阿部日顕への公開質問状(七〇項目)

阿部日顕への公開質問状(七〇項目

 

一、先に私は、日淳法主から日達法主への血脈相承の儀式を実例に挙げつつ、「『御相承箱』の外見を何らかの形で宗門僧侶に示せばよい」「相承箱の写真を撮り、公開するだけでもよい。なぜ阿部には、それができないのか」と問いただした。これに対し、日顕は平成十七年十二月十三日付文書の中で「明確に拒否する」(一三八頁)と回答を拒否した。これにより、日顕が相承箱を所持していないことは、ほぼ確定したと言ってよい。とすれば、去る十二月十二日未明の丑寅勤行の終了後に、総監の八木日照・大石寺理事の小川只道・仲居の小林道剛ら数名の警護の下、総本山客殿で極秘裏に行われた阿部日顕から早瀬日如への唯授一人血脈相承は、相承箱もない虚偽の儀式だった可能性が極めて高い。日顕に問う。

(一)相承箱を用いずに、大石寺の唯授一人血脈相承を行ってもよいのか。

(二)万一、相承箱を用いたとするならば、それは、今までどこにあったのか。また現在は、大石寺内のどこに格護されているのか。

(三)去る十二日未明に行われた〈相承〉の儀式においては、誰が相承箱を守護して〈相承〉の行われた客殿まで運んだのか。

一、今回、日顕は、邪義破折班の者に「日達上人と日顕上人の間には厳然と師弟の契約がおありになった」と明言させた(十二月十三日付文書六〇頁)。史実に照らせば、「師弟の契約」は相承の儀に先立って行われる。とすれば、日達法主と阿部信雄(当時)との間の「師弟の契約」は、昭和五十三年四月十五日の「内付」より前に行われて然るべきである。ならば聞く。

(四)阿部信雄が日達と「師弟の契約」を結んだのは、昭和五十三年四月十五日以前の何年何月何日の何時なのか。この点は、今後、『富士年表』を改訂する際に明らかにせねばならぬ問題であり、はっきりと答えるべきである。

また、昭和五十三年四月十五日以前に、日顕が日達法主と「師弟の契約」を結んだと言うのならば、昭和五十三年二月七日、東京・千代田区の帝国ホテルで河辺慈篤(当時、徳島県・敬台寺)と面談した折の、日顕の日達批判が問題となる。いわゆる「河辺メモ」によれば、この時の面談において日顕は、河辺に対し「G(=日達法主のこと)は話にならない」「今後の宗門の事ではGでは不可能だ」等と述べ、日達法主の宗務行政上の方針を激しく非難している。

(五)当時、すでに時の日達法主と「師弟の契約」を結んでいたであろう阿部信雄が、なぜ「師」と仰ぐべき日達法主を「話にならない」などと口汚く罵ったのか

(六)また「河辺メモ」の内容が河辺の主観であると言うのならば、ここで阿部信雄が非難している「G」とは、一体誰のことなのか。そして「河辺メモ」における河辺の「主観」とは、内容的にどこが主観的表現にあたるのか。具体的に指摘せよ。さらに、なぜそれが河辺の「主観」と言えるのか。客観的な理由を述べよ。 

一、私が「法主の阿部は、形木本尊を目の前に安置して開眼の祈念を行っていなかった」と断定したことに対し、日顕らは今回、次のごとく全面否定してきた。「日顕上人は御登座以来、御形木御本尊を含む全ての御本尊を丑寅勤行の御宝前にお供えし御開眼されておられるのだ。しかも、未表装・未彫刻の段階で御開眼し、さらに表装・彫刻後にお清めをされるという厳正なものである」(十二月十三日付文書四四頁)。私も、日顕がここまで大ウソをついてくるとは、予想だにしなかった。思えば、法廷の場でも平然とウソをつき、重要な主張をクルクル変更しようが、何ら恥じないような鉄面皮である。さすがは日顕、と恐れ入るしかない。この一点だけでも、日顕は、宗門の全教師から内心で「大ウソツキ者」と笑われるだろう。

私は断言する。私が大石寺に在勤していた時代、丑寅勤行の御宝前に、すべての御形木御本尊の本紙を供える、などということはなかった。ましてや表装後の軸の付いた御形木御本尊のすべてを、「お清め」のために丑寅勤行の御宝前に供えることなど、絶対に有り得ない話である。宗門が創価学会から離れる前、下付される御形木御本尊の数は莫大なものだった。何十万体もの御形木御本尊のすべてを、前後二回も丑寅勤行の御宝前に供えるとなると、これは毎回の搬送作業だけでも空前の大作業である。日顕よ、なぜそこまで子供じみたウソをつくのか。私は要求する。そして問いただす。

 

(七)日顕が登座してから退座するまでに下付した形木本尊の総数を公表せよ。

(八)その莫大な数の御形木御本尊の本紙を誰がどうやって丑寅勤行の御宝前まで運んだのか。また表装後の御形木御本尊のすべてを丑寅勤行の御宝前まで運び、それを下ろす、という大作業をいかなる手順で行ったのか。

(九)それらの作業は、平均すると何回に一回の割合で、丑寅勤行の折に行われたのか。

(一〇)東京の池袋・法道院から全国の末寺に御形木御本尊を出していた時代、なぜ大石寺の丑寅勤行の御宝前に御形木御本尊を供えて開眼の祈念を行わなかったのか

(一一)念のため、「開眼の儀式は化儀であるから四悉檀の上より、時機に応じてどのようなあり方があっても不思議ではない」(十二月十三日付文書四五頁)などと逃げを打つことを想定し、「それならば、御本尊開眼の儀式における第一義悉檀とは何か」「また〝御本尊開眼の儀式は法主にしかできない〟という明確な日蓮大聖人の御文証を示せ」とも言っておく。もし日顕が、唯授一人の秘法たることを理由にして私に回答しなかった場合、当方は「道理を立てずして無理に唯即身即仏と云わば例の天魔の義なり」(『諸宗問答抄』)「経文に明ならんを用いよ文証無からんをば捨てよ」(『聖愚問答抄』)との大聖人のご教示に背くものとみなす。

自らの体験と合理的推測に基づく私の証言を「事実無根の妄言」「全てが虚偽」と非難する以上、日顕は右の質問のすべてに詳細に答えねばならない。御本尊開眼の大事である。勿体ぶって口をつぐむのは、かえって御本尊軽賤の大罪となることを心せられよ。

一、私は、「開眼」されたはずの御形木御本尊を大石寺内で大量に焼却している、という事実を指摘し、疑問点をいくつか日顕に質問した。今回、日顕はその一部について返答してきたが、私にとって納得できるものではなかった。そこで、再質問を行う。
日顕は「お役目を終えられた御形木御本尊」を「御火中」するのだ、と主張する。それに対し、私は「『お役目』を終えた本尊かどうかを、阿部はいかにして判定するのか」と問うた。日顕の答えは、「総本山に返納されたということが、お役目を終えられたことを意味している」(十二月十三日付文書五二頁)であった。ならば、聞きたい、

(一二)被授与者を救済する前に総本山に返納されてきた御本尊までも「お役目を終えられた」と判断するならば、御形木御本尊の「お役目」とは一体何なのか。明確に定義せよ。

