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◆特集 創価学会出現以前の宗門は、「死に体」だった!!

新改革通信 77号 平成十九年十二月十九日発行
発行元 : 日蓮正宗改革同盟

日蓮正宗の「再生」の道を放棄した日顕の大罪!
創価学会出現以前の宗門は、「死に体」だった(一)


 今月、日顕は齢八十五になった。日顕のこの八十五年間の人生を後世の歴史
家はどのように位置づけるであろうか。
日顕の人生は、宗門の歴史と照らし合わせることによって、その悪の所業が、
一層明らかになる。
  すなわち、腐敗しきっていた宗門を救ったのが、創価学会である。創価学会
出現以前の宗門は、権力と金に塗(まみ)れていた。創価学会の存在がなけれ
ば、宗門が発展することなどなかったであろう。
  ところが、日顕は、その大恩ある創価学会を破門した。そして、その結果、
宗門は再生の道を絶たれ、再び、腐敗・堕落の世界に戻ってしまったのである。
  今回は、創価学会出現以前の宗門が、如何なる状態であったか、その実態を
述べる。

●日顕が恐れた、『日霑上人伝』の再版

近代の宗門の歴史を紐解くと、宗門の僧侶たちが法主の地位をめぐって醜い争
いに明け暮れていたことが分かる。

平成元年六月、五十二世日霑法主の百回忌を記念して、五十年前に出版されて
絶版になっていた『日霑上人伝』が再版された。これは自筆の自伝に堀日亨法
主が補筆したものである。

その際に日顕は「内容的に赤裸々な形の所もあり、一般の信徒の方に広くお分
かちするには多少どうかと思われる」と評している。すなわち、その『日霑上
人伝』には、一般の信徒に知られたくない内容があるという意味である。

その内容とは何か?
日霑法主自筆の自伝を初めて公開したのは、宗門機関誌『布教会報』であるが、
明治二十四年五月に発行された第二十一号の連載の第五回目で、前号の内容が
大幅に削除されることになった。

ところが、再版された『日霑上人伝』には、その削除された箇所が、そのまま
掲載されていた。日顕が一般信徒に知られたくないという内容はこの削除され
た部分のことであった。

●削除された宗門史の暗部

削除されたのは以下の文である。

「爰に一山の大衆事情ありて大に沸騰し挙って盛師に迫る 予聞くにたへず窃に
是れを扱へども其の彊ゆべからざるの事情を聞くを以て且く身を遠地に隠し其
の平穏を待たんと欲し、其の廿一日徒弟慈含僕藤平を具し窃に山を発し出府す
 是十度目。
時于衆徒此れに驚き盛師と和融に至りし旨を以て塔中惣代として久成坊、檀中
惣代として井出与五右衛門(狩宿伝右衛門の父)出府し亦タ英盛両師よりも懇
請の尊書あるを以て止を得ず其の五月初旬、久成坊等同伴にて帰山す 蓋し此
の時に当って盛師は其の先非を覚り謝表を残して下之坊へ隠遁の由し之を聞く」

ここに書かれているのは、大石寺で起きた火災により、その責任を問われ、時
の法主・五十三世日盛が、失踪した事件である。

「一山の大衆」とは僧侶たちのことであり、「事情」というのは、日盛法主が
登座後に起きた、大石寺の火災である。この火事は慶応元年(一八六五年)二
月二十八日夜半、大石寺大坊の下男部屋から出火し、客殿・六壺・大坊などが
焼失した。

このことで僧侶たちが、五十三世の日盛法主を追及し、前法主・日霑は、僧侶
たちが、日盛法主を追及するのを聞くに耐えず、密かに大石寺を下りた。

ところが、日霑法主が下山したことを知った僧侶たちは驚いて、にわかに、日
盛法主と和解した。そして、塔中の代表と檀家の総代が、隠居の日英法主(第
五十一世)と日盛法主の書簡を持参して、日霑法主に大石寺に戻るように懇願
した。

それを受けて、日霑法主が帰山すると、今度は、日盛法主が失踪したというの
である。

● 五十三世・日盛法主失踪にまつわる醜い争い

この話には続きがある。日霑法主は、行方不明になった日盛法主を捜すために
二人の僧侶を各地へ派遣したが、結局、見つけることはできなかった。そのた
め隠居していた日英法主が再び登座した。しかし、高齢のため、わずか一カ月
で辞意を表明し、日霑法主が再び登座することになった。

