さらには日目上人以来御歴代上人への相承は、みな唯授一人の付嘱である」(一五六頁)と述べ、「唯授一人」という仏法付嘱のあり方が不変であると説いています。しかし、釈尊以来の「付法蔵」は「二十四人」で断絶し、中国における天台智から章安への付法も、中興の妙楽を経ていつしか形骸化していきました。また、日本天台では伝教から義真への仏法相承が慈覚の代になって早くも異流義化した、というのが日蓮の見方です。天台も、伝教も、日蓮も、むしろ歴史的現実としての血脈相承を受けずに仏法を立てて弘通しています。この事実からみれば、“大石寺門流においてのみ唯授一人の仏法付嘱が断絶しない”と主張するには、相応の根拠が必要です。むしろ大石寺の血脈相承も何時か必ず断絶もしくは形骸化し、しかる後に自解仏乗の悟り、己心の内相承によって仏法を復興する人物が出現する≠ニみた方が、仏教史的にも、日蓮の相承認識の上からも、無理のない見解ではないでしょうか。
まず、仏教史上、唯授一人の仏法付嘱がしばしば断絶したのはどうしてなのか、あなたの意見を述べて下さい。次に、あなた方が「日蓮の仏法の付嘱だけは永遠に大石寺の歴代法主によって行われる」と断定しているのは、単なる宗派的信念の表明なのか、それとも何か合理的な理由があるのか、をお答え下さい。ただし、宗門の内輪だけで通用する「文証」ではなく、文献学的に承認された日蓮文書を基に、しかも、大半の現代人が納得する議論を提出して下さい。要言すれば、少なくとも現代人の理性的判断が許容しうる「文証」と「道理」を出してほしい、ということです。例えば、「代々の聖人悉く日蓮なり」(『御本尊七箇相承』、要1-32)の文によって〈法主の内証=本仏〉の義を立てるような「道理」では、土台となる「文証」の真偽が不確かであるうえに[10]、代々の聖人(法主)が「いかにして」日蓮となるのか、という教義的説明もなされていません。現代人の目には、独善的で怪しげな神秘主義としか映らないでしょう。
なお、あなた方がよく引用する、『百六箇抄』の「上首已下並に末弟等異論無く尽未来際に至るまで予が存日の如く日興嫡嫡付法の上人を以て惣貫首と仰ぐ可き者なり」(全集869)との文については、堀日亨が後人の加筆と判断しています。また、日亨が当文を日蓮真筆と同様に扱ったことを強調しても、法主によって法主を正当化する、という例の循環論法にすぎず、対外的な説得力はありません。同様に、歴代法主の諸文献によって大石寺の唯授一人相承の永遠性を根拠づけることも、循環論法の誤謬に陥ることを指摘しておきます。
ついでながら、本件にかかわる、あなた自身の相承問題について一つだけお聞きします。巷間、阿部日顕が血脈相承を受けておらず、大石寺門流の相承は六十六代で断絶した、と主張する人々がいます。それに対し、あなた方が真剣に反論していることも承知しています。私が関心を持つのは、本当に相承の儀式が行われたかどうか、という問題とともに、通常、大石寺の血脈相承に先立って行われるはずの「師弟の契約」について、あなたが一言も述べていないことです。あなたは、前住の細井日達と何時、どこで「師弟の契約」を結んだのですか。そして師弟の契約を結んだのであれば、あなたは、どうして師匠たる細井氏が精魂込めて作った大客殿、正本堂、庭園などを軒並み壊していったのですか。あなたは、寄進者である創価学会の謗法を理由にしていますが、建立者はあくまで日達です。日達が丹精を込めた大奥の庭園に至っては、学会とは何の関係もありません。なのに、あなたは法主就任後、その庭園を即座に壊し、自分好みに作り変えています。これらは、「師弟の契約」を結んだ者の行為としては理解困難なので、お聞きするのです。また、あなたがなぜ日達の弟子の集まりである妙観会に自ら参加し、同会を積極的に支援しないのか、この点も甚だ疑問です。日達の弟子の立場から、理由を聞かせて下さい。