(一三)宗開両祖の直筆御本尊をはじめ、歴代法主の常住御本尊は、総本山に納められたとしても、決して「お役目を終えられた」とはみなされない。むしろ、それらの御本尊は寺宝となり、山内大衆の信仰対象として長く格護される。御本仏の「法魂」を宿すという意味では、歴代法主の常住御本尊も返納の御形木御本尊も同じである。なのに、日顕はなぜ、返納の御形木御本尊に限って「お役目を終えられた」とし、その「御火中がもっとも適切な化儀」(同前)であるとさえ言い張るのか。御本仏の「法魂」を宿すとされる以上、返納の御形木御本尊も常住御本尊と同じく寺宝として丁重に格護されるべきであり、それこそが「もっとも適切な化儀」ではないのか。

(一四)日顕は、丑寅勤行における法主の祈念によって返納御本尊の法魂が「大聖人のもとに還御遊ばされる」と主張する。そして、この説を裏づける「文証」として「一身一念法界に遍し」との妙楽大師の文を出してきた。しかし日蓮大聖人は、この妙楽の文を根拠として、御本尊の「法魂帰還説」を説いてなどいない。私は、焼却中の御本尊の「法魂帰還説」を明らかに説いた「文証」の提示を求めたのである。私の質問をはぐらかし、逃げようとするのは卑怯である。そうではないか。

(一五)また、御本仏の「一身一念」を「法魂」と呼ぶのであれば、法魂はもとより宇宙法界に遍満しているのだから、改めて法魂を「還御」させる必要もない。日顕よ、どうなのか。さらに言えば、すべての人間、すべての存在は宇宙法界の一部であり、もとより御本仏の法魂に包まれている。よって、法主だけが法魂を専有するという理屈も成り立たない。日顕の法主信仰は、ここに崩壊する。それでもよいのか

(一六)御本尊の「御火中」という、「法魂」を御本仏のもとに返す重要な儀式を、なぜ法主の日顕が自ら執り行わないのか――私がこう尋ねたことに対し、日顕らは「御法主上人が全ての法務を御一人でできるのなら、一般僧侶は不必要である」(同前)などと、まさしく「子供じみた」(同前)言い訳を返してきた。私は、返納御本尊の「御火中」を法主が「一人でできる」かどうか、を問題にしたのではない。そうではなく、法主の日顕が二十七年間、自らの手で一度も返納御本尊の「御火中」を行わず、「一般僧侶」の最下位にあたる所化小僧にそれをやらせていた、という呆れた実態を告発したのである。これこそ、御本尊軽賤の最たるものではないか。日顕に今一度問う。御本尊の法魂を御本仏に返す「御火中」の儀を、なぜ一度も自分自身で執行しなかったのか。また、法主を補佐すべき総本山の執事・塔中住職・山内教師らに、なぜ御本尊火中という最重要儀式の「代理」をさせなかったのか。なぜ所化小僧という半人前の修行者を、御本尊火中の大事に携わらせたのか。すべての質問に、真正面から答えよ。

一、右に述べた返納御本尊の取り扱いを見ればわかるように、日顕時代の大石寺では、各種法務に対する取り組みがじつにいい加減であった。もう一例、信徒に対する、日顕の許しがたい背信行為を弾劾しておこう。平成二年四月に行われた「全国宗務支院長会議」の質疑応答の場において、日顕は驚くべき問題発言をした。

岐阜県のある僧侶が末寺の印刷塔婆使用について質問した際、庶務部長の早瀬義寛(当時)は〝本山が印刷塔婆にしたのだから、末寺の塔婆も本山に準じていけばよいのではないか〟と答えた。この時、質疑応答を受ける形で日顕が口をはさみ、〝塔婆の申し込みが多くて、本山で書き切れない塔婆が十万本以上もたまってきた〟などと、大石寺で印刷の塔婆を使うようになった理由を説明し始めた。ところが続けて、日顕はあろうことか「今までの(十万本以上たまっていた)塔婆は、一本大きい塔婆を立ててご破算にした」との趣旨の発言を行ったのである。

つまり、日顕は、信徒から十万本以上に及ぶ塔婆建立の願い出を受けながら、それを約束どおりに実行せず、九尺の大塔婆を一本だけ立てて済ましたわけである。追善供養の真心を平然と踏みにじった日顕の怠慢・背信の大悪行は、永遠に許されるものではない。次の質問に、日顕は心して答えよ。

(一七)〝法主が一本立てれば十万本分の塔婆供養になる〟というのは、いかなる道理と御書の文証とに基づくのか。明確に示せ。示せないのなら、邪義によって信徒を欺いたのだから、速やかに公式謝罪を行え。また、このような虫のいい理屈が通るのなら、毎日、大石寺で大塔婆を一本だけ立て、末寺における塔婆供養は原則的に廃止すべきである。宗門はなぜ、そうしないのか。

日顕の「塔婆サギ」発言は、当時の宗務支院長らが直に聞いている。恐らくは、テープで会議の模様を録音した者もいるだろう。それ以外にも、日顕から「塔婆サギ」の指示を受けて実行に移した、当時の大石寺の内事部関係者や塔婆室の者たちがいる。変にウソの釈明を行うと、日顕は宗内の者たちから陰で嘲笑され、死後、法主除歴の動きにますます拍車がかかるであろう。

一、今回の公開質問状では、原則として教義面の質問は行わないことにした。しかし、日顕が退座直前に焦って出した十二月十三日付文書には、目に余る教義逸脱の表現が多々みられる。一点だけ追及しておきたい。「汝は〝究極の法体〟を〝戒壇本尊〟のみとしているが、法体相承が本門戒壇の大御本尊とともに本尊の体の相伝も含むことは……」との記述が、同文書(八〇頁)にはある。

さりげなく書かれてあるが、「本門戒壇の大御本尊とともに本尊の体の相伝」とは、まさに〈信仰対象が二つある〉という表現そのものではないか。もしくは、「本門戒壇の大御本尊」がそれ自体では「本尊の体」を持たない〈抜け殻〉であるかのごとき、大変な問題発言である。一体どういう意味か。日顕に質問する。

(一八)「本門戒壇の大御本尊」の中に「本尊の体」はあるのか、ないのか。

(一九)あるのならば、なぜ「本門戒壇の大御本尊とともに本尊の体の相伝」などと言い、「大御本尊」と「本尊の体」を区別する表現を用いたのか。

〝大御本尊と本尊の体は一体だから「とともに」という表現をしたのだ〟といった、稚拙な弁解はやめてもらいたい。なるほど、「ともに」という語には「ひとつになって」「いっしょに」(『広辞苑』)という意味がある。だが、「ひとつになる」という現象自体、元々二つのものがある、ということが前提になっている。つまり、日顕は常に、「大御本尊」と「本尊の体」とを切り離して考えたうえで、両者の一体不二を論じているのである。

そこには〝法主が「体」で戒壇の大御本尊は「用」〟とする、左京日教の説の受け売りの、異端的な法主信仰が隠蔽されている。「本門の本尊といっても唯授一人の血脈相承を所持なされる御法主上人を離れては利益成就はない」(平成十七年九月十二日付『松岡雄茂の「法主信仰の打破」なる邪論を破す』一八頁)という日顕の主張は、まさにそのことを証していよう。
けれども日顕の説く法主信仰など、誰から見ても矛盾だらけである。日顕は、次の質問にまともに答えられるか。