この状況は、日盛法主側から見ると全く別なストーリーになる。『諸記録』に
収められた手紙によると、大石寺を失踪した日霑法主は、六月には栃木の信行
寺に居を構えていた。

日盛法主は、大石寺の火災後、本山の僧侶たちが自分を追及したことや、日霑
法主がわざと大石寺を離れて帰山の懇願が起こるように仕掛けたこと、また、
つなぎの法主として日英法主を一カ月だけ登座させたことなど、すべて日霑法
主が再び登座して〃大石寺を乗っ取る〃ための陰謀であったと考えていたので
ある。

どちらの言い分が真実なのか。今になっては分からないが、いずれにしても、
当時の宗門では、信仰とはかけ離れた、僧侶間の陰湿な争いがあったことは確
かだ。

日霑法主が再度登座した半年後、大石寺はまた火災を起こし、今度は蓮葉庵を
焼失した。

この時、日霑法主はこの火事を「何か仏意を穢し奉り候御誡」、すなわち仏罰
か、それとも日盛法主の「我等へ御怨念之深々相懸候事も之あるか」、つまり

日盛法主の怨念によるものだと述べている。
法主とあろう者が、怨念などという、オカルトじみた考えに取り憑かれている
のであるから、呆れたものだ。(続く) 

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新改革通信 78号 平成十九年十二月二十一日発行
発行元 : 日蓮正宗改革同盟

日蓮正宗の「再生」の道を放棄した日顕の大罪!
創価学会出現以前の宗門は、「死に体」だった(二)

 歴史には、常に事実があらわれる。その事実を知ることにより、私たちは、
宗門が自分たちの都合に合わせて作っている「迷信」を看破することができる。

 前号で、日顕が信徒に知られることを恐れていた、「日盛法主失踪事件」に
触れたが、故・河辺慈篤も日盛法主関連の資料を持っていたと言われている。

 そして、それは「相承」にも関係するものであったという。だから、日顕は
河辺がその資料を公開するのではないかと恐れていたというのだ。

 その内容は『日霑上人伝』からも読み取ることができる。

●法主が相承せずに失踪。僧俗会議で法主を選出

 まず、『日霑上人伝』には「其の年十二月大衆檀徒等、学頭広道院を大坊へ
請待す 五十三世日盛上人是なり」と、日盛法主が大衆檀徒等により、法主と
して選出されたと受けとめられる記述がある。

 また、同伝には、日盛法主が失踪して、日英法主が再度登座した時のことを、
「盛師の還住歟然なくば英師の御再住あらん事を只管に懇望す 是に於いて衆
檀会議の上、英師御再住の事に決し予を迎ふ」と説明している。

 これは〃日霑法主が、日盛法主が猊座に戻るか、もしくは日英法主が再び登
座するように強く望んだが、衆檀会議で日英法主が再び登座することに決まっ
た〃ということである。ここでも「衆檀会議」すなわち、僧俗会議で次期法主
が決められたことが明記されている。

 また、本来であれば、六月に、日盛法主の「代替り法要」が執り行われる予
定であったが、日盛法主は五月に失踪してしまった。すなわち、日盛法主は、
「代替り法要」も経験せず、また、誰にも相承することなく退座した法主にな
る。

 宗門では血脈相承を「唯授一人」と言っているが、史実を見れば、僧俗の会
議で法主を選んだ場合もあるし、選挙で法主を選出した時期もある。また、焼
死した法主もいれば、相承もせずに失踪した法主もいるのだ。

 宗門は信徒が事実を知らないことをいいことに、自分たちに都合の良いこと
しか、教えない。しかし、そのような子供騙しが、いつまでも通じるはずがな
い。

 私たちは、一人でも多くの方が、正しい判断をできるように、あえて、宗門の
「秘史」を公開している。

●以前から「除歴」を恐れていた日顕

 日霑法主と日盛法主の確執は非常に深く、日顕はある僧侶に、「日霑上人は
日盛上人を歴代から除けと怒っていた」と語っていたという。

 日顕にとってこれほど恐ろしい話はない。もし、このような相承の裏面史が
世に出てしまえば、法主の権威が地に堕ちてしまう。何よりも、日霑法主が日
盛法主を「除歴」したがっていたという史実も露になってしまう。