(阿部側の回答要旨)
釈尊滅後正法時代に仏法を弘通した付法蔵の二十四人、像法時代に仏法を弘通した南岳、天台、妙楽、伝教等の四依の大士は、何れも教主釈尊よりそれぞれの時代における仏法弘通を付嘱せられたからこそ、その付嘱に則って出世し、それぞれ付嘱の任を全うした。しかして、白法隠没と経文に説かれるとおり、釈尊滅後、正法像法時代の本巳有善の衆生の化導が終わり、脱益仏法により救われる機根が無くなれば、釈尊の仏法が滅尽することは、むしろ当然である。
しかし、日蓮の仏法は決して滅尽しない。『日蓮一期弘法付嘱書』に「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり」(全集1600・定本2184)と、また相伝書である『百六箇抄』に「直授結要付嘱は唯一人なり、白蓮阿闍梨日興を以て総貫首と為して日蓮が正義悉く以て毛頭程も之れを残さず悉く付嘱せしめ畢んぬ、上首已下並に末弟等異論無く尽未来際に至るまで予が存日の如く日興嫡嫡付法の上人を以て惣貫首と仰ぐ可き者なり」(全集869・定本なし)と言われているように、末法万年に亘る下種仏法においては日蓮の法魂を在する戒壇本尊と、唯授一人の付嘱による金口嫡々の血脈法水は永劫に存続する。
松岡は文献学的に承認された日蓮文書を基に≠ニいうが、それはどのような基準によって選び出された御書を指すのか。身延の学者同様に、相伝書を大聖人の御指南と見なさないということなのか。ならば松岡に質問するが、松岡は、御書全集にも収録された『御義口伝』『百六箇抄』を、日蓮の正当な指南と認めるのか、認めないのか。認めないというのなら、その理由を公表することが先決である。
また松岡は、血脈相承に先立って行われるはずの「師弟の契約」≠ネどと、さも相承の儀式を知っているかのようにいうが、甚深の相承の義に関して、知りもしないことをいい加減にいうものではない。
さらに諸堂宇の解体について言えば、大客殿は耐震構造上の不備により建て直されたものであり、また正本堂は、寄進者の謗法の邪念に汚されたが故に戒壇御本尊を清浄なる奉安殿に遷座し、これにより無用の長物と化した堂宇を解体したものである。これらの何れも、世法上、仏法上からの当然の措置であった。そして大奥の庭園は、昭和六十三年十月七日に落成した六壺の新築に伴って、限られたスペースの上から、その景観に相応しい庭園として造成されたものである。
松岡はさらにまた、あなたがなぜ日達の弟子の集まりである妙観会に自ら参加し、同会を積極的に支援しないのか、この点も甚だ疑問≠ネどという。だが、妙観会とは、日達より得度を許された直接の弟子の集まりであり、日顕の直接の師匠は別の者であるから、当然日顕は妙観会に所属してはいない。所属していなければ、その会の会合に出席すべき理由がないではないか。法主は全宗門を統率する立場であり、全宗門人の師匠である。よって法主は、全宗門人を全て平等に見るのである。
(松岡の再批判)
ここでも、阿部の奇を衒う新説が披露されている。――正法千年・像法千年説に立てば、それらの時代の仏法付嘱は有限であり、断絶するのが当然である。それに対し、末法は万年・尽未来際なのだから、末法の仏法付嘱すなわち大石寺の血脈相承だけは永遠に存続する――彼らはこう言いたいのだろう。これは余りに粗雑な議論である。
ただちにわかる矛盾をいくつか示しておく。日蓮の見方を採用すると、日本天台宗の第三祖・慈覚が比叡山を謗法化してから、像法時代が終わり末法に入るまでの期間は、約二百年である。その約二百年間は、まだ像法時代の「本巳有善の衆生」が存在したが正法付嘱の流れは断絶していた、ということになる。ゆえに末法においても、救済すべき本未有善の衆生を残しながら大石寺の相承が断絶する、という事態は十分に起こりうるはずである。また像法一千年の間に、正統相承の所在は中国の天台山から日本の比叡山へと移っている。ここから、末法万年における正統相承の所在が富士大石寺から別の教団に移っても不思議ではない、という理屈も成り立つ。