(二〇)「隠尊」となった日顕は、依然として「本尊の体」を所持しているのか。その場合、現法主の早瀬日如も「本尊の体」を所持しているはずだから、「本尊の体」が二つあることになる。言うまでもなく、「体」は一つである。今現在、日如と日顕のどちらに、真の「本尊の体」があるのか。

一、十二月十三日付文書において、日顕は「末法無戒の中にあって、日蓮正宗においては厳格な出家の意義を堅持していることは……寺院世襲制の排除等により明白である。世間の仏教各宗派と比較してみよ」(一二九頁)と言い放っている。最初に指摘するが、寺院世襲と出家の意義とは全くの別問題である。一般的にも、家庭を持った在家僧が寺院世襲を行わないケースは、探せば山ほどある。見え透いた論点のスリカエは止めよ。

次に、日顕は、あたかも現在の日蓮正宗が寺院世襲を厳しく禁じているかのごとく装っている。たしかに日蓮正宗では、表向きは寺院世襲が禁じられている。しかし実際には、寺院世襲よりも、もっと悪質な「寺院私物化」が横行していると言わねばならない。それは、主に寺院財産の不透明な取り扱いという形をとり、近年の日蓮正宗内で隠然と行われている。

寺院私物化の最たるもの、それは今般の阿部日顕夫婦による「豪邸隠居」事件であろう。今、日顕は、東京都世田谷区、緑豊かな等々力渓谷の近くに佇む和風建築の旧大石寺出張所を、当然のごとく隠居後の住まいとして私物化している。この日顕夫婦の行為は、宗教法人の財産の横領に等しい。そもそも都心の一等地、しかも約十億円をかけ、贅を凝らした豪邸に「隠居」する仏教宗派の法主など、一体どこにいようか

歴史を顧みると、近代の大石寺法主の多くは、俗塵を離れた山中の寺院施設を隠居所にしている。五十九世・堀日亨上人は法主を退座直後、総本山の雪山坊に移っている。そして戦後、日亨上人は三祖・日目上人の生誕地である静岡県伊豆の畑毛に「雪山荘」を建て、移り住んだ。日亨上人はここで、隠居の身でありながら宗学研究に専心し、『御書全集』『富士宗学要宗』の編纂という大事業を成し遂げられた。

先師有縁の山深い地で、木綿の袈裟・衣を着して質素極まる生活をし、令法久住に余生の全てを捧げた日亨上人の御姿は、「隠尊」法主の亀鑑を示していると言ってよい。それは、まことに純粋な信仰に貫かれたものであった。日亨上人は、将来、この雪山荘を「弘教の道場」とすべきことを念願する石碑も残されている。わざわざ日目上人ご生誕の地を選んだことと言い、雪山荘は日亨師の私的な隠居所ではなく、あくまで宗門の「道場」、すなわち寺院として意義づけられていた。

また、この日亨上人を陰湿な策謀で追い落とした阿部日顕の父、六十世の阿部日開でさえも、猊座を譲った後は、本山内に再建された蓮葉庵に移り住み、終の棲家としている。戦後を見ても、第六十三世・日満法主は、高知県の本因妙寺で隠居後の余生を送っている。

さらに、未亡人となった法主夫人に関しては、寺院生活を継続することすら許されなかった。第六十五世・日淳法主の未亡人や、第六十六世・日達法主の未亡人などは、在家の身内の世話になりながら、ひっそりと生活した。

このように、隠居後の法主や法主夫人の生活は、宗教関係者の「隠居」と呼ぶにふさわしく、一様につましいものだった。ところが今回、阿部日顕夫婦だけは、日本の首都・東京でも有数の高級住宅地にある、総費用十億円、総床面積三百㎡超と言われる大邸宅に「隠居」したのである。これを、宗門法主にあるまじき「豪邸隠居」と言わずして、何と言うのか。そのうえ日顕夫婦は、総本山に来たときのために、日顕の父・日開が住んだ蓮葉庵も、改築工事を行って独占的に使用するという。かくも自由勝手な隠居法主は、宗門史上、まさに前代未聞であろう。日顕よ、日蓮正宗・前法主の名を騙るのであれば、次の質問に答えよ

(二一)阿部日顕は、歴代先師の多くがそうしたように、なぜ本山の坊や宗門の末寺等において隠居後の生活を送らないのか。

(二二)阿部日顕は、なぜ日亨上人の雪山荘生活のように質素な田舎の隠居暮らしを行わず、東京都内でも屈指の高級住宅地で、大富豪が住むような邸宅に暮らしているのか。

(二三)阿部日顕・政子の夫婦は、日頃は総本山の蓮葉庵に住み、上京の際には渋谷区松涛の大石寺出張所の一室を借りるか、板橋区内の長男の寺(妙国寺)に泊まる、という方法をとることもできる。なぜそうしないのか。

(二四)渋谷区内に別の大石寺出張所を作った時点で、阿部日顕は、なぜ世田谷区内の旧大石寺出張所の方を速やかに売却しなかったのか。つまり、この数年間、なぜ都内に二つも大石寺出張所とみなしうる施設を持ち続ける必要があったのか。

一、口にするのも汚らわしいが、私が「(遊興目的の)〝パイプカット手術そのものを絶対にしていない〟と言明してほしい」と要求したことに対し、日顕は「当然このような事実はない」と否定した。そして、「身体のプライバシーに関わる、しかも〝遊興目的〟の避妊手術をしたかしないかなどという下品な質問について、事実関係を確認もせずに本にして出版するという汝の神経は、もはや常人ものではない」(十二月十三日付文書一二二頁)と述べ、私を強く非難した。しかし私は、日顕のパイプカット手術を事実と断定したのではなく、むしろ事実を知りたいがために日顕に質問したのである。この問題について、事実関係を確認する方法は一つしかない。それは、日顕自身が信頼できる医療機関から「阿部日顕の身体に、パイプカット手術を行った形跡は認められない」という専門医の診断書をもらい、公開することである。『同盟通信』が平成五年六月に初めてこの疑惑を取り上げた頃、日顕は七〇歳だった。その時点で即座に精子確認等の検査を受け、憂宗護法同盟を名誉毀損で訴えていれば、日顕は間違いなく勝訴し、失墜した名誉を回復できたに違いない。

(二五)今頃、私に対し「人権尊重のかけらもない」「下卑た本性」「腐った性根」などと激怒するのなら、なぜ平成五年の疑惑発生時に専門医の一枚の診断書が取れなかったのか。そして、なぜ速やかに名誉毀損の訴訟を起こさなかったのか。

またパイプカット疑惑を全面否定する以上、日顕は、噂の出所になった高野永済(後の高野日海)と大村寛子(大村日統の妻)との両名に対し、公式謝罪を強く要求すべきである。今や猊座を降りたのだから、面目にこだわる理由もなかろう。日顕に告ぐ。大石寺法主の尊厳性を守りたいのなら、速やかに私の質問に答え、宗内外の疑念を晴らすべきである。

一、日顕の面目と言えば、この機会にもう一つ、はっきりさせたいことがある。平成六年に発行された憂宗護法同盟著『法主の大醜聞』(イースト・プレス社刊)において、阿部日顕の父親は六〇世の阿部日開ではなく、後に常泉寺住職を務めた高野法玄(能化名は日深)である、という驚愕すべき疑惑が発覚した。この疑惑が真実だとすれば、彦坂信夫(後の阿部日顕)は彦坂スマ(後の阿部妙修)と高野法玄との間に出来た子供だったが、後に阿部日開の子として認知された、ということになる。