 事実、河辺はそのことを知っていたから、学会が破門された後、日顕につい
て「将来、歴代からはずすしかない」と語ったのである。

●派閥争いの中心人物であった日顕の父

一八六〇年代に表面化した日霑法主と日盛法主との間の確執はやがて、「蓮葉
庵系」と「富士見庵系」との派閥の争いを生んでいった。

 この蓮葉庵とは、塔中坊の一つで開基は日霑法主である。富士見庵は、日英
法主が隠居所として使っていた坊である。すなわち、「蓮葉庵系」は五十二世
日霑法主の法系であり、「富士見庵系」は五十一世日英法主と五十三世日盛法
主の法系である。

 日顕の父親の阿部法運(六十世日開)は蓮葉庵系であった。そして、その阿
部と法主の座を争った有元広賀は富士見庵系である。

 この時に有元派は「有元推薦人一同」の名で『聲明書』を出しているが、そ
こに有元を推す理由について「蓮葉庵系の人は、四代も續いて猊坐に上つてゐ
るのに、富士見庵系の方は、一人も出ない、イナ出さないのであります。故に
今度有元師を出し、次に阿部師を出したならば、所謂謙譲の美徳を表現するこ
とになるからであります」とある。

 この「四代も續いて」というのは、五十六世日応法主、五十七世日正法主、
五十八世日柱法主、五十九世日亨法主のことである。だから、有元派としては、
今回は富士見庵系の有元に猊座を渡せ、と言っている。まるで政治の世界であ
る。

 これに対して蓮葉庵系の阿部派は『辨駁書』を出し、「蓮葉庵系がどうの富
士見庵系がどうのと淺見を振りまかぬがよからう、英師系の榮へたのも霑師系
の榮へたのも時と努力である、(中略)要するに吾々は宗門統治の上に於て系
統の消長を論ずべきものではない、只時の大勢次第で宗門の治まり方を考へね
(ば)ならぬものと思ふ」と反論している。

 いかにも、善人ぶった言い方であるが、当時の事情を知る者から見れば、こ
の阿部派の言い分は笑止千万だった。なぜなら、五十八世日柱法主を猊座から
引きずり降ろした黒幕こそ、阿部だったからである。

 そして、この「日柱法主追い落とし事件」ほど、宗門の血脈神話を崩壊させ
たものはない。何も知らないであろう、宗門の所化たちのためにも、引き続き、
宗門史の裏を明らかにしていく。(続く) 

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新改革通信 79号 平成十九年十二月二十三日発行
発行元 : 日蓮正宗改革同盟

日蓮正宗の「再生」の道を放棄した日顕の大罪!
創価学会出現以前の宗門は、「死に体」だった(三)

 日顕の父、日開こそ、近代の宗門を混乱に陥れた張本人であると言っても過
言ではない。

 事実、日開による「日柱法主引き落とし事件」は、宗門内の派閥争いで収ま
らず、文部省や警察を巻き込む大事件に発展した。

 そして、その恥ずべき事件は、当時の新聞で報道され、世間の知ることとな
ったのである。

●怨念に取り憑かれていた日開

 大正十四年(一九二五年)十一月十八日から、大石寺において宗会が開かれ
た。この宗会の初日に、二十六名の僧侶が秘密裏に日柱法主を追い落とすため
の「誓約書」に署名していた。

 その「誓約書」は、「現管長日柱上人ハ私見妄断ヲ以テ宗規ヲ乱シ、宗門統
治ノ資格ナキモノト認ム、吾等ハ、速カニ上人ニ隠退ヲ迫リ宗風ノ革新ヲ期セ
ンカ為メ、仏祖三宝ニ誓テ茲ニ盟約ス」との一文から始まり、八項目にわたっ
て日柱法主への批判が書いてある。

 そして、その四番目に「阿部法運ニ対シ強迫ヲ加ヘ僧階降下ヲ強要シ」とあ
る。

 阿部は、この宗会の約四カ月前に日柱法主より処分され、総務の職よりはず
されただけではなく、能化より降格されていた。

 能化の地位を失うということは、管長候補者としての資格を失うことを意味
していた。この阿部の処分は、日蓮宗系の学者であった清水梁山との問答で、
阿部が失態を演じたことが原因であった。

