新・改革通信 NO.148 (平成30年9月27日) 渡邉慈済住職の証言―日蓮正宗と創価学会の初期の交流・末寺編(2)

檀家は僧侶よりも上?
 檀家の供養が少なかった妙光寺は、収入を増やすために「宅御講」を始めたが、当時の法華講は、今の法華講とは違っていたという。
 我々所化は、交替で月に七、八か所の宅御講に行った。お経が終わり、所化の我々が説法した後、講頭が最後に話をする。ところが、講頭の話といえば、先に話した我々の説法を批評したり、言葉尻をとらえて云々したり、僧侶より自分の方が偉いことを臭わせるものだった。文字通り、自分たちが金を出し、僧侶を養っているという傲慢さが表れており、とても嫌な思いをしたものである。(『日蓮正宗落日の真因』より)
 これは相手が所化だから、檀家が口うるさかったという単純な話ではない。当時の宗門では、檀家が大きな力を持っていたのだ。その証拠に、渡邉住職が妙光寺の寺男だったN氏から聞いた話を紹介する。

 昭和26年の7月のお盆頃でした。Nさんは急に語り始めました。
「前の猊下(63世日満法主、昭和21年に就任)が、丁度、昭和20年のお盆の頃、宗務院の達しをもって、妙光寺住職になったと云って、着任して来ましたが、とんでもない事だと、三ツ木講中と蛇窪講中の全員で拒否して、本山に追い返しました。総本山は末寺より貧乏だから嫌だったのでしょう」
 この話を聞いて、私はびっくりしました。末寺の住職を任命することは、総本山や宗務院ではなく、末寺に所属している講中の檀家衆である。(手記より)

後に法主になる住職を本山に追い返した檀家衆
 妙光寺の歴史を見ると、静岡県の沼津で廃寺寸前になっていたところを、富士本智境氏が東京の品川に移転した形を取って、明治28年に創建した寺である。初代住職の富士本氏は、55世日布法主の弟子で、妙光寺には日布法主の流れを汲む者が住職に就くべきであると檀家衆は考えていた。
 ところが、第3代として本山が任命した秋山慈円氏(63世日満)は讃岐本門寺出身であった。ゆえに、総代と檀家衆は秋山氏を拒絶して、本来であれば、次の住職のために宝蔵の鍵を開けるのだが、鍵を開けずに追い返したというのだ。
 
 ”檀家と住職の争い”は他宗ではよく聞く話である。寺の修繕のために、住職が檀家衆に頭を下げても、檀家達が納得しないなど。同じことが戦後の宗門でもあった。昭和22年7月、本山で開催された「講頭会」に全国30名の講頭たちが集まった。当時の課題は焼亡した客殿の再建であったが、講頭たちは、本山の維持経営について疑問を持ち、どのくらいの赤字なのかと執拗に問いただしたり、決算報告書を提示すべきと言い出した。
 そのような中で、戸田会長が宗門外護の精神を訴えたことは有名な話である。(続く)

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