断っておくが、私は出生の秘密を持った人を不当に差別する気持ちなど、毛頭持っていない。しかしながら日顕の場合、「法主の子息」という〝毛並みの良さ〟をアピールして、宗門内の出世コースを駆け上がっていったと言われる。その意味で、もし日顕が日開の実子でなかったとするならば、日顕は偽りの〝血統〟を多分に利用して宗門の教学部長や宗務総監の職、引いては法主の座を射止めたのではないか、とも思えてくる。

すなわち、この疑惑は、よく世間で騒がれる経歴詐称と同質の問題をはらんでいると言わねばならない。しかるに日顕は、先の『法主の大醜聞』の告発に対し、今日に至るまで十一年余り、口をつぐんだままである。そこで私は、経歴詐称に準ずる〝血統詐称〟の疑惑を糾明するという意味から、日顕に対し、次の質問を行う

(二六)彦坂信夫(阿部日顕)は、大正十一年十二月十九日、東京市本所区向島小梅町一六五番地に生まれ、母の彦坂スマは翌年の一月十二日、信夫の出生届を出した。ところが父とされる阿部日開が信夫を認知したのは、昭和三年六月二十三日、信夫が六歳の時であった。それまでの間、信夫はいわゆる私生児の扱いを受けたことになる。そこで当事者である彦坂信夫=阿部日顕に聞くが、お前の父の日開は、なぜすぐにお前を認知しなかったのか。また、お前はなぜ、当時の法主の日開ではなく、日開と同郷の桜井仁道の弟子にならねばならなかったのか。宗内外の積年の疑問が氷解するような、道理を尽くした説明をせよ。

一、 拙著『阿部日顕の教学に対する十の批判』(以下『日顕宗学批判』と略記)の巻末には、日顕時代における大石寺・大納骨堂の内部写真が掲載されている。この写真は、青年僧侶改革同盟の岡崎雄直氏が大石寺に在勤中、当時の納骨関係の担当者だった川田法成(総本山塔中・報恩坊)の指示によって撮影した写真の中の一枚である。

私がこの写真を改めて取り上げたゆえんは「当時の大石寺では、信徒から預かった遺骨を、使い古しの米袋や黒ビニールのゴミ袋に詰め込み、乱暴に放置していた」という事実を証するためであり、私は阿部に「当時の大石寺の最高責任者として、どう道義的責任をとるのか」と迫った。ところが開き直った阿部は、「根拠もなく粗末な袋であるとの印象を与えようとしている」(十二月十三日付文書一二一頁)と呆れた弁解をしている。

日顕よ、お前には良心というものがないのか。もう一度、『日顕宗学批判』の [ 資料G ] をよく見るがよい。水浸しになって破れ、無惨にも遺骨が飛び出した米袋。米袋の上部は、茶色や白のガムテープが乱雑にペタペタと貼り付けられている。あるいは、まるで古新聞をくくるようにビニールヒモで十文字にギュウギュウに縛られている遺骨もある。大石寺に遺骨を預けられた方々は、「百聞は一見にしかず」でこの写真を見て激怒した。だから遺族の有志が訴訟を起こし、平成十五年四月八日、東京高裁は大石寺に対し、合計二百万円の慰謝料支払いの命令(後に最高裁で確定)を下したのではなかったのか。それを、いまだに開き直って「誤解」とうそぶくなど言語道断である。

しかも「御遺骨を安全に運搬するためには特に丈夫な袋が求められる。それが一般に米を入れるのに用いられる袋である」(同前)と言うに至っては、開いた口が塞がらない。日顕に聞く。

(二七)遺骨を安全に運搬したいのなら、紙やビニールの袋は避けるのが一般常識であろう。日顕はなぜ、例えば金属ないし陶器の箱等を使って遺骨を運搬するように指示しなかったのか。

(二八)それほど遺骨を「安全に運搬する」ことにこだわるのなら、なぜ納骨作業を中学生の小僧にやらせていたのか。

(二九)なぜ、使用済みの米袋を遺骨運搬に使ったのか。その行為は、遺骨を預けた遺族の心情を踏みにじることだと思わないのか。

(三〇)なぜ、カロートまで運び終えた時点で、すべての遺骨を袋から取り出しカロートの中に丁重に安置しなかったのか。

日顕は、当時の大石寺の最高責任者として、これらの質問のすべてに真剣に答える義務がある。

一、日顕は、十二月十三日付文書の中で「日蓮正宗の出家は寺院世襲の厳禁など、他宗他門に比しても特に厳しい定めがあり」(一〇五頁)云々と豪語している。このような欺瞞の言は、身内の宗門教師からも失笑を買うだけだろう。

現在の日蓮正宗では、実際には有力血族による寺院の世襲化が公然と行われている。端的な例を挙げると、早瀬日如は新法主になるまで、父・日慈の後を継いで法道院の主管を務めていた

(三一)本来ならば、日顕は、早瀬日慈の長男を法道院の後継主管に任命する際、なぜ前主管の息子を後継主管に任命したのか、なぜそれが世襲にあたらないのか、について宗内外に客観的に説明しなければならなかった。それでこそ「寺院世襲の厳禁」を標榜する宗派の法主であろう。過去の実績や僧階等によって厳正に人選を行った場合、早瀬よりも適任と目される高僧や能化は、他に幾人もいたと思われる。しかるに日顕は、早瀬親子の「世襲」を否定するに足る、正当な理由を全く示さなかった。それはどうしてか。

なお、早瀬日如の後任の法道院主管には総監の八木日照が任命され、その八木のいた総本山塔中の妙泉坊に、八木の娘婿である宗形道玄が入った。あまりに露骨な、寺院世襲の人事と言えよう。宗形の屈折した性格や力量不足は、山内の誰もが認めるところである。八木の娘婿と言うだけで、人望も力もない宗形が妙泉坊住職の座を譲り受ける――宗門の血族主義もここまで来たか、と慨嘆せざるをえない。

また日顕の長男である阿部信彰は、日顕の娘婿にあたる早瀬義純が早世した後、義純が住職を務めていた大寺院・東京都板橋区の妙国寺の住職を引き継いでいる。これなども、寺院世襲と同じ類の、寺院の血族支配にあたると言えよう。「違う」と言うのならば、

(三二)なぜ、阿部信彰を適任者として妙国寺住職に任命したのか、その正当な理由を明らかにせよ、

と日顕に問い質したい。阿部信彰については、その異常な人間性に宗内僧侶の大半が辟易している。彼が東京都内の寺院に入ったり、宗務院の庶務部長になったりしたのは、ひとえに「親の七光り」に他ならない、と考えられている
信彰が宗務院幹部に登用され、大寺院の住職に抜擢されたのは、日顕が管長在任中の出来事である。日顕には、不公平な血族主義を宗内にはびこらせた嫌疑がかけられているのである。私の質問の数々に潔く答えよ.