 日柱法主の退座理由に阿部の処分問題が挙げられているということは、この
「誓約書」の作成に阿部が大きく関与していたという証左である。

 日開が、自分を処分した日柱法主に対して、怨念を抱いていたであろうこと
は想像に難くない。

● 日開らは、法主を三宝に入れていなかった

 この「誓約書」を読んで分かる通り、当時は法主を批判するのに、「仏祖三
宝ニ誓テ」いる。すなわち、法主は三宝に含まれていなかったということであ
る。

 日顕らは、盛んに「法主は三宝の一つであり、法主批判は三宝破壊」と叫ん
でいるが、その論法で言えば、誰よりも日顕の父・日開こそ、三宝破壊の者に
なってしまう。

 日顕が、自分たちに都合の良いように、三宝の定義をコロコロ変えるから、
自分だけでなく、父親の首を絞める結果になるのだ。

●新聞で「脅迫事件」と報道される

 宗会は「誓約書」の筋書き通り、二十日に突如、日柱法主の不信任を決議し
て、辞職を勧告した。同時に日柱法主への嫌がらせも行われ、十八日の夜半、
客殿で勤行中の日柱法主に対して、ピストルのような爆発音をさせて威嚇した
り、客殿に向かって瓦や石を投げつけた僧侶がいた。

 蓮正寺住職河田がその事実を自供したことが、当時の『朝日新聞・静岡版』
(大正十五年二月二十日付)に書かれている。

 大石寺の脅迫事件 取調大に進行
 日蓮正宗大石寺管長脅迫事件の取調べは大いに進行し大石寺の最高幹部の僧
侶十三名は夫々大宮署に召喚十八日深更まで取調べ 身柄は一時放還されたが
大宮署では有力なる証拠を握つたらしく更に十九日には柚野村蓮正寺住職河田
正平(二六)を召喚取調べたが その結果昨年十一月十八日夜半前管長土屋日
柱師が本殿にて勤行中ピストルやうの爆音をさせたり本殿に向つて瓦石を投げ
つけたことなどを自供したので 共犯関係にある大石寺宗務院加藤慈忍(二
二)をも同日午後引致し 教さ関係について取調べ中で事件は各方面に波及す
るや大石寺問題は遂に破裂訴訟ざたとなるうである

 結局、日柱法主は二十二日に辞表を書き、当時の宗会議長であった小笠原慈
聞ほか三名が同日にその辞表を文部省に届出。届出の手続きは二十四日に完了
し、次期法主は「誓約書」にある通り、堀日亨法主とされた。

● 檀家が宗会の退座要求は不当と訴える

 ところが、大石寺の檀家総代らが、自分たちに何の相談もなく事が進められ
ていたことに怒り、二十七日の早朝、三名の代表を文部省に行かせて、宗会の
退座要求が不当であると、陳情を行ったのである。

 文部省宗教局は、檀家総代らの陳情に基づき、二十九日、三名の僧侶を召喚
した。そして、宗教局長はこの三名の僧に対し、
「貴僧等は社会を善導教化すべき責任の地位にありながら今回の暴挙を敢て為
すは何事か」(『静岡民友新聞』大正十四年十二月三日付)

 と厳しく追及し、十二月一日までに、日柱法主に対する不信任決議書と辞職
勧告書を回収して、文部省に提出するよう命令したのだった。

 帰山した三名は日柱法主に対し、二通の書面の返却を懇請したが、書面はす
でに檀家総代の手に渡っていた。大勢は逆転し、宗会側僧侶三名は、日柱法主
と上野村村長の立ち会いのもと、詫び状を檀家総代に提出し、やっとのことで
二通の書面を返却してもらった。

 宗会議員たちは十二月二十四日に管長の交替を文部省に届け、五十九世法主
は日亨上人に決まった。しかしここから、大石寺は二つに分かれ、泥沼の争い
が始まる。

 これが、創価学会出現以前の宗門の実態である。とても、日蓮大聖人の正義
を受け継いでいる姿とは思えない。さらに、事態は、信徒を巻き込んで、悪化
していく。(続く) 