また阿部の説は、日蓮の『観心本尊抄』における「此の四菩薩折伏を現ずる時は賢王と成つて愚王を誡責し摂受を行ずる時は僧と成つて正法を弘持す」(全集254・定本719)という教示と明らかに矛盾する。当文によれば、上行菩薩等の地涌の四菩薩は、「摂受」の時代には出家の僧となって出現するが、「折伏」の時代には在家の賢王となって出現する、とされている。つまり、末法には「摂受」の時代と「折伏」の時代とがある。「摂受」の時代には上行別付の「正法」(三大秘法)を唯授一人相承で伝える僧の意義も重要だろうが、「折伏」の時代になると上行等の四菩薩は在家の「賢王」となって出現する。だから、「僧」が主体となる唯授一人相承はいずれ役割を終え、かわりに在家主体の広宣流布の時代が到来する――そう解釈することは、先の日蓮の予言に基づく合理的推論であると言えよう。この日蓮の予言に照らせば、大石寺の唯授一人相承が永遠に存続する、という阿部の主張は本質論的に否定される。正像二千年・末法万年説を用いて大石寺の相承の永遠性を説明しようとする阿部の新説には相当な無理があり、単なる主観的信念の表明とみなすしかない。
加えるに、阿部は『日蓮一期弘法付嘱書』と『百六箇抄』の後加文を引用し、もって大石寺の相承の永遠性を証する文としている。すでに論じたように、『日蓮一期弘法付嘱書』は日蓮から日興への付嘱に関する書状であり、これを歴代法主間の血脈相承にまで拡大適用するのは「合成の誤謬(fallacy of composition)」という論理的誤りである。そして、「上首巳下並びに末弟等異論無く尽未来際に至るまで予が存日の如く日興嫡々付法の上人を以つて総貫首と仰ぐ可き者なり」(要1-21)という『百六箇抄』の記述が日蓮の真筆でなく後加文であることは、日蓮遺文の文献学的研究上の定説であるだけでなく、宗門の五十九世・堀日亨も認めたところである。
こうした点は当の阿部も先刻承知の上なので、私に対し、「身延の学者同様」であるとか、『百六箇抄』は創価学会の御書全集に収録されているのに日蓮の正当な指南と認めていないとか、見当はずれの非難を浴びせてきている。私に言わせれば、「身延の学者」であろうがなかろうが、学問的な成果は成果であり、その知的探究の努力を無視することはできない。九世・日有も「学問修行の時は宗を定めざる」(要1-68)と述べ、「学問」の超宗派性を認めている。学問的批判は真摯に受け止め、己の信仰信条を固める糧にしていけばよい。それが、道理と文証を重視した宗祖の精神を現代に継承する意義に通ずる。
それから、『百六箇抄』が学会の御書全集に収録されている云々の話については、すでに項目の1で述べたように「人に訴える論証の誤謬」である。つまり本来、私自身の発言内容に関する問題を、私という人の交際関係に事寄せて批判する、という論理の誤りである。これなど、大学の一般教養の論理学で教えられる典型的な論理的誤謬の一つである。いくら学問の素人とはいえ、阿部をはじめとする諸君も大学教育は受けたのだろう。初歩的な論理学の知識ぐらいは、承知しておいてもらいたい。