一、渋谷区松涛の大石寺出張所について「内部は贅を尽くした本格的な京風建築であり、松の銘木を使った回廊に和風庭園、大理石張りの浴室、一千万円のシステムキッチン、大邸宅用の床暖房、壁には一千万円の『備長炭シート』まである、という人もいる。これらは本当の話なのか、ウソなのか」と私が問い質したことに対し、日顕は「デタラメを言うにもほどがある」「日蓮正宗の僧俗は、大石寺の出張所が質実な建物であり、適正に運用されていることを了知している」(十二月十三日付文書一一八、一一九頁)と、理由も示さずに全面否定している。私は、あくまで事実確認のために質問をしただけである。質問を頭からデタラメと決めつける日顕の思考は、明らかに錯乱している。

それはともかく、松涛の出張所の内部に関しては、すでに平成十一年の五月十七日付、並びに同年十一月十七日付の『創価新報』が詳細に報道しており、私の事実確認のための質問内容もそれに基づいている。同紙の記事は、実際に松涛の出張所の内部を見た「関係者」の証言によっている。都内随一の高級住宅地に立つ、約三百五十坪の同出張所の取得に約二十六億円かかったというのは、同紙によれば、購入に十五億円、改修に一億円、その後の建て替えに十億円が使われたからだという。非常に客観的な、理に適った説明である。改めて日顕に問う。

(三三)どんなに低く見積もっても二十億円は下らない松涛の出張所が、どうして『質実な建物』と言えるのか。

(三四)大理石張りの浴室、一千万円のシステムキッチン等々の報道が「デタラメ」「狂人の勝手な憶測」であると言うのならば、なぜ松涛の出張所を宗内の一般僧侶や信徒に広く公開し、そのことを立証しないのか。

(三五)日顕は、渋谷区松涛の出張所の入仏式で「種々の会合等も執り行っていく」と公言したが、結局は一度も松涛の出張所で信徒の会合を開催しなかった。公約を破った理由は何か。

一、『日顕宗学批判』では、僧侶妻帯の弊害を論ずる中で、日顕の妻・政子が平成二年から三年にかけて、京都の超高級オートクチュール、エステサロンなどで約二億円の散財をしていたという疑惑があることを指摘し、「本当なのかウソなのか」と質問した。しかるに日顕側の回答は、「御法主上人の夫人におかれては……必要に応じて京都において、極めて常識的な買い物等をされたことがあるとのことである」(十二月十三日付文書一一六頁)というものだった。ならば問う

(三六)超高級エステサロンに出入りすることは、大石寺法主の妻として「極めて常識的」なことなのか。

かつて『中外日報』紙は、京都市内の超高級エステサロンに出入りする阿部政子の現場写真を入手し、掲載している。写真はウソをつかない。阿部政子が超高級エステサロンに出入りしたことは、紛れもない事実である。さらに問う。

(三七)以前に京都に住んでいたとはいえ、なぜ静岡の寺の法主夫人が、わざわざ京都まで何度も買い物に行く必要があったのか。少欲知足で死身弘法に挺身すべき法主を、懸命に陰で支えるはずの法主夫人が、かくのごとき有閑マダムの状態でよいのか。しかも総監夫人等を引き連れ、大名旅行よろしく新幹線で京都行きを繰り返すことが、はたして法主夫人として『極めて常識的な買い物』の姿と言えるのか。

一、本年、日顕は私に対し「正しい道理に適った生活となっていくところに、本門戒壇の大御本尊を信受する金剛宝器戒の功徳が存する」などと説教してきた。そこで私は、後藤信和の淫行逮捕をはじめ、正宗の教師僧侶が度々おぞましい犯罪行為を行い、世間の非難を浴びていることを指摘した。すると日顕は、「僧侶の中にも時に淘汰されたり、反省が求められる場合もある」「個々人の信心の迷いの結果が罪障として顕れることもある」(十二月十三日付文書一二〇頁)等と言い訳を始めた。要するに、素行不良の正宗僧侶は修行未熟の者であり、ごくまれな存在と言いたいようである。ところが現実は正反対であり、宗門にあっては高位の僧ほど、堕落が激しい。その典型は遊興目的のパイプカット疑惑など、スキャンダルまみれの日顕その人である。そして、他の高僧もひどいものである。

『日顕宗学批判』の中で指弾したように、現在、能化にして重役の高位にある藤本日潤は、過去に脱税行為を摘発され、追徴課税をされている。呆れたことに、日顕らは「ミスを税務署から指摘されるということは、それを隠す意図などなく、むしろ適正に会計を行おうとする意志の表れといえる」(十二月十三日付文書一一二頁)と藤本を弁護している。姑息な言い逃れは見苦しい。言っておくが、藤本の場合は、意図的とみられる「所得隠し」を摘発されたのである。今一度、問う。

(三八)藤本は、借地権更新の書き換え料として得た収入を宗教法人の会計に入れず、夫人名義の口座に隠し持っていたとされる。とすれば、これは悪質な「所得隠し」ではないのか。日顕は、この藤本の疑惑を、自らの僧侶生命を賭けて否定できるか。

(三九)向島税務署から悪質な「所得隠し」を摘発され、追徴課税された藤本日潤・現日蓮正宗重役は、「むしろ適正に会計を行おうとする意志」を持った者として賞賛されるべきなのか。

日顕らの言い分が通るならば、世の中は脱税がまかり通り、国家財政は破綻するしかない。まさに狂人の理屈である。

(四〇)また、同じく正宗の能化の一人である秋山日浄の堕落ぶりはどうか。酒席において和服の女性と腕を組み、ニヤけた顔で写真に納まることが、修行を極めた日蓮正宗の能化の姿なのか

(四一)今回、大石寺の主任理事となった佐藤慈暢も、夜遊びに目がない。ホステスの肩に手を回し、満足げな顔で二人切りの写真を撮られているではないか。これはどういうことか。佐藤を本山に移動させた日顕に尋ねる。

かくして私は結論せざるを得ない。「今の日蓮正宗では高位になるほど道理から外れた堕落生活に陥り、若手教師の淫行事件等は氷山の一角にすぎないのだ」と。

一、日顕は今回、邪義破折班に「我らが調査したところ、御法主上人が今までに所持された着物で一番高価なものは、池田大作(創価学会名誉会長)より御供養された当時として数十万円のものである。普段着の和服としてそのような高価な着物を所持されたり、お召しになることなど、絶対にありえないとのことである」(十二月十三日付文書一一四頁)と言わせている。信じがたい話であり、日顕の和服姿の写真等を見ると、とても数十万円クラスのものには見えない。専門筋の人が和服姿の阿部の写真をみたところ、少なく見積もっても一式で数百万円、恐らくは一千万円以上のものだろう、とのことである。今後、私としても本格的な調査を行うつもりだが、その前に日顕に確認しておきたい。

(四二)百万円を超える着物を所持していたことなど「絶対にあり得ない」とのことであるが、今後も、絶対に総額百万円を越える額の着物は着ない、と約束できるか。

日顕は〝最高でも数十万円程度の着物しか持っていない〟と強く主張し、私のことを「汝の性根はもはや腐り果てている」(同前)とまで徹底的に誹謗した。再度、念を押す。

(四三)もし、ウソをついて私を誹謗したことが判明した場合、私の面前で土下座して謝罪する、と約束できるほど自信を持って、百万円以上の着物の所持は「絶対にありえない」と言い切れるのか。