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新改革通信 80号 平成十九年十二月二十五日発行
発行元 : 日蓮正宗改革同盟

日蓮正宗の「再生」の道を放棄した日顕の大罪!
創価学会出現以前の宗門は、「死に体」だった(四)

 今でこそ、日蓮正宗の信徒は僧侶に絶対服従を強いられているが、かつては、
信徒が法主の就任に対して、大きな影響力を持っていた。

●檀信徒の宗会糾弾が、文部省を動かす

 日柱法主を擁護するために結成された「正法擁護会」は、同じく日柱派の東
京の檀信徒たちと協力を始める。そして、新年早々、大正十五年一月十六日午
後一時より、神田和泉橋倶楽部において、「全国檀徒大会」を開催した。彼ら
は、この大会で宗会の横暴を天下に訴えた。

この日蓮正宗の紛争を沈静化させるため、文部省宗教局は、選挙によって管長
候補者を選出することを決定。被選挙権者の資格は権僧正以上とされ、阿部法
運は、僧階を降格されてから一年未満であったため、被選挙権者から除外され
た。

 その結果、被選挙権者は、日柱法主、堀慈琳(後の五十九世日亨法主)、有
元廣賀(品川・妙光寺住職)、水谷秀道(後の六十一世日隆法主)の四名とな
った。

● 日柱法主が〃相承拒否〃

 ここから、事態はさらに深刻化していく。一月二十五日、日柱法主が、突如、
『宣言』なるものを発表。そこには「不合理極まる辞職が原因となりて行はれ
る選挙に於て、日柱以外の何人が当選されたとしても、日柱は其人に対し、唯
授一人の相承を相伝することが絶対に出来得べきものでない事を茲に宣言する」
と、“相承拒否”という驚くべき内容が書いてあった。

●警官立会いのもとで行われた管長選挙

 そのような事態の中、大正十五年二月十六日、管長選挙がおこなわれた。そ
の模様を『静岡民友新聞』(大正十五年二月十六日付)が次のように報じてい
る。

 屡報宗門の恥を天下にさらし、宗祖以来七百年の誇り、血脈相承も棄てゝ管
長選挙に僧侶と壇信徒が対立して醜争をつづけている日蓮正宗大本山富士郡上
野村、大石寺の管長選挙も今十六日を以て投票を終り明け十七日開票の筈だが、
開票の結果は、壇信徒派擁立の土屋前管長の当選は到底覚束なく、僧侶派擁立
の現管長事務扱、堀慈琳師の当選は疑ふ余地なき確実なものと観測されている。
所轄大宮署では開票当日の大混乱を予測して官、私服の警官十余名特派し警戒
に努める模様だ

 管長選挙の開票に警官十余名が動員され、日蓮正宗内の対立は世間の物笑い
の種となった。

 新聞の予想通り、二月十七日午前九時五分より行われた開票の結果は、日亨
上人の圧倒的な勝利で終わった。

●前代未聞の警察の介入、文部省による調停

 ところが、この開票日に、また事件が起こる。大奥に大宮警察署の警部補が、
数名の制服警官を伴ってあらわれた。

 日柱法主擁護派が、〃日柱法主が辞表を書いたのは脅迫によるものだ〃と、
宗会議員、評議員総計二十一名を告訴したのである。

 その結果、翌十八日より関係者一同は、大宮署において取り調べを受けるこ
とになる。日蓮正宗の宗内抗争は、警察の介入という最悪の事態を迎えてしま
った。

 大宮署の取り調べにより、前号で紹介したとおり、日柱法主に嫌がらせを行
った二人の僧侶は、書類送検された。この他、十一名の僧侶が、日柱法主に対
する脅迫の嫌疑をかけられた。その中には、早瀬日如の祖父、早瀬慈雄も含ま
れていた。

 『朝日新聞・静岡版』(二月二十六日付)
 「大石寺事件送局 正法派は新管長の不認可を宗務局に運動」
日蓮正宗の本山富士郡上野村大石寺土屋前管長脅迫事件は去る十七日以来大宮
署において取調べを進めて居るが同寺宗務院の加藤慈仁(二二)及び同郡上野
村蓮成寺川田米吉(二八)の両人が脅迫の事実を自白しその証拠もあがつて居
るので二十四日一件書類を送局したが一方正法擁護派の田連(征)、中村、松
本、藤原の四氏は去る二十日文部省に下村宗務局長を訪問し不合理な選挙によ
り管長に当選した堀慈琳師の不認可を陳情し局長も之を諒としたる由送局納書
に乗つた人々は左の如くである