ところで、創価学会の教義上の変化について親の仇とばかりに非難する阿部の態度を客観的にみていると、素直に一つの感慨を覚える。それは、以前の創価学会は日蓮正宗の信徒団体であり正宗当局の見解を尊重した行動をとるのが当然だったのではないか、ということである。正宗の信徒団体だった頃の学会は、たとえ神話的教説であっても、信徒団体として正宗当局の意向に従うべき立場にあった。だが、阿部が学会を「破門」して以降、学会では宗門の教えの一部にある神話性に疑問を抱き始め、徐々に合理的見解に改めるようになった――こう考えた場合、以前の学会に神話的教説を教え込んだ加害者は日蓮正宗であり、学会はむしろ被害者にあたると言えよう。ただし、創価学会は当初から宗門の神話的教説に懐疑的だったが宗門外護のためにそれを認容し続けてきた、という可能性も考えられなくはない。その意味で、過去の学会が宗門の法主信仰を素朴に支持していた、とは言い切れない。いずれにせよ、阿部は、日蓮仮託の偽書を根拠に法主信仰を得々と信徒に教えてきた自らの不明を恥じ、一刻も早く創価学会や法華講連合会に陳謝すべきである。それを被害者側の学会に非をなすりつけるとは[11]、宗教上の「説教強盗」も同然である。
次に、私が血脈相承に先立って「師弟の契約」が行われる必要がある、と述べたことに対し、阿部は「知りもしないことをいい加減にいうものではない」(『阿部側回答書』三四頁)と顔色を変えて反発している。しかし、阿部が「師弟の契約」を受けたかどうか、という肝心要の問題に対して、同回答書は口をつぐんだままである。これによって、阿部が前法主の細井日達から「師弟の契約」を受けていない可能性は格段に高まった、と言っておく。考えてみれば、「相承箱」の所持すら証明できない阿部の方こそ「知りもしないことをいい加減に」言えないのかもしれない[12]。
「師弟の契約」については、私が知るとか知らないとかいう問題ではなく、大石寺の血脈相承の当事者である法主たちが自ら書き残していることである。例えば、四十八世・日量の『続家中抄』の「日舜伝」には「師下関の次に下谷常在寺に詣り精師に拝謁し師資の契を結ひ山に還る。其後精師尊尼と和睦有り信敬已前の如し、正保二乙酉初冬精師登山有りて同く十月廿七日暁天仏前に於て精師より、金口嫡々の大事を相承し正的第十九の嗣法なり」(要5-270)とあって、十九世・日舜が十七世・日精から「金口嫡々の大事を相承」される前に「師資の契」を結んだことが明記されている。また、三十五世・日穏による血脈相承の実施記録の中にも「元師の曰若し此法を受け玉ふに付ては身不肖手前の弟子と成り玉へと予云長く大法大恩の師範と仰ぎ奉るべし元師曰然らば弥々相違なき堅の盃参らすべしとて則御始あって余に被下頂戴して御返盃申す師弟の契約極まり畢ぬ。因師言今日の元師は日因が弟子なり日穏師は日元師の弟子なり如此三人師弟一双なる処則是事の一念三千なり」云々とある[13]。三十三世・日元は三十五世となるべき日穏に対し「此法を受け玉ふに付ては身不肖手前の弟子と成り玉へ」と言い、日穏はこれを受けて日元・日恩の「師弟の契約」の儀が執り行われる。それを見届けた隠尊の三十一世・日因は、日因―日元―日穏という師弟の系譜が成立したことで三人が「師弟一双」となり「事の一念三千」の妙境が成就されたと説く。その意義の下で「一大事の秘法」の血脈相承が行われていくのである。この記述を読むと、「師弟の契約」は金口相承を受けるための必要条件であるようにみえる。それゆえ私は、先の質問状の中で「大石寺の血脈相承に先立って行われるはずの『師弟の契約』」と表現したのである。
そして「師弟の契約」を結ぶにあたり、弟子となる日穏が師となる日元に対し「長く大法大恩の師範と仰ぎ奉るべし」と誓っていることを見て、細井日達を「大法大恩の師範と仰ぎ奉」らねばならぬ阿部に、そのような素振りがまったく見られないのを非常に不思議に感じ、質問したわけである。