一、昭和六十一年十一月二十二日、東京赤坂の超高級料亭「川崎」で正宗僧侶二名の古稀祝が行われた。当時の法主・日顕はそこに招かれ、九名もの芸者を呼んで共々に遊興にふけった。その際に撮られた記念写真が、有名な日顕の「芸者写真」である。それが後に公開され、法主にあるまじき遊蕩行為として内外から糾弾された。この問題について、私は「少欲知足」という宗祖大聖人の御聖戒を破った、という観点から日顕を弾呵し、質問を行った。ところが日顕は、「要するに汝は芸妓が接待に居たことを問題にしているのである」と質問をはぐらかし、「一般的な良識を持ち合わせた人ならば、芸妓が日本文化の情緒を伝える女性ならではの職業であることに、全く異論はないはずである」(十二月十三日付文書一〇九頁)などと愚にもつかぬ言い訳に終始した。私は、日顕が芸者(芸妓)に接待されたことを問題視して質問したのではない。もう一度、『日顕宗学批判』で出した質問を提示する。今度、往生際悪く質問をはぐらかしたら、日顕は宗門内からも愛想をつかされるだろう。また私との質疑応答の記録は、末長く公的な研究機関等に所蔵されるはずである。日顕よ、後生の名誉を重んずるなら、心して回答せよ。質問は、以下の三点である。

(四四)少欲知足たるべき大石寺僧の古稀祝を、赤坂の高級料亭で行うことに対し、なぜその場で厳しく注意をし、自らは立ち去らなかったのか。

(四五)芸者を九人も呼ぶ必要があったと思うか。思わないのなら、なぜ、その場で主催者に注意を与え、自らは立ち去らなかったのか

(四六)贅沢な宴会に対する抗議の意思表示として、なぜ芸者の酌を受けることを拒まなかったのか。

一、昭和五十八年一月七日、日顕は自分の還暦祝を日本屈指の高級ホテル「ホテル・オークラ」で行った。この件について、私は『日顕宗学批判』の中で、「なぜ『少欲知足』の範を垂れるべき法主の阿部が『ホテル・オークラ』という、日本でも超一流のホテルで還暦祝いをしなければならなかったのか。費用は一体いくらかかったのか。なぜ参加者に着物の着用を要求したのか。以上の質問にすべて答えてもらいたい」と日顕に真意を問うた。それに対し、日顕は「汝がとやかくいうべき問題ではない」「それは、極めて常識的な形で行われており、汝が邪推するような華美・高額のものではなかった」(十二月十三日付文書一一一頁)と逃げ口上を並べている。どんなに姑息に逃げようと、私は日顕に問い続ける。

(四七)日顕は「常識的」という言葉がことのほか好きなようだが、何を基準に「常識」を判断するのか。なぜ「常識」ではなく、大聖人の御金言を判断基準としないのか。

(四八)超高級ホテルの「ホテル・オークラ」で仏教僧が還暦祝を行うことが、どうして「極めて常識的」であると言えるのか。

(四九)「華美・高額のものではなかった」と言うが、実際にホテル側に支払った金額の合計はいくらだったのか。

信徒の供養を預かる日蓮正宗管長(当時)として、日顕にはこの質問に答える信仰上の責任がある。

一、日顕は、日蓮正宗の修行について「これが出家ではないというなら、日本に出家者など居ない」(十二月十三日付文書一〇五頁)「世間の仏教各宗派と比較してみよ」(同書一二九頁)などと息巻いている。よくも、こんな大ボラを平気で吹けるものだ。私が知るかぎり、日顕時代の日蓮正宗は、日本の仏教界において最も堕落した修行者の巣窟と化していた。実例を挙げれば枚挙に暇がないが、質問形式で具体的に問い質していくので逃げずに答えよ。

(五〇)平成元年頃、大坊の学生が勉強もせず、いつも隠れてマンガばかり読んでいるので、日顕は、いっそのこと自由にマンガが読めるように、と大坊の図書室にマンガコーナーを設置することを提案し、それが実現した。この事実を日顕は認めるか、認めないか。また、修行途上の小僧に寺内で自由に娯楽マンガを読ませる仏教宗派が他にあると思うか

(五一)大石寺近辺のスーパーマーケット「マルシュウ」では、大石寺の所化小僧による万引きに悩まされ、一時期、大石寺の学生が入店する前に、手提げ袋の類を一時預かりしたことがあったという。このエピソードの真偽はさておく。日顕は、自分が大石寺住職だった頃、「マルシュウ」で大石寺大坊の学生による万引きが問題になっていた、という事実を認めるか、認めないのか。

(五二)日顕の孫であり、邪義破折班の一員である阿部正教は、得度した年に同期生から金銭を盗み、所化寮でも何度か盗みを働いたことによって早くも下山処分を受け、親元に帰された。この事実を日顕は認めるか、認めないか。

(五三)『日顕宗学批判』において、私は、下山処分を受けた日顕の弟子の数を公表するよう要求し、「もし公表できなかった場合、公表できないほどの多くの弟子たちが不祥事を起こしている、とみなす」と日顕に通告した。しかるに日顕らは、今回の十二月十三日付文書の中で、私の要求を黙殺し、回答不能に陥った。よって阿部日顕時代の大坊では、所化小僧による万引き・窃盗・飲酒・喫煙・暴力行為等が蔓延し、軽く百名を超える下山処分者を出すほど荒廃していた、とここに断定する。阿部正教の万引き下山事件は、その中の氷山の一角にすぎない。かくもひどい大石寺大坊の実態があるにもかかわらず、「これが出家ではないというなら、日本に出家者など居ない」などと豪語する根拠は一体どこにあるのか。

私がいた頃の大石寺大坊の所化小僧は、一般青少年とほとんど変わらぬ俗的生活を本山で送り、テレビもみれば、ロック等の軽音楽も楽しみ、マンガも読み、折々に遊園地へ行ったり、映画鑑賞も楽しんだり、と何不自由ない生活を享受していた。深夜に丑寅勤行の供がある、と言っても月二、三回の当番制にすぎず、その他の作務も軽労働だった。大学生になって東京に行くと、黒皮のハーフコートに身を包み、夜の歓楽街へ繰り出しては酒色にふける所化が非常に多くなる。中には山澄信玉のごとく、風俗店通いのために一月に数十万円もつぎ込む者が出る始末だった。かくも醜悪極まる堕落坊主を大量生産しておきながら、「厳格な出家の意義を堅持している」「少年得度者の厳しい修行」「世間の仏教各宗派と比較してみよ」などと、よく言えたものだ。日顕に申し渡しておく。

(五四)大石寺大坊の所化小僧の修行が、例えば曹洞宗の大本山・永平寺における雲水の過酷な修行よりも厳格である、と言えるのか。具体的に両者の修行を比較し、客観的に証明してみよ。

また、日顕は「日蓮正宗において、特に少年得度者の場合、中学一年生になる時に、文字通り『父母の家を出て』総本山に登り、それ以後の一切、僧侶としての分を外れ、父母の家に居住することが禁じられている」(十二月十三日付文書一〇四頁)とも言うが、まことに見え透いたゴマカシである。たしかに日蓮正宗では、「父母の家を出て」修行者になった少年が、一定期間は大坊での集団生活や在勤寺院での寄宿的生活を余儀なくされる。しかし成人して教師の資格をとり、一寺の住職になれば、父母を呼んで再び同居が可能になる。そして結婚して子供を作り、いわゆる「三世帯同居」をする住職もいる。とすれば、この現実は、実際には「父母の家」に戻り、職業は別にして「父母の家」を継いだのと同じことではないか。むろん、このような日蓮正宗の教師住職の姿は「在家」そのものである。さらに言えば、かかる在家住職を父に持ち、その父を師範とし、父の寺で得度し、所化の修行を行う者もいる。代表例は阿部信彰である。その場合は、「父母の家」を一度も出ることなく、生涯、「在家」として僧形者生活を送っているのである。いかに言い繕おうと、現在の日蓮正宗に真の「出家」など一人もいないのである。