 駿東郡浮島村本廣寺 水谷秀道(五三) 東京南品川妙光寺 有元廣賀(六
〇) 大阪府堺市本俸 寺 小笠原慈聞(五二) 大石寺理境坊 相馬文覚
(三八)同交成坊 下山廉琳(四九) 同寂日坊 中島虜政(五七) 同歓行
坊 西川眞慶(五八) 同百貫坊 阪本要道(四六) 東京向島法道寺 早瀬
慈雄(四八) 日蓮正宗横浜教会 松本諦雄(三六) 駿東郡浮島村蓮楽寺
太田廣伯(五九)

 結局、この最悪の事態を治めたのは、文部省宗教局長による調停であった。
この調停により事態は急変した。

 日柱法主は相承を行うことを表明し、三月八日午前〇時から、本山において
日柱法主から日亨法主への血脈相承の儀が執りおこなわれた。そして、四月の
十四日、十五日に、代替法要が催された。

 この宗門の混乱はここで終わったわけではなかった。このような事態が二転、
三転して続くのは、当時の僧侶だけでなく、信徒も信仰を失っていたからであ
ろう。(続く) 

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新改革通信 81号 平成十九年十二月二十六日発行
発行元 : 日蓮正宗改革同盟

日蓮正宗の「再生」の道を放棄した日顕の大罪!
創価学会出現以前の宗門は、「死に体」だった(五)

●「隠尊料」問題で新聞沙汰に

 文部省の調停により、日蓮正宗の法主の座をめぐる争いは終えたかのように
思えたのだが、今度は日柱法主の「隠尊料」問題が浮上した。

 隠尊料は調停合意の時点では、現金三千円と白米七十俵であったが、三月八
日の相承の後で、現金一千円と白米二十五俵に減らされたと、ある「正法擁護
会」の者が暴露してしまったのである。

 当時の『朝日新聞・静岡版』(大正十五年三月三十一日)には、以下のよう
な見出しが出ている。

「むし返された大石寺の紛議」
「妥協案を守らぬとて前管長派が怒り出す」

 また、新聞には「前管長に対する待遇」として、以下のように掲載されてい
る。

一、御隠尊料として大石寺より金三千円を呈上する事
二、糧米として大石寺より玄米七十表を呈上する事
三、御隠尊所として新築住宅を呈上する事
 
 日顕も退座にあたり、隠尊料をもらっているのであろうか。約十億円をかけ
て改築された世田谷の豪邸もこの慣例にしたがっているのであろうか。だとす
れば、金銭的取引の血脈だけは、滔々と受け継がれていることになる。
 
●権力抗争の裏で腐敗堕落していた宗門

 創価学会出現以前の宗門は、猊座をめぐる派閥争いに終始していたが、それ
だけではなく、その裏で僧侶の腐敗堕落が進行していた。

 まず、日如がその血を引いているという、五十六世日応に関する新聞報道が
あるので、紹介する。

 『静岡民友新聞』(明治四十一年十月二日付) 
「日応の人となり」 
元来大石日応は人も知る如き色魔にて東京に妾を置き又大宮(注・今の富士宮)
其他附近に出でては飽くまで不品行を恣にして恥ぢぬ程の者にて檀家一千名に
上り名だたる大寺に居りながら一万円にも及べる借財に今は困む身となりて退
職して後任の大学頭を選任し不埒にも借財の尻を此際有耶無耶に葬らんと考へ
(以下略)

 説明を加えると、日応が妾を囲うなどの遊興で使った一万円は現在の一億円
に相当する。

●日開は、書類送検された者を法主として選んだ
 
 近代の法主の中には、単なるスキャンダルだけではなく、背任罪に問われて
書類送検された者もいる。日開が相承した日隆がそうである。『読売新聞』(
昭和五年十二月二十九日付)の見出しが衝撃的だ。