これに関連して、改めて阿部に聞いておきたいことが一、二ある。『法主信仰擁護書』では、『続家中抄』の「日舜伝」における「師資の契を結び」という箇所を「血脈の内付」「実質的な御相承」のことであると説明している(二一頁)。とすると、その「血脈の内付」から四年後に日精が日舜に「金口嫡々の大事を相承し」た(要5-270)、との記述があるのはなぜか。阿部はこの「金口嫡々の大事」の相承を「儀式として行われたもの」と言い張るが(『法主信仰擁護書』二一頁)、「金口嫡々の大事」の相承とは実質的意味など持たない、単なる「儀式」なのか。そうではないだろう。日元―日穏の血脈相承の記録を見ても、彼らは「師弟の契約」の後で「一大事の秘法御付属」を行っている。「師資の契」や「師弟の契約」は、あくまで信仰上の「契約」にすぎない。「師資の契」や「師弟の契約」の後の金口相承が単なる形だけの「儀式」ならば、「金口嫡々の大事を相承」「一大事の秘法御付属」などという表現が、とくに「大事」「一大事」という言葉が、そこで用いられるわけがない。ゆえに日舜について言えば、彼は信仰上の「師弟の契約」を結んだだけで、実質的な「金口嫡々の大事」を相承せずに本尊書写をしていたのである。これは、「金口嫡々相承を受けざれば決して本尊の書写をなすこと能はず」[14]という五十六世・日応の主張と矛盾する。ゆえに私は、阿部に注意を喚起する意味も込め、本年の『大白蓮華』九月号への寄稿文の中で軽く触れておいたのである。
また、もう一つ、阿部の「内付」問題に関しても問い質しておく。昭和五十四年七月二十二日の「重役会議」の席上、阿部は「実は昨年四月十五日、総本山大奥において猊下(六十六世・日達のこと=筆者注)より自分に対し内々に、御相承の儀に関するお言葉があり、これについての甚深の御法門の御指南を賜ったことを御披露する」と述べた。このことは、昭和五十三年四月十五日に阿部が「血脈の内付」を受けた、という意味に解してよいのか。よいのであれば、阿部に聞きたいのは「血脈の内付」の意味するところである。
阿部は、『法主信仰擁護書』の中で「『師資の契を結び』とはまさしく血脈の内付があったことを示している」(二一頁)と述べている。そこから敷衍していくと、昭和五十三年四月十五日における日達と阿部の対面は師弟契約の儀式だった、ということになる。
ところが、阿部はこの対面の席で「甚深の御法門の御指南を賜った」とも主張している。これは、阿部が金口相承の内付≠受けたことを意味しているのか。先の宗史上の諸事例が明白に示しているように、大石寺門流における金口相承の儀式とは本来、「内々に」行われるものではない。「内々に」なされる可能性があるのは、師弟契約の方であろう。
一体、阿部の言う「血脈の内付」とは何を意味するのか。阿部は、もっと明確に定義すべきである。『続家中抄』の「日舜伝」にしても、日穏の血脈相承の記録にしても、師弟契約と秘法伝授(金口相承)とは、はっきりと区別されている。〈師弟契約=秘法伝授〉という解釈は、史料の上から否定される。だとするならば、阿部は、そのどちらを指して、「血脈の内付」と称するのか。阿部は、かの「重役会議」の折には自分が金口相承の内付≠受けたかのごとく発言し、今回の『法主信仰擁護書』では師弟契約が内付である≠ニ言っている。もしや阿部は、師弟契約と秘法伝授の区別すらできていないのではないか。
ことは阿部が真実の法主であるかどうか、にかかわる重大事項である。本稿は内外の研究者に贈呈され、公的な図書館等にも長く保管されるであろう。どうか良心に従って、正直に思いを述べてもらいたい。もし阿部が真に血脈相承を受けた法主ならば、相承の事は法主のみが知ることだから、部外者が云々する資格などない≠ニいった感情的な秘密主義の態度はとらず、『続家中抄』の「日舜伝」や日穏の血脈相承の記録と、自分の発言や記述との論理的整合性について、冷静沈着に説明できるはずである。