ところで、日顕の代筆者となっている邪義破折班の諸君の中には、大坊の小僧の頃、理不尽な暴力やイジメを受けた者が少なからずいる。そのことを指して「少年得度者の厳しい修行」などと称しているのなら、大なる勘違いである。教えておくが、それは厳格な修行でも何でもなく、大坊教育の荒廃がもたらした児童虐待の悲劇に他ならない

私の記憶では、邪義破折班の長谷川信達など、得度まもない中学一年生の頃、よく大学卒業後の一年在勤の所化たちの「遊び道具」にされていた。口にするのも憚られる話であり、詳しくは述べない。まさに畜生以下の人非人の世界、それが大石寺大坊の偽らざる「修行」の実態だった。長谷川には、まだ当時のトラウマが残っているのではないか。なのに、長じて諸悪の根源たる阿部日顕の手先になり、荒廃し切った大坊の修行を美化する仕事に携わるとは、本当に因果な青年である。今後とも「厳しい修行」と言い張るのなら、私自身が目撃した内容を公開する用意もある。

この際、邪義破折班の森岡雄樹についても触れておく。森岡は高校中退後、紆余曲折を経て得度した「一般得度者」である。屈折した粘着質の詭弁家であり、同じ邪義破折班の後輩・磯辺雄則は、森岡とともに配属された歴代室で長年にわたり忍従を強いられた。一度は、大ゲンカしたこともあると聞いている。ところが日顕は、森岡の詭弁能力を評価したため、現在は邪義破折班の中心的メンバーに取り立てられている。

しかし森岡には酒乱の気があり、修行中の所化時代から、よくトラブルを起こしていた。酒を飲み、教学部書記だった原田輝道と殴り合いの大ゲンカをしたのは有名な話である。所化の身であるにもかかわらず、夜になると、しばしば本山を抜け出していた。ベレー帽を被り、富士宮市内のスナック等に出入りしては「画家」と称して泥酔し、醜態をさらしていた。スナックで酔いつぶれて動けなくなった森岡を、私が仕方なく迎えに行き、タクシーで自室まで送り届けたこともある。そのように、所化時代から堕落した振舞いが目立った森岡雄樹が、もし「これが出家ではないというなら、日本に出家者など居ない」などと書いた張本人だとしたら、とんだお笑い種である。もはや詭弁の域を超え、空想の世界でも描くようになったのだろうか。

一、 日顕による十二月十三日付文書の中で、最も許しがたい記述は、あろうことか故人の死を冒涜しながら私を脅迫しているところである。すなわち、憂宗護法同盟の椎名法昭住職や創価学会の野崎勲副会長を「下卑た己の本性をさらけ出し」た「邪智の極悪人ども」と口汚く誹謗中傷し、あたかも日顕に敵対したから御二人が逝去されたかのごとく記述した後、「同類の松岡、汝も気を付けるがよい」(一一一頁)と脅し文句を吐いている。一読して私は、宗教テロ組織による犯行声明文を連想した。日蓮正宗は、いつから敵対者の呪詛を前面に掲げるようになったのか。『顕仏未来記』にある「願くは我を損ずる国主等をば最初に之を導かん」という御本仏の大慈大悲が、日顕の言説には微塵も感じられない。

(五五)日顕よ、いかなる大聖人の御書の文言に基づけば、「汝も気を付けるがよい」などという、恐喝犯まがいの脅迫的言辞が出てくるのか。それが、御本仏・日蓮大聖人の末弟を名のる者の口にすべき言葉なのか。答えよ。

人の死というものは、基本的には個々人の過去世の宿業や因縁によって決定される。したがって寿命の長短を基準に、「罰」なのか否か、を一律に判断することはできない

(五六)日顕は、野崎副会長が六十一歳で早世されたから「罰」だと言いたいのか。ならば、六十余で早世した者は全て「罰」なのか。答えよ。

何より、人の死について「罰」を言いたいのならば、確実な「文証」と「道理」が必要である。ところが日顕は、大石寺教学史において出所不明の法主信仰に基づき、椎名氏や野崎氏の寿命に対して悪辣な侮言を吐いている。日顕に告ぐ。

(五七)ある人物の寿命に関して「罰」を言いたいのならば、信頼できる御書の文証(録内・録外に収録された日蓮文書、及び近代以降の遺文集に収録された日蓮大聖人の真蹟断簡)を示し、さらに低次元の循環論法を脱した仏教的道理をもって説明してみよ。

何度も言うが、「代々の聖人悉く日蓮なり」との文は、『御本尊七箇相承』の「七箇相承」の後に追加された条目の一文である。『本尊論資料』では、「補」として扱われている箇所にあたる

(五八)当文を含む追加の四項目が、成立当初より日蓮大聖人から日興上人への本尊口決の相承に含まれていたのならば、同相承は『御本尊十一箇相承』と呼ばれて然るべきである。あるいは、「師の曰はく法界の五大は…」と「御判形の貌・一閻浮提のなりにて御座すなり…」との二箇所も相承の条目とみなすならば、『御本尊十三箇相承』とも呼びうる。しかるに大石寺門流では、なぜ十一項目あるいは十三項目にわたる本尊相承書を指して「七箇」の相承と称してきたのか。主観的推測ではなく、同相承の成立過程を文献学的に解明したうえで、客観的に説明せよ。

日顕にそれができるか。できずに、追加条目の中にある「代々の聖人悉く日蓮なり」との文を日蓮大聖人の金口の直説とみなすのは、不当仮定の虚偽にあたる。よって日顕は今後、一切、当文を大聖人の真の口伝として扱ってはならない。また『富士宗学要集』第一巻における日亨上人の所見は、それのみでは客観的根拠となりえない。宗門史料を公開する際、日亨上人は、あえて護教的配慮をとられたことが多々あるからである。

(五九)だいたい、日精の造読問題に関しては日亨上人の説に反対する日顕が、なぜ『御本尊七箇相承』の時には亨師の見解を重視するのか。

ご都合主義はやめよ。また、いわゆる『百六箇抄』『本因妙抄』の後加文は、日蓮大聖人の御文言ではないから「文証」にはならない。創価学会は、終始一貫、この後加文を後加文として認識している。ただ、法主信仰に染まる前の宗門を外護していた時期の学会は、宗門の見解を一応は尊重し、これらの後加文をあえて真蹟扱いしていたにすぎない。以上の諸点をすべて考慮したうえで、日顕には、他人の死を宗祖に背いた「罰」であると放言するに至った、確たる「道理」と「文証」を示してもらおう。

またさらに、許しがたいのは、かかる「文証」も「道理」も全く示すことなく、まさに故もなく、不慮の事故や災害等において亡くなられた学会員の方々の死を、日顕が得意になって誹謗し吹聴していることである。『富木殿御書』には、「涅槃経に云く」として「悪象の為に殺されては三悪に至らず悪友の為に殺されては必ず三悪に至る」と仰せである。これは、〝不慮の事故等において死んでも、それだけでは三悪に至らない。しかし「悪友」にたぼらかされて死ねば、必ず三悪に至る〟との意味にとれる。とすれば、