「宗務総監が妾ぐるひで背任」
 記事には「日蓮正宗の本山富士大石寺宗務総監である本所区向島小梅町常泉
寺住職水谷秀道師(五六)」とはっきりと記載されている。
二十六日水谷師は『背任罪』として一月四日の御用始めに一件書類を東京地方
検事局に送ることになった。同師は二年前常泉寺住職となり、続いて本山の宗
務総監になったが以来、前記待合を根城として、僧侶の身分を忘れて豪遊し、
浅草公園の芸妓紋弥こと、諸岡はつ(二一)を落籍して外妾として囲ひ寺有財産
約九千円を費消したほか約三万円の手形を乱発していた破戒行為を同署椎名刑
事に探知されたものであるが(以下略)

 この水谷が浪費した、当時の三万九千円は、今の一億円に相当する。
 日応にしても、この日隆にしても、その浪費した金額は、今の「一億円」と
いう、巨額なものだ。要するに、宗門の異常な腐敗堕落は、明治の時代から始
まっていたということである。

●日亨法主の宗門改革を邪魔した役僧たち

 五十九世に就任した日亨法主は、この権力闘争に明け暮れる宗門の改革を必
死に目指した。しかし、『告白』に「昨年の宗制改正案について自ら七八の新
案を参考に提出せしも起草委員又は宗務職員又は評議員等が其中の重大案まで
も殆んど黙殺せる」とあるように、役僧たちがその改革を阻止したのである。

 日亨法主は、本山の役僧たちが自分たちの利益にしか興味がないことに呆れ
果てた。それよりも、念願の御遺文集を作ることに専念したい――『告白』に
は退座の大きな理由として、「二三十年必死と念願せし編纂著作の聖業も泡沫
と散り失する如何にも死んでも死にきれぬ残念さである、此が先づ大々主因で
ある」とある。
 
 日亨法主は隠尊後、『富士宗学全集』の発行、『御書』編纂に全精力を傾け
られ、本来、秘伝である相伝書を公開した。それは、誤った法主が相承を神秘
化し、それを権威にして宗内僧俗を従わせることが今後も起こる。否、広宣流
布が近づけば近づくほど、必ず、そういう事態が起きると予見していたからで
あろう。

 念願の『御書』の編纂では宗内の援助は乏しく、戸田会長を中心に、学会が
全面的に協力をして完成した。当時の宗門は、『御書』の編纂よりも、戦時中、
軍部に供出して、なくなっていた「梵鐘」作りを優先していた。情けない話で
ある。

 ある時、日亨法主は戸田会長に言った。「あなたが、四百年前に生まれてき
ていたら、日蓮正宗はこれほど滅びはしませんでしたろう」と。また、「戸田
さん、あなたがいなかったら日蓮正宗はつぶれていたよ」と述べたこともあっ
た。

 この当時の宗内の猊座をめぐる権力闘争の内幕と腐敗堕落ぶりを知れば、こ
の意味はよく分かる。まさに、日蓮正宗は自力では蘇生できない「死に体」だ
ったのだ。(続く)

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新改革通信 82号 平成十九年十二月二十七日発行
発行元 : 日蓮正宗改革同盟

創価学会出現以前の宗門は、「死に体」だった(六)
「日蓮正宗」になって、まだ九十五年。清浄だったのは、創価学会と和合して
いた時だけ

 
 平成二年十二月二十七日、 日蓮正宗の宗規が改正されたことに伴い、池田
大作法華講総講頭ほかが資格を喪失した。「C作戦」の実行であった。

 権力抗争で「死に体」であった宗門を復興させた創価学会の大恩に対して、
日顕は仇で返したのである。繰り返して言うが、それは、日顕が宗門の再生の
道を自ら放棄したことを意味する。

● 「日蓮正宗」九十五年、「創価学会」七十七年
 
 宗門は、「七百年の歴史」と宣伝しているが、実際には、富士門流、日蓮宗
興門派、日蓮宗富士派と、日蓮宗の弱小一派でしかなかった。

 それが「日蓮正宗」と認可されたのは、一九一二(明治四十五)年、第五十
七世法主・日正の時である。それから、九十五年しか経っていない。

 そして、創価学会設立が、一九三〇(昭和五)年、七十七年の歴史。十八年
の差でしかない。
 
●独立した途端、身延派の「大師号」運動に参加
 
 今まで、どこの教団からも相手にされていなかった大石寺は、一宗となった
が、まだ、劣等感が強かったのであろう。大教団に仲間入りをしたくて、早速、
「大師号」請願運動に参加する。