ところで話は変わるが、大客殿にしても、正本堂にしても、阿部が永久に師範と仰ぐべき日達が心血を注いだ建物である。どのような理由があろうと、先師が誇りをもって後世に残した建立物は可能な限り維持・管理していくのが法を嗣いだ者の当然の礼であり、「長く大法大恩の師範と仰ぎ奉るべし」という血脈の受者にふさわしい態度である。ところが阿部は、大客殿、正本堂だけでなく、六壷、「流れの庭」、大化城と、日達が丹精を込めて造り上げた建物等を軒並み取り壊し、日達の代に植樹された総坊周辺の二八〇本に及ぶ桜を伐採し、日達が挿し木した子持ち杉まで根こそぎ掘り起こした。
とくに六壷については、日達が防火を第一に考えてコンクリート造りの六壷を建てたのに対し、阿部はわざわざそれを焼失しやすい純木造建築に建て替え、新六壷の落成法要における「慶讃文」の中で「木造建築ニ恒久優雅ノ性アル」と述べるなど、日達が生きていれば激怒するような態度をとっている。また『阿部側回答書』では、大客殿の建て直しの理由として「耐震構造上の不備」(三五頁)を挙げている。だが、建て直しにあたって大石寺側から耐震診断の依頼を受けた、大客殿の設計者の横山公男は、解体を強行しようとする阿部の説明に「私達の耐震診断およびその報告書の著しい歪曲」があったと指摘し、宗内に訴えている[15]。結局、阿部は、日達が防火第一でコンクリート造りにした大客殿を、またもや木造建築に建て替えた。以上の諸点を総合的に判断するに、日達―日顕の間に「師弟の契約」があったとは考えられず、反対に、阿部は日達に相当な敵対感情を抱いている、と推察する方が合理的なのである[16]。
阿部が日達の遺弟の集まりである「妙観会」に対して冷淡なのも、日達に対する阿部の敵対感情を考えれば納得がいく。このことも、日達と阿部の間に「師弟の契約」がないことを傍証するものと言えよう。私が「なぜ細井氏の弟子の集まりである妙観会に自ら参加し、同会を積極的に支援しないのか」と質問したことに対し、阿部は「宗門に関し素人丸出しの短見」(『阿部側回答書』三六頁)などと狭い宗派根性をむき出しにして罵倒し、いわゆる「法類」による師弟関係を得意げに説明している。しかし、それこそ師弟関係を形式的にしか捉えられない信仰上の「素人」の言であろう。十五世・日昌は要法寺の円教院の弟子であり、かの日辰の訓育を受けたとされる。出家の師を最重要視する阿部の師弟観に従えば、日昌は、日主から血脈相承を受けた後も、第一義的には要法寺僧の弟子だったのか。要法寺と大石寺との通用が正式に始まった時期であり、日昌には出家の師を捨てた意識などなかったろう。事実、そのような記録も残っていない。阿部の師弟観は、史実との整合性を欠く形式論である。
改めて阿部に尋ねる。貴君は日達の弟子なのか、弟子ではないのか。はっきり答えてもらいたい。「師弟の契約」を結んだ付法の弟子ならば、たとえ妙観会に所属していなくとも、心情的に「その会の会合に出席すべき理由がない」(同前)などと言えるわけがなかろう。馬脚を現すとはこのことである。また「全宗門人を全て平等にご覧遊ばされる」(同前)のが法主ならば、自分の弟子の集まりに毎回出席しているように、妙観会にも「平等に」出席すればよい。なぜむきになって、妙観会への出席に否定的態度を示すのか。ことほど左様に、阿部の師弟解釈は感情的かつ矛盾だらけである。阿部こそ「過去無量劫より已来師弟の契約有りしか」(『最蓮房御返事』、全集1340・定本621)という日蓮仏教の深遠な師弟の精神を知らず、皮相的な手続き上の師弟関係をもって、本来あるべき「宗門の師弟のあり方」と取り違えている顛倒者なのである。
ついでに付言しておくが、「そもそも血脈相承をお受け遊ばされた御当人であられる日顕上人が、日達上人より血脈をお受けした、と仰せられており、そのことは御登座以来の御法主のお立場におけるあらゆる宗門教導のお姿が証明しているのである」(『阿部側回答書』三四頁)との記述は、前半部分が極めて低次元な循環論法であり、後半部分では「感情に訴える論証の誤謬(fallacy of arguments which appeal to sentiments)」「文意あいまいの誤謬(fallacy
of amphibology)」が目に余る。もう少し、論理性のある文章を書いてもらえないだろうか。これでは、当方も真剣に応答することができない。
7 金口相承の内容の未公開について
(松岡から阿部への質問)
金口相承の内容や文献が永遠に未公開であることの証左として、あなた方は十七世・日精の「当家甚深の相承の事。全く余仁に一言半句も申し聞かす事之れ無し、唯貫首一人の外は知る能わざるなり」(『当家甚深之相承之事』、歴全2-314)や五十六世・日応の「たとい広布の時といえども別付血脈相承なるものは他に披見せしむるものに非ず」[17]を引用します。これは、昨年末に出した私の論文の中で日寛によって金口相承の法門は理論的に整束され、開示された≠ニいう主張を出したことに対する反論ですが、どうも議論のすれ違いがあるようです。私が言いたかったのは、「たとえ大石寺門流の金口相承である法門や文献の内容が非公開のままだとしても、日寛の『文底秘沈抄』はすでにその教義上の核心を開示し終えている」ということであり、それゆえに「理論的開示」という表現を用いたのです。唯授一人、金口相承の法門に関する私の理論的開示説は、あなた方のいう相承文献の永久非公開説と矛盾しません。
そのことを踏まえたうえで、私はあなた方の永久非公開説に対し、強い疑念を抱いています。なぜならば、あなた方は、かつての法主が「非公開の唯授一人相承である」と規定した諸文献を「それは唯授一人ではない」と否定しているからです。例えば、『御本尊七箇相承』がそうです。十七世・日精は、この文献の相承によって本尊書写の資格が与えられると考えました。彼が著した『家中抄』の「日興伝」には「亦本尊の大事口伝あり是れを本尊七箇口決と申すなり、是の故に師に代りて本尊を書写し給ふ事亦多し」(要5-154)と、そして「日目伝」にも「亦本尊七箇決を相伝し給ふ、之れに依て元徳正慶の間師に代って本尊書写し給ふ」(要5-187)とあります。この『家中抄』の記述の真偽はともかくとして、日精が「本尊七箇口決」を本尊書写にかかわる極めて重要な法門とみたことは確かです。また、二十六世の日寛は、『御本尊七箇相承』を唯授一人相承の非公開文献とみなしました。『取要抄文段』に「本尊七箇の口伝、三重口決、筆法の大事等、唯授一人の相承なり。何ぞこれを顕にせんや」(文段集599)と、また日寛の講義を三十世・日忠が筆録した『観心本尊抄聞記』には「本尊七箇、又本尊筆法等は一向に言わざる也。貫主一人の沙汰也」(研教12-589)と記録されています。
かくのごとく、日精から日寛にかけての江戸中期の大石寺では、現在の『御本尊七箇相承』『本尊三度相伝』等の内容が非公開とすべき「唯授一人の相承」であり、これらの文献の相承をもって本尊書写の資格を生ずるとしたことがうかがえます。ところが、前出の『血脈公開論批判』は「『御本尊七箇之相承』には保田日山・嘉伝日悦の写本、『本尊三度相伝』には水口日源の写本が存在する。このように大石寺の御法主上人による写本以外のものがあるということは、これらの書が重要書ではあっても、唯授一人金口嫡々の血脈相承書とは言えないことを明らかに示すものである」(八八頁)などとして、先の日精や日寛の言説を完全に反故にしています。今、あなた方が、唯授一人相承の重要文献に関する過去の法主の文言を否定するのであれば、大石寺の「法燈連綿」「法水写瓶」は看板に偽りあり、と自ら白状したのも同然です。先に述べたごとく、いわゆる「文底秘沈」の文が寿量品のいずこを指すのかについても、九世・日有と二十六世・日寛とでは意見が異なっています。将来、大石寺の「唯授一人金口嫡々の血脈相承」の法門や文献は時代により変化していた、という真相が究明されるのではないでしょうか。この点、あなたの意見を聞かせて下さい。
(阿部側の回答要旨)
松岡の説では、大石寺の金口相承について日寛の『文底秘沈抄』がその教義上の核心を開示し終えているという。しかし松岡説には大要、次のような誤りが存する。
@ 日寛は、日養と日詳に唯授一人の血脈相承を行っている。このことこそ、日寛が『六巻抄』等に開示した法門とは別に、絶対に開示されてはならない唯授一人の血脈が存在するという厳然たる証拠である。
A 松岡は『六巻抄』にある「秘すべし」等の言説を取り上げて、それが唯授一人の秘法であるかのごとく思わせようとしているが、「秘すべし」との語は、『六巻抄』が門弟に講義されたという性質上、当然、他門に対して「秘すべし」と仰せられたものであり、大石寺門流の僧侶に対して秘密にされていたという意味ではない。
B 金口相承≠ノついてその教義上の核心≠開示し終えていると推考しているが、大石寺の金口嫡々の血脈相承は松岡が知ることのない唯授一人なのであり、その不識不知の松岡に『文底秘沈抄』が金口相承≠フ教義上の核心≠ゥ否かを判断する前提も資格もない。
C 日寛が述べた人法体一の本尊論は、その時代の機縁に応じて述べた法門であり、その根源となる唯授一人血脈相承の法体そのものを示したものではない。即ち人法体一の根本は「南無妙法蓮華経 日蓮」と書写された本尊にあり、日興をはじめ代々の法主はその根本の法体を血脈法水の上に承継している。つまり「唯授一人、金口相承」は、日応が「此の金口の血脈こそ宗祖の法魂を写し本尊の極意を伝ふるものなり之を真の唯授一人と云ふ」[18]と言うように「宗祖の法魂を写し本尊の極意を伝ふるもの」であって単なる法門相承ではない。松岡の論は、金口嫡々の相承と法門相承をあえて混同させた戯論に過ぎない。
また松岡は、日寛の『法華取要抄文段』の「本尊七箇の口伝、三重口決、筆法の大事等、唯授一人の相承なり。何ぞこれを顕にせんや」(文段集599)や日忠筆録の『観心本尊抄聞記』の「本尊七箇、又本尊筆法等は一向に言わざる也。貫主一人の沙汰也」(研教12-589)を引き、そこに「唯授一人の相承」「貫主一人の沙汰」とあることをもってこれらの文献の相承をもって本尊書写の資格を生ずるとしたことがうかがえます≠ニ主張している。しかし、『法華取要抄文段』は日寛が登座以前に著したものであり、そこに「何ぞ之を顕わさんや」と言っているのだから明らかに「本尊七箇の口伝」や「三重口決」について内容を承知していた上での発言である。『御本尊七箇之相承』や『本尊三度相伝』は本尊に関する大事の相伝書ではあるが、日寛が著述に引用したり、他山にも写本があることからも明らかなように、極秘伝の金口嫡々の相承ではない。しかるに、「唯授一人の相承」「貫主一人の沙汰」と記されているのは、『御本尊七箇之相承』や『本尊三度相伝』が門下に伝承されていたという実態とは別に、本尊書写の大権を持つ法主が、両書に含まれる血脈相伝の深義をそう述べたのである。また「何ぞ之を顕わさんや」「一向に言わざる也」とは、本尊に関する深義が甚深の法門なので、扱いに慎重を期した教示なのである。
さらに松岡の質問状には、「いわゆる『文底秘沈』の文が寿量品のいずこを指すのかについても、九世・日有と二十六世・日寛とでは意見が異なっています。将来、大石寺の『唯授一人金口嫡々の血脈相承』の法門や文献は時代により変化していた、という真相が究明されるのではないでしょうか」