(六〇)災害等で亡くなられた学会員の方々は、出所不明の法主信仰という邪法を説く日顕のような「悪友の為に殺され」たのではなく、「悪象」による事故であるから「三悪に至らず」の教示に該当する、と言わねばならない。日顕よ、この私の説明に対し、合理的な反論ができるか。

むしろ、「悪友の為に殺され」た、と言いうるのは、日顕宗の一部の者たちであろう。日顕の長女の夫にあたる早瀬義純は、日顕のお先棒を担いで法主信仰を吹聴し、五十七歳の若さで急死した。同じく、日顕流の法主信仰を宗会議長として支持した早瀬義雄も六〇歳で早世した。日顕の指示を受け、海外での檀徒作りに奔走した海外部長の尾林日至は最近、重病にかかり、海外部長の辞職に追い込まれた。その息子の尾林信正に至っては、まだ三十一歳の若さで奇病により死亡している。仏法者として、私は彼らの逆縁の成仏を心より祈っている。そのうえで、日顕に忠告の意を込めて問いたい

(六一)日顕の最愛の娘の夫である早瀬義純が五十七歳で急死したことについて、仏法の上から、どう捉えているのか。

(六二)また早瀬兄弟の死と、椎名氏や野崎氏の逝去との違いについて、前述したような、正当な道理と文証をもって説明できるのか。

日顕の災害観について、さらに追及する。日蓮大聖人の御書のいずこに、災害にあった人々を責める言葉があろうか。何はさておき、被災者に同苦するのが御本仏の御心であろう。その御心に背き、手前勝手な「現証」を捏造して言いふらす日顕には、次の諸点を問い質したい。

(六三)日顕は、「阪神大震災」において「どれほどの学会員が犠牲となり被災したのだ」(十二月十三日付文書一二四頁)などと居丈高に言うが、それでは、どうやって学会員の被災者の実状を正確に調査したのか。風聞の類ではなく、実証的な根拠を示せ。

(六四)「阪神大震災」の被災地域における法華講員の世帯数はどれだけで、そのうち被災した者は何名いたのか。信頼できる統計によって示せ。そして、法華講員の被災率と学会員の被災率との違いを、厳密な統計学的手法を用いて明らかにし、公表してみよ。かかる調査も行わずに、日顕らが一、二の風聞や主観的体験等を元に学会員の被災を言いふらすのは、布教妨害を目的とした悪質なデマと言うしかない。

(六五)日顕は今回、二〇〇四年十二月に起きた「インドネシア・スマトラ沖地震」において、数十万人もの日蓮正宗信徒が無事だった、と主張している。では聞くが、当時、その被災地域内に居住していた、日蓮正宗の本尊を受持信行する信徒世帯数はどれほどだったのか。また日顕は、どのような方法で現地信徒の被災状況を調査したのか。大地震等において、被災者数の正確な把握は、専門家でも非常に困難と言われる。身内の日顕宗関係者からの主観的報告など、簡単に信用できるわけがない。日顕よ、誰から見ても公正な、被災状況の調査方法とその結果とを我々に示せるか。示せないのなら、日顕の言は単なる憶測である

(六六)『開目抄』に「順次生に必ず地獄に堕つべき者は重罪を造るとも現罰なし」との御指南がある。これによれば、時には謗法者が災害を免れる場合もあろう。ゆえに、被災して犠牲になったか否か、という事実だけでは、仏法の正邪は判定できない。仏法の災害論は、法門上の根拠を最優先すべきである。なのに、日顕はどうして、正当な「道理」や「文証」を第一義とせず、被災状況のみを殊更に強調して災害論を説くのか。

(六七)『日顕宗学批判』で私が提起した重要な質問を、日顕は今回、意図的に無視した。その質問は、「仏教と何の縁もなかった中世のヨーロッパでも、『阪神大震災』以上の大規模な地震が何度も起きている」「これらの大災害は、いわば『無仏の国』で起きたことであり、『大謗法』が原因とは考えられない」「とすれば、『阪神大震災』等についても『大謗法』以外の原因で起きた可能性を考慮すべきであるが、阿部はどうして、その考察を抜きにして〝大謗法によって災害が頻発している〟などと安直に言いふらすのか」といった内容である。日顕よ、逃げずに答えよ。

(六八)『日顕宗学批判』の中でも指摘したが、日顕の説く、図式主義的な〈ある地域における大謗法の横行→その地域における即時的な大災害の発生〉説は、大聖人の御書に見られない新説である。この日顕の新説は、いかなる「道理」「文証」に基づくのか。万人が納得できる説明をせよ。

一、日顕の十二月十三日付文書を読むと、「還俗背反」(二頁)「還俗の罪」(一三五頁)といった言葉が所々で目につく。日顕は、私を還俗者として取り扱うことにより、「僧の修行から脱落した」というイメージを衆人に植えつけたいのだろう。だが、『日顕宗学批判』で論証したように、私は剃髪以来、一貫して〝僧にして俗〟の在家者である。僧俗両面の意義を有する「在家僧」の立場であることは、昔も今も変わりはない。また肉食妻帯にして謗法者の集団となった現宗門において、「僧」「出家」の者など、どこを探してもいない。ゆえに私に対し、「還俗」と非難する資格すらないのである。

それよりも、大石寺正統の御本尊信仰を否定し、出所不明の法主信仰に堕した日顕一門の方こそ、意義の上で「還俗」の大罪にあたると言えよう。なぜならば、日顕らは、大石寺正統の三大秘法の伝持という僧の本務を放棄し、「僧形の在家者」「謗法大逆の在家者」へと転落したからである

日顕らは、とにかく形式的に日蓮正宗の僧籍を失ったことを指して「還俗」と決め付けたいのだろう。信仰を失い形骸化した、伽藍仏教の徒輩の虚しい遠吠えである。そこまで言うなら、日顕に問いたい。

(六九)阿部政子の弟である野坂昭夫は、「還俗背反」の大罪者なのか。そして野坂昭夫の〈還俗〉により、『出家功徳御書』に「六親眷属をも悪道に引かん」とあるごとく、阿部日顕・阿部政子・阿部信彰・阿部正教らの阿部一族は皆、悪道に堕すことが決定したのか。

(七〇)早瀬日如の次男である早瀬正寛は、法教院(宗門が東京都内に作った大学科)に在学中、高級ブランドのスーツに金のネックレスで夜の盛り場を闊歩するなど、遊蕩堕落の末に〈還俗〉した。ならば、新法主の早瀬日如も、法主でありながら悪道に赴くことが決定しているのか。

  阿部日顕に告ぐ。一年間にわたる私との文書法論に、最終決着をつけたいのであれば、以上の七〇項目の質問に答えてみよ。私の側は、日顕らの恫喝的な詰問にも、重要な点に関しては、すべて丁寧に答えてきた。今回、七〇項目にわたる私からの重要な質問を一つでも黙殺した場合、阿部日顕及び邪義破折班の敗北は客観的に確定する。以上、宣告する。

 

日蓮正宗青年僧侶改革同盟  松岡 幹夫