 これは、顕本法華宗の本多日生が中心となって、大聖人に大師号をもらおう
とする運動であった。

 この時に、宗門でこの運動を積極的に進めたのが、当時、宗務院総務であっ
た日顕の父・阿部法運(日開)であった。

●身延に大聖人の墓があることを認めた日開
 
 さらに、身延派の最有力教団の日蓮宗は、「立正」の勅額を身延山の御廟に
掲げることを画策した。そのために、日蓮宗は、宮内大臣及び文部大臣に請願
書を提出した。

 そして、勅額降賜の条件として、日蓮宗に対して、他の日蓮宗各派が大聖人
の墓が身延山にあることを認め、勅額降賜に皆が賛成したことを証明する「念
書」の提出が求められた。この時、阿部日開も、この念書に自署押印したので
ある。

 日顕は禅寺に墓を建てたが、親子して墓にまつわる謗法を犯しているのであ
る。

● 創価学会が出現するまでの十八年間は、謗法、派閥争い、腐敗堕落が充満

 宗門は「日蓮正宗」になった途端に、謗法与同から始まり、法主の地位をめ
ぐる派閥争い、そして、供養を遊興で浪費するという堕落ぶりを見せている。

 そして、その凋落は、創価学会が出現するまで続き、戦後の宗門はその貧し
さから、大石寺の観光地化まで検討していた。

 このように腐敗・堕落して信仰を失っていた宗門だからこそ、戦時中に軍部
から脅されて、簡単に神札を受けたのであろう。

●宗門の本質を見抜いていた牧口会長

 牧口初代会長は、昭和十七年十一月の創価教育学会第五回総会で、「日蓮大
聖人御在世当時の天台宗は、現今の日蓮宗の中でも『日蓮正宗』に相当すると
思はれる」と言われている。

 大聖人在世の天台宗は、法華経が最高の法であると知っていながら、邪悪と
戦わず、それどころか、大聖人を迫害する側に回った。

 牧口会長は宗門の僧侶と接し、彼らが広宣流布など眼中になく、権力と金銭
にしか興味がないことを見抜き、やがて僭聖増上慢として、創価学会を迫害し
て来るであろうと感じていたのである。

 事実、その翌年、昭和十八年六月、牧口会長と戸田理事長は本山で、六十二
世日恭から、神札を受けるように言われ、それを拒否した二人は、軍部の迫害
を恐れた宗門から「登山停止」の処分を受けた。

 その結果、何が起こったか。日恭は客殿の火事で焼死し、牧口会長は牢獄で
殉教された。仏罰と不惜身命、正邪が明らかになった。

● 創価学会だけが、大聖人の血脈を守った

 「信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり」UUこの大聖人のお言葉
に従えば、謗法与同の大石寺に血脈はなく、謗法厳戒を貫いた創価学会が血脈
を受け継いだことになる。

 すなわち、すでに信心の血脈を失った宗門は、血脈を受け継いだ創価学会と
和合していたから、功徳と発展があったのだ。

 日顕はこのことが、まるで分かっていない。僧侶主導の体制を作るために、
日顕は創価学会を破門にしたが、それは、大聖人の血脈を受け継いでいる、唯
一の和合僧団から、自ら離れてしまったことを意味している。
 
 今回、六回にわたって、創価学会出現以前の宗門の歴史を紹介した。その意
図は、創価学会の存在がなければ、今の宗門など跡形もなかったということを、
宗門の所化たちや法華講員に知ってもらうためである。

 もし、宗門が滅亡を逃れることができるとすれば、それは中にいる者たちが
真実に目覚めるしかないからだ。

 将来の宗門を背負う世代が、日顕の犯した罪の大きさに気付き、創価学会と
歴代会長に対する大恩に報うべきであると立ち上がる時が来ることを我々は、
願っている。

 また、それ以上に、我々は大聖人の弟子として生き抜くことを決意している。
だからこそ、広宣流布の妨害をする日顕らを絶対に許さないのである。

(このシリーズ終わり)
